記憶喪失の少女

《side:芹沢 朔》


 カチリ、という微かな音で、少女のまぶたが揺れた。


 工房の一角、バイオモニターと生命維持装置を備えた予備ベッドに横たわる彼女は、まだ寝返りも打たずに静かに呼吸をしていたが、ようやく意識の兆しを見せた。


 その動きはすごくゆっくりで、何年も夢の中にいた人間が、現実に戻る方法を忘れてしまったかのような慎重さだった。


 やがて、ぼんやりと開いた瞳が、天井を捉えた。


 深い黒に微かに緑が混ざったような色。


 目の焦点が合うまで数秒かかっていたが、次第にこちらの存在を認識し始めた。


「ここはどこ?」

「……おはよう、ここは無法地帯にある工房だよ」

「無法地帯? 何それ?」


 目覚めた少女はぼんやりとした顔をしている。


 僕は椅子から立ち上がり、ベッドの傍に近づいた。


 警戒させないように、声を低く落ち着かせて。


「うーん、無法地帯は政府から公認されていない場所だよ。あまり安全な場所じゃないけど、隣近所は昔馴染みだから、大丈夫だと思う。君を路地裏で見つけて、怪我はなかったけど、しばらく意識がなかったから寝かせていたんだ」


 説明を終えても、彼女はしばらく黙っていた。


 口元がかすかに開く。か細い、でも確かに音になった声。


「……わたし……」


 そこで、言葉が止まった。


 何かを探すように、虚空を見つめ、もう一度口を動かす。


「……わたしの、名前……なに……? 何も思い出せない。なんだか嫌なことがあってそれでどこからか逃げてきたはずなの」

「記憶を失っているんだね。うーん、人間はショックなことがあると記憶を閉じてしまうことがあるんだって、君もそうかもね」

「記憶を閉じる?」

「うん。思い出したくない記憶に蓋をするんだ」


 名前のない少女。


「マスター、彼女は脳波に異常があるため、脳波が安定すれば、記憶が戻るかもしれません」

「そうだね。まずは、僕らのことを伝えておかないとね」


 改めて、少女の前で僕とフィアのことを話していく。


「僕は芹沢朔。無法地帯でAGの工房メンテナンスをしているんだ。そして、僕のサポートをしてくれているアンドロイドのフィアだ」

「初めまして、お嬢さん。フィアです」


 僕らが挨拶をすると、少女は戸惑った顔を見せた。


「ごめんなさい。何もわからないの」

「まぁそうだね。君の名前は、僕も知らない。ポケットにも、身元がわかるものはなかった。でも、生きていてくれて良かったよ。目の前で人が死ぬのは寝覚めが悪いからね」


 少女は、自分の手をじっと見つめていた。


 細くて、華奢な指。だが、右の手首にはごく小さな金属端子が埋め込まれている。


 きっと彼女自身も、何がどうなっているのかわかっていない。


 瞳に、混乱と不安の色が浮かんだ。


 だから、僕はそっと椅子を引いて、彼女の隣に座った。


「しばらく、ここで休んでいって。何かあればフィアに相談するといいよ。僕ができる限り君の面倒を見る。身元がわかっていれば、ヒナに相談もできたんだけど、彼女は真面目だから、君がある程度問題ないと分かるまでは隠させてね」


 彼女はゆっくりとこちらを見て頷いた。


 怯えと、疑念と、そしてほんのわずかの信頼が交じった目をしてくれている。


「……ありがとう……」

「うん。どういたしまして。まずはお腹を満たすことから始めようとか? フィア、食事の用意をしてくれる?」

「かしこまりました。今日は消化の良いポトフにしましょう」


 フィアが料理を用意してくれる間に、僕は微笑んで彼女との会話を続ける。


「とりあえず、名前がないと呼びづらいから……仮の名前でも付けようか」


 彼女は少しだけ眉をひそめたが、首を横には振らなかった。


「うん」

「……じゃあ、ミナって名前はどう?」

「ミナ?」

「ああ、君を見守る。って意味だからたいした意味はないけどね」

「ううん。それでいい」


 彼女は、ほんの僅かに目を見開いた。


 そして、静かに、うなずいた。


「……ミナ……わたしはミナ」


 その時の彼女の声には、どこかほっとした響きがあった。


 たとえ偽りの名でも、自分が呼ばれる存在であることを取り戻したのは嬉しいのかもしれない。


 ミナ、彼女が誰で、なぜこんな状態で現れたのかは、まだ何もわからない。


 けれど、それを知らないと家に帰してあげることもできない。



 それから数日。ミナは少しずつ、僕の工房での生活に馴染んでいった。


 最初のうちは部屋の隅に小さく座って、僕やフィアの様子をうかがってばかりだったけど、今では朝になると小さな声で「おはよう」と言ってくれる。


 まだ記憶は戻っていない。


 それでも、毎日目覚めて、顔を洗って、僕と一緒に食事をして、工房の作業を眺めて……そんな、なんてことのない日々が、彼女を少しずつ変えている。


「ねぇ、これ……何してるの?」


 ミナが工具棚の前で、AGの関節パーツを手に取りながら聞いてきた。


「それはね、装着する人の動きを読み取って、力を逃がす仕組みなんだ。足首のとことか、衝撃吸収にも使うよ」

「へぇ……これがあると、走ったり跳ねたりしやすくなるんだ?」

「うん。誰でも空を飛べるわけじゃないけど、ちょっとだけ、普通の人より上手に動けるようにはなる」


 僕がそう答えると、ミナは小さく笑った。柔らかく、どこか切ない微笑み。


「……いいね、そういうの。わたしも、動けるようになりたいな」


 何気ないその一言に、少しだけ胸が締めつけられた。


 たぶん、彼女は自分の中にある違和感を感じている。


 身体が思った通りに動かないことや、機械のような異物感。それでも、誰にもそれをうまく説明できないでいる。


 それでもミナは今日も、工具を持って僕の作業を手伝ってくれる。


 ネジを並べたり、配線を束ねたり、まだまだ危ない作業は任せられないけど、少しずつここにいるという感覚を取り戻しているように思える。


 こんな生活も悪くないのかもしれない。


「見つけました!」


 不意に工房に女性が立っていた。


 見たこともない白衣を纏った人だった。

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