第9話
観音開きの鉄扉を開けた瞬間、蘭子は強い電灯の光に目を細めた。地下室は、建築図面で見ていたとおり、社交場のホールのような広い空間が広がっていた。とはいえ、シャンデリアはなく、コンクリート打ちっぱなし壁には何の装飾もされていない。真ん中を通路が通っていて、その両端に太い柱が等間隔に並んでいた。柱の間を埋めるように奇妙なガラス製の道具が広げられた長い実験机が設置されている。部屋はちょうど真ん中で仕切られていて、半分から奥にかけては十尺ほどある文書保管用の棚が南壁面にはめ込まれた鉄扉まで続いていた。
実験机の椅子はどれも無造作に並んでいる。騒ぎを聞きつけて皆外に出て行ったのだ。人気のない不気味さが冷たいメスのように蘭子の背筋を撫でる。
そのとき、ヴァイオリンの奏でる崇高な調べが蘭子の耳に入ってきた。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番、最終楽章『シャコンヌ』。
蘭子は音の方へ駆けだす。それは柱の裏側から聞こえいていた。柱の裏からパイプベッドの先がはみ出している。
「馨ッ!」
柱から顔を出した蘭子は、その光景に青ざめる。病衣姿の馨はベッドの上に座り込み、虚ろな目をしたまま自分の膝の辺りを見つめていた。片腕はベッドのパイプに縄で繋がれ、逃げ出せないようになっている。趣味の悪い人間が作った馨の姿をした人形。受け入れがたい光景は現実感に欠けて、蘭子にはそう見えた。
「いいヴァイオリンだね。やはり一ノ井さんは裕福な家に君を入れたようだ」
足許の辺りに白衣の男が座っていた。ヴァイオリンをゆったりと構え、傍の机には、積みになった書類と注射器の間に新調したばかりの馨のカレル瓶が置かれている。
「ぜひ君の演奏を聞きたいと思っていたんだが、また今度にさせてもらうよ」
男は馨を気遣うのと同じくらい、ヴァイオリンとその弓をそっと机に置く。男は蘭子に身体を向けた。
「やっぱり来ると思っていたよ。火が出たなんて聞いたからピンときた。揺動だとね。僕は藤村兼吉。ここで人為的な記憶喪失の――」
滔々と語り出した兼吉を名乗る四十代ぐらいの男を前にして、蘭子の後ろを付いてきた飯島の反応は早かった。兼吉の殴り倒すと、その身体をいとも簡単に放り投げた。中肉中背の身体は馨の後に備え付けられていた下駄箱のように積みあがった戸棚に激突する。倒れたそれが兼吉の身体を圧し潰した。
「女の拘束を解いておけ。ガソリンを撒いてくる」
服の内側に容器を隠し持っていた飯島が計画どおりに行動を始める。蘭子は、馨の肩を揺らして何度も名前を呼んだ。
「――――――…………蘭子、ちゃん?」
「そうだ。助けに来た。すぐにここから出るぞ」
持ち込んだナイフで縄を切った蘭子がベッドから降ろそうとすると、馨がしがみついてくる。下半身にかかった薄い布切れからのぞく足のアキレス腱には太い杭のようなものが貫通していた。
「記憶喪失の実験をしている」
崩れた戸棚の瓦礫から声がした。痛がるような呻き声はなく、穏やかで落ち着いた声音は変わらない。這い出してきた兼吉には白衣が汚れても肌には何の傷もなかった。
「メディウムか……」
「菅野川君から話は聞いているよ。君と同じさ」
「馨に何しやがったッ!」
「何もしていない。一ノ井さん――黒川さんの父を殺したのは僕だと告げたまでさ」
「この――!」
蘭子は兼吉を殴りつける。痛みに慣れているのか、転倒した兼吉は特段怯える様子もない。
「おい――!」
慌てた飯島の声と共に続けざまに二発の銃声が轟いた。地下室に反響し、飯島の思い身体が慣性のままに転がる。
「痛っぇぇえええ――! この糞ッ! 軍の野郎が二人来てやがる」
脚を抑えて飯島が唸り声をあげた。何とか立ち上がって蘭子は物陰に隠れる。入ってきた鉄扉の前に菅野川と棲月の姿があった。
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