第8話

 馨を自宅に送り届ける頃には、陽はすでに建物の遠景で沈みかけていた。悪酔いした馨は、鯨飲のツケを払うかのように市電の停車場で何度も降りながら帰ったため、普通よりも大幅に時間を要した。

 蘭子は家の前まで馨を送るつもりだったが、お父様が怒っているだろうから、と一つ前の街区で別れることにした。ただでさえ外出を禁止されているため賢明な判断だった。

 酩酊状態だった馨も別れるころには、幾分かマシになっていた。バーでの痴態を悔いて蘭子に平謝りを繰り返す。


「今日は本当にごめんなさい。あんな姿を人に見せるだなんて、もう恥ずかしい……」

「いい勉強になったと思えばいいだろ。別に誰にも言いふらしたりはしねぇよ」


 いくら飲んでも記憶は失わないタイプなのだろう。馨は記憶を遡ってははっとして落ち込んでいた。酒の失敗は見慣れている。〈リャナンシー〉では十八時以降、酒類も提供している。酒の強さを豪語して、店の中で倒れる客は度々目にしていた。


「それにしても、また秘密が増えてしまったわ」

「秘密?」

「蘭子さんとの秘密よ。このままだといつか他人には言えないことの方が多くなってしまいそうね」


 熟れた夕陽が馨の横顔を照らしていた。他人には言えないようなこと。言えないようなことを二人でする関係。蘭子はその言葉に反応して色々と考えてしまう。純粋に言っている馨がいじらしかった。

 桃色に色づいた妄想を両手で散らして、蘭子は話を逸らす。


「そうえば、よくあの事務所に辿り着けたな。迷わなかったのか?」

「全然。私、方向感覚は鋭い方なの。昔からお父様の狩猟に付き合わされていたせいね」


 鼻に掛ける様子もなく、むしろ辟易するような物言い。余計に貴族的な品性が際立っていた。


「ところで、今度ドジョウ汁を食べに行くのはどうかしら? 何度も目にしていたら気になってしまったの」

「うん。迷ってたんだな」


 そんな会話をして別れたのがつい先日の話。

 例のごとく蘭子は、学校帰りに探偵事務所に向かった。

 事務所に入ると、そこに律世の姿はなかった。代わりにアキが棚の上をはたきで掃除していた。開け放たれた窓から入って来る風は少し肌寒い。


「あ、東雲さん。こんにちは。律世さんなら――」

「言わなくても分かってる。またバーかどこかに行ってるんだろ」

「いえ、今は一階に。資料を閲覧しています」


 探偵に振り回される助手に同情するようにアキは眉根を下げた。礼を言って蘭子は階段を下る。一階に入るのは初めてだった。

 一階のドアを開ける。紙とインクと黴の匂いがした。部屋を満たす空気はややさっぱりとしている。気温自体は外と同じで熱いわけでも寒いわけでもない。ただ不思議と静謐な感じのする部屋だった。部屋の構造自体は二階の事務所と変わらないが、背の高い本棚が奥まで等間隔に並んでいた。

 蘭子はそれぞれの棚につけられたラベルを眺めながら奥へと進む。新聞、官報、帝国大学の卒業者名簿などなど。


「あら。やっと来たわね」


 本棚の角から蘭子が顔を出すと、声は上から降ってきた。


「まったく、この三日間ずっと駆けずり回りっぱなしよ。眠っている時間もなかったわ」


 愚痴をこぼしながら本棚に備え付けられた梯子から律世が下りてくる。一冊の資料を小脇に抱えていた。

 蘭子は、ふと手近な書籍に触れてみる。背表紙も綺麗に並んでいてよく手入れが行き届いている。だがどんな機会に使うのかは見当がつかなかった。手に取った書籍の背表紙は墓誌録と書かれ、帝都の地域別に並んでいた。


「それは編纂中よ」

「何に使うんだ?」

「血縁関係を調べるときに必要なの。依頼者には調査相手の出自を知りたい人も多いわ」


 地道な作業に気が遠くなりながら蘭子は資料を戻した。


「私としては、あの新村という男に掛けたいと思っているわ。リストにあった記憶喪失者の調査は今のところ何も収穫がなかったから。それに新村はメディウムよ」


 記憶喪失に関する技術は、メディウムのために開発されたと以前に律世とアキから話を聞いている。律世が意気込んでいるのも納得できた。開いて見せられた資料の文字を蘭子は斜め読みする。


「陸軍が発行した名簿に名前があったわ」


 名簿という通りそこには部隊や階級ごとに氏名が羅列されていた。紙面の端に新村三之助とあるのを蘭子は見つける。


「大雑把には経歴を把握したわ。日露戦争勃発時に徴兵され歩兵第三十四連隊に所属。沙河、奉天と会戦に参加して、終戦後はそのまま職業軍人に。メディウムとなったのはこのときのようね。第八小隊はメディウムで組織される部隊よ。最終階級は伍長」


 律世は本を閉じて続ける。


「念のため過去の居住地も調べたわ。除隊後はすぐに静岡県から現住所へ転出。メディウムとなったことで地元に居づらくなったのは想像に難くない。その二年後の十月。妻、ツイと婚姻関係になり現住所に戸籍を置いたようね」

「不死身になった後に結婚したのか?」


 メディウムとの婚姻は当然ながら忌避される。世間的な観念から考えて蘭子は疑問に思った。


「そのようね。ツイさんの戸籍も調べたけれど戸籍は婚姻関係を届け出たときに作られたのが初めてだった。つまりそれまでは住民記録台帳上に存在しなかった」

「何者なんだ?」

「はっきりとしたことは不明よ。ただメディウムと添い遂げようとする人間は世間にそう多くない。おそらくは鮫ヶ橋や万年町――細民貧民窟の出身だと思うわ」

「認められない者同士の結婚か……」


 蘭子は思わず独りごちた。心臓がささくれを捲るように痛んだ気がして、肩で本棚に寄りかかる。

 自由恋愛は、その存在こそ知っていても、家柄や階級が重要となる華族の蘭子にとっては幻でしかない。相手が異性となればそれ以上だ。だからメディウムとなることに躊躇はなかった。どうせ望む人とは添い遂げられない。


「世間が彼らを許すことはないでしょう。それでも二人は愛を貫く。とても幸せなことだわ。そういう意味では、どこかの誰かさんの恋も負けてないわよね」


 律世が瞼を細めて目配せをする。そう言ってくれたおかげで蘭子は随分と胸が軽くなった。律世のロマンチックさに密かに感謝する。メディウムであることが世間に許されることはないだろう。それでも関係ないと今は思える。


「当然だ。メディウムになろうと私は死ななかった。たかが世間の目ぐらい潜り抜けてみせてやる」


 改めて宣言すると顔が熱くなってくる。律世は無言のままにこにこしていた。余計に恥ずかしくなって肩が震えてくる。含羞を覆い隠そうと蘭子は腕を組んで見せた。


「……なんだよ」

「いいえ」


 と律世。ところで、と話を切る。


「蘭子さんはどうやら勘違いしているようね」

「何をだ?」

「メディウムになろうとした人の七割以上は自身の細胞にカレル因子が適応できず死に至る。世間では一般的にそう言われている」

「違うのか?」

「ええ。真実とは少し乖離しているわ。定説通り、細胞は不死で永遠に分裂を行う。それはどんな人でも共通事項よ。つまり誰であってもメディウムになることは可能なの」

「それはおかしい。もしもそうならメディウムはもっと一般的な存在になるはずだ。誰だって不老不死を望むだろ」

「七割以上の人たちの死因はカレル因子そのものではないわ」


 律世は肩を竦める。


永遠メディウムに不備はない。むしろ完璧だったからこそ、彼らは永遠であることに耐えられず、自死を選んだのよ」


 まさか、と口内にのみ発して言葉を飲み込む。冷ややかな驚愕に言葉を失うと同時に、蘭子はそれが根本的に矛盾していることに気がついた。


「ちょっと待て。メディウムなら死ねないはずだろ? 望んだところで自殺できない」

「カレル因子がもたらした恩恵は細胞の老化抑制、増殖能力の向上、癌化の阻止。私たちの細胞は酸化せずRNAの誤転写も起こらない。けれど、そもそも代謝できなければ私たちは生きていけない。つまり餓死や窒息死は免れない。自殺としてはもっともポピュラーな首吊りで、私たちはこの世の中から逃げ出せるのよ」


 言外に含んだその口ぶりから、律世も逃げ出してしまいたいという衝動に駆られた経験があるかのように、蘭子には思えた。今もそれを望んでいるのか。それを読み取ることはできず、訊くことはもっとできなかった。


「永遠に生きるということは、自分以外のすべてが失われていくということよ。そしていつか自分の愛や情熱すらも。退屈という言葉では言い表せないほどの虚無感を経験することになるわ。多くの人は経験せずとも、それを思うだけで耐えられなかった。それが今はまだたった七割で済んでいるだけなのよ」


 そっとため息を吐いた律世は、手にした名簿を小脇に抱えて本棚の梯子を片付け始める。ぽつりと蘭子に向けて呟いた。


「だから蘭子さん。あなたの愛が試されるのは、むしろこれからよ」


 例えばそれは、誰も重力には逆らえないように、蘭子を救うことは誰にもできない。そう聞こえて木霊した。耳を塞ぎたくとも、それは耳鳴りのように響いた。


「と、まあ、蘭子さんには何も問題はないかもしれないわね」


 律世は平然と言う。


「だって鈍感そうですもの」


 馬鹿にしてんのかな。

 蘭子は肩をいからせたが、すぐに力が抜けた。怒る気にはなれない。だからというわけではないけど、蘭子は代わりに啖呵を切ることにする。


「ああそうだろうよ。なんとでも言いやがれ。なんて言われようと、私には馨を好きでいる自信があんだよ」

「えっと、その台詞はちょっとクサいかしらね」

「ムキーッ!」


 蘭子にはバタバタと地団駄を踏むことしかできなかった。 

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