イニシャルG

ヴィンテージ

イニシャルG

 いる。

 二度見をするまでもない存在感だった。中間レポートを片付けて、パソコンからふっと目線を上げた先で、黒光りする体と改装したての白い壁とが強烈なコントラストを作り出していた。あまりにも異様な取り合わせは、出来の悪いコラージュのようにも見える。

 息を殺したわたしが座椅子から立ち上がると、その体のどこで気配を察知したのか、ヤツはベッドの下に這って隠れてしまった。

 忙しさを言い訳に、水回りや冷蔵庫下の掃除を先送りにしてきたことをひとしきり嘆いた後、わたしはもっとも信頼のおける友人を呼びに隣室へ向かった。扉を三度ノックする。

「シン、遅くにごめん。ちょっといいかな。」

「どうした。」

 角部屋と言えど扉が薄いのは同じで、会話をするには郵便受けに口を近付けるだけで事足りた。

 彼は苗字をにいと言ったが、呼びにくいので音読みでシンと呼んでいた。静かな喋り方と、凪いだ水面のように穏やかな表情を崩さない彼に似つかわしい。今も、ドア越しの涼しげな顔が想像できた。

「情けないことに、部屋に例の虫を出してしまって。退治してくれないかな。」

「すぐ行く。気にするな、怖いものは人それぞれだから。」

 シンは快く了承し、間もなくして玄関のチャイムを鳴らした。わたしが扉を開けて部屋の中に招き入れるなり、シンは超能力者よろしく目を閉じ、ベッドの下あたりに向けて手をかざした。殺虫スプレーを構え、「いるな。」と言う。

「ひとまずゴキブリを広いところに出そう。最悪なのはゴキブリにベッドの上で死なれることだ。そうだな、テレビ台近くにゴキブリを誘導して。」

 淡々と作戦内容を伝えるシンに、わたしは「待って。」とストップをかける。

「なんだ。」

「その呼び方を止めて欲しい。その、ゴキブリっていうのを。」発音するだけで、口の中が汚染されていく感覚に侵される。躊躇いなく連呼するシンの神経を疑いたくなった。

「ここはひとつ、角無しカブトムシと呼ぼう。」

 わたしがそう提案した瞬間、滅多なことでは動じないシンの顔色がさっと変わった。

「おれが甲虫好きだと知ってて言ったなら、大した度胸だ。一人で何とかできそうだな。」

「ま、待って。」

 足早に玄関へ向かうシンを引き留め、平謝りする。議論の末、互いの譲歩によって呼び名は「G」で落ちついた。

「Gをおびき出すぞ。クローゼットの前に立って、逃げ道を塞いでいてくれ。」

 わたしは頷くとクローゼットの扉を閉めて、門番のような心持ちでその前に立った。念のためスリッパも履いた。

「よし、いくぞ。」

 シンがベッドの頭側を少し持ち上げ、下ろすこと三度。Gが凄まじい速さで飛び出した。慌ただしい足音に似合わない鮮やかなコーナリングでわたしの前を通過し、狙い通りテレビ台近くにやって来る。

 先回りしていたシンが、G目がけて殺虫剤を噴射した。不意を突かれたGはそれをまともに浴び、動きを鈍らせる。シンが間髪入れずに追撃をすると、体をひっくり返して藻掻き出した。気色悪くても目を逸らさなかったのは、一方的に命を奪うからには最期を見届ける責務があると感じたからだ。するはずのない断末魔を聞いた気がした。

 Gが動かなくなる。

 駄目押しにもう何秒か、プシューッとやって、シンは腕を下ろした。わたしの方を見て重たげな一重瞼を少し持ち上げる。

「何を泣いてるんだ。」

「自分でも分からない。」わたしは涙を拭いながら答えた。

 頭に過ったのは、製薬会社に勤める母から聞いた話だ。それ自体が汚いのではなく、彼らが生存できる空間が汚いのだ、と熱弁していた姿が記憶に残っている。わたしの自堕落によって顕現し、わたしの身勝手さによって消されたのだ、と思うと涙が止まらなかった。

 鼻をすするわたしを訝しげに見ながらも、シンは突き放すようなことはしなかった。代わりに「トイレを借りるぞ。」と断りを入れると、トイレットペーパーを一巻携えて戻って来た。

「そんなに哀れなら、戒名でもつけてやればどうだ。」Gをトイレットペーパーで包みながらシンが言う。

「戒名かあ。」名案だと思った。自分への教訓にもちょうどいい。

「捨てる前につけてやれ。袋はあるか? 」シンがトイレットペーパーの塊を持って振り返った。

「ああ、そうだった。ごめん。」わたしは彼に、コンビニでもらったビニール袋を手渡す。受け取って持て余していたそれを入れると、「あ。」とシンがしゃがみ込んだ。ベッド下を凝視している。

「どうしたの。」

「もう一匹いる。小さいのが。」

「え。」

「大丈夫だ、もう死んでる。」

 パニックになりかけたわたしをシンがなだめる。さっきより少なめにトイレットペーパーを取り、Gジュニアを摘まんで観察した。

「オスだな、これは。」

「じゃあミスターGか。」

「なんだそれは。ちなみにさっきのはメスだったな。」

「メスの方が大きいなんて、なんだか国際カップルみたい。」

「おまえは感受性豊かだ。」

 シンはすっかり呆れてしまったようだった。ミスターGの方も念入りに梱包して袋に入れ、後処理が終わった。

「決めた!」わたしは涙を袖口に吸わせると、一大決心をする時のような熱量と声量で言った。直後、ここが寮であることを思い出して声を落とす。

「さっきのがブリリアン、今のが黒郎こくろう。」

「こくろう? ああ、コクローチからか。」

 さすがシンは察しがよかった。わたしに気を遣ったのか、黙とうをしてから袋の口を固く結ぶ。

「捨てるのは任せていいか。」

「も、もちろん。」

 わたしは袋をおっかなびっくり引き取った。今にも彼らが息を吹き返してガサガサと暴れ回り、袋を食い破るのではないかと恐れずにはいられない。

 今夜中に下のゴミステーションに捨てておこうと、スリッパを脱いで靴をつっかける。ドアノブに手をかけて振り返るとシンの姿が消え、トイレの電気が点いていた。トイレットペーパーを戻すついでに掃除をしてくれているのだろう。

「シン、今日はありがとう。迷惑かけたよね。」

「いいんだ。」シンは呆れを滲ませながら、だけど、どこか嬉しそうに言った。

「怖いものは人それぞれだから。」



「ねえ上里うえさとさん、よくあそこに住んでるよね。」

 翌日、一限開始前のことだ。前の席に座っていた宮さんが首を回して話を振ってきた。尊敬というよりは軽蔑に近い言い方だったが、レポートが終わって肩の荷が下り、G騒動も片付いて上機嫌だったわたしは気にせず答える。

「家賃安いから。」

「そういや、昨日誰かと喋ってなかったか?」横から口を挟んで来たのは、わたしの右隣に住む猿渡だった。

「ごめん、友だちが来てて。うるさかった?」

「いや、ちょっと聞こえる程度だったし。ただ、大分遅くにチャイム鳴らされてたから、なんかあったのかと思って。」

「気持ち悪。」宮さんがぼそっと呟いた。途端、猿渡の顔が青ざめる。

「いわくつきな上に壁まで薄いんだ。私だったら猿渡に生活リズム把握されるとか絶対無理。」低い声で吐き捨てた後、「ほんとよく住んでるよね。」と、今度は忌避感を隠そうともせずに言った。

「安いから我慢できてる。」

「なあ、今のセクハラに入るの? 」

 なあって、と落ち着きなく席の周りをうろつく猿渡を軽くいなしながら、わたしはアパート見学時に部屋の前で大家と交わしたやりとりを思い出していた。

「ここの角部屋は、これから誰か入る予定なんですか?」

 以前下見に訪れた際も、カーテンはかかっておらず、窓から備え付けの家具が見えるぐらいで人の生活している気配はなかった。家賃のことを考えて心は中部屋に決まっていたから、好奇心で尋ねてみただけだったが、返ってきた大家の反応は予想外のものだった。

 痛いところを突かれたという様子で、「これから話すつもりだったんだけど。」とばつが悪そうに顔を伏せる。

「そこには、先客がいたと言うか、今も主人がいると言うか。」

 しばらく言葉を濁していた大家だったが、最終的には「まあ、出るのよ。」と直截に打ち明けた。

「二回生の男の子でね。いい子だったんだけど、何を思いつめてたのか、突然、薬で。」

「そうだったんですね。」最後まで説明させるのは酷に感じて、遮った。

「で、ご希望の家賃に合せようと思うと、上里さんの部屋が、そのお隣になるんだけれど。」

「そうですか。」

「部屋自体に汚れはないのよ、もちろんお隣も。あんなことがあったから、壁と床の張り替えはしたけど。マメな子だったから、むしろ入居時より綺麗で。」大家はわたしがそういったことを気にかけない性格だと気付いたからか、にわかに饒舌になった。

「あ、そうそう。出やすいと言えば、ここ、あのカサカサ虫さんもそうなんだけど。」

「え。」

「春も夏も、一回も出たって話は聞かなかったなあ。置いてた殺虫スプレーも使われた跡がなかったし。」

 カサカサ虫について詳しく訊きたかったが、大家にとってはこの場で角部屋で起こったことの全てを説明しておく方が先決らしかった。ぐっと堪えて続きを促す。

「前に一人ここを借りた男の子がいて、彼から聞く限りでは害はなかったみたいなんだけど、勝手に掃除されてることがあったりして。気味悪がってすぐ出てっちゃったの。だからもし上里さんがこの角部屋に入るとなると、その彼と同じく。」

guestという形に? 」

「なるね。」



「まあでも上里さんなら、本当に出たとしても動じないだろうね。」

「分かる。」宮さんの台詞に、猿渡が指を向けて同意する。

「全然、そんなことは。」

 彼らに抱かれているイメージと実際の自分との落差に驚き、手を振って否定した。

「昨日なんて、例のカサカサ虫と遭遇して、恐怖で失神しかけたぐらい。」

「上里が? 恐怖で?」猿渡がこれ以上ない程つまらない冗談を聞かされたとばかりに顔を歪め、首を捻る。

 ちょっと想像できないなあ、本当かよと苦笑する二人にわたしは、Gを颯爽と退治する、隣室の主人hostの口癖を借りて答える。

「怖いものは人それぞれだから。」

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