第41話 焦がれるほどに眩しくて。
陽乃が一之瀬家に嫁いできてから一ヶ月。彼女はまるで元からそこにいたかのように、一之瀬家へと溶け込んでいった。
使用人相手にも明るく気さくな彼女は、誰からも好かれる存在で、依月もまたそんな彼女を母のように慕っていたようだった。
そして敬吾は、いまだ彼女を受け入れることの出来ない自身の気持ちに蓋をしていた。実際のところ、何故ここまで陽乃を認めることが出来ないのかということを、敬吾自身も理解出来ていなかったのだ。
――そんなとある夜のこと。
時計の針が十二時を回った頃、敬吾はひとり廊下を歩いていた。なにしろ、屋敷に異常がないかを見回ることは、長年の敬吾の日課となっていたのだ。
一通りの確認をし終え、自室に帰ろうとしたとき、どこかからガチャと小さく扉の開く音がした。
音の主に気付かれないように、と静かに様子を伺えば、そこに居たのは陽乃だった。彼女は辺りをきょろきょろと見回すと、音を立てないようにと扉を閉めてどこかへと向かっていく。
――一体、何をしているんだ?
陽乃のその怪しい行動に、なにか裏があるのでは、と疑念を抱いて、敬吾は彼女の後を追う。どうやら彼女は、食堂へと入ったようだ。
食堂の中を、そっと覗き込む。すると彼女は、こちらに背を向けてひとりで食卓へとつき、なにやらカチャカチャとカトラリーを用意しているようだった。
「……何を、しているんですか?」
「ひゃあっっ!?」
その行動の意味がわからず、敬吾はつい心からの疑問を漏らす。突然背後から響いた問いかけに、陽乃は飛び上がるように肩を跳ねさせた。
「びびびび、びっくりしたぁ……。か、影吉さん? こんな時間に何してるんですか!?」
「いや、それはこちらの台詞ですよ。……それは一体何をしているんです?」
敬吾の視線の先に映るのは、几帳面に並べられた空の皿やカトラリーだ。陽乃は気まずそうに目を逸らすと、言葉を詰まらせながら答えた。
「えぇとこれは、その……練習を……、してて」
「練習?」
彼女の言葉を繰り返す。練習というのはテーブルマナーの練習ということだろうか。それ自体はよい心がけかもしれないが、やはりどうしても疑問は残る。
「それはわかりましたが……、そもそも何故このような時間に? テーブルマナーの講義なら、日中にもあるでしょう?」
「それは確かにそうなんですけど……」
敬吾の問いに、陽乃は目を伏せたままで答えた。囁くような彼女の声は、静まり返った食堂でまっすぐに敬吾へ届く。
「わたしってこれまで、ただの一般庶民だったわけじゃないですか。……そのせいでハルくんが周りの人に色々言われてて。ハルくんは気にしなくていいって言ってるけど、それじゃダメってことぐらいわかってるんです」
ぽろと零れた彼女の弱音に、敬吾は目を見張る。いつもにこにこと笑顔を浮かべる彼女が内心でそのようなことを考えていたなんて、予想さえしていなかった。
「だからわたしは、完っ璧なマナーとか所作とかを身につけて、誰にも文句を言われないような人になりたいんです! わたしは無いものばっかりだから……、せめて少しでも努力して、あの人に近づきたいと思って」
照れたように彼女は笑う。今、自分がどんな表情をしているのかすら分からなかった。ぽつり、と言葉が漏れる。
「あなたは、どうして……、そんなにも諦めずにいられるのですか」
敬吾の言葉に、陽乃はきょとんと目を瞬かせる。少し考えたあとで、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「なんで諦めないのか……って。だって、持ってないから仕方ない、って最初から諦めてたらつまんないでしょ? わたし、諦めが悪い方なんですよ」
いたずらっぽい彼女の笑みは、どこまでも純粋で、どこまでも眩しかった。
――あぁ、そうか。そうだったんだ。
何故、敬吾が彼女のことを受け入れられなかったのか。それはきっとこの彼女のまばゆさが、敬吾のことを焦がすほどのものだったからだ。
彼女の考え方の根には、持たざることを嘆くのではなく、それをばねに前へ進もうとする強さがある。その強さは、敬吾が持ち得なかったものであり、自分が間違っているということをまざまざと見せつけられるようなものだった。
だからこそ、認められなかった。認めたくなかった。
彼女の存在を認めれば、今までの自分を否定することになるような気がした。自分の愚かさや汚さが、白日の下に晒されてしまうような気がしたんだ。
彼女の明るさは周囲すら焦がすほどで、それでもどこか心地よい。人は鏡だ、というどこかで聞いたことがある言葉を思い出す。きっと、人は心のどこかで彼女のようになりたいと願うからこそ、彼女に惹きつけられてしまうのだろう。
そしてそれは、敬吾もまた同様だった。
『きっとお前も、陽乃を見ていればすぐにわかるよ』
そんな治彦の声が、頭の中で反響する。あのときは理解できなかったその言葉が、今では自然と飲み込める。
――えぇ、わかりました。あなたが言っていたのはこういうことだったんでしょう?
心の中でそう答え、敬吾は陽乃の隣の席に腰かける。
そんな敬吾の姿を見ると、彼女は驚いたように目を瞬かせた。そして、敬吾は笑みを浮かべる。
「……練習、私もお付き合いしますよ。ひとりでやるよりも、指導役がいた方が捗るでしょう?」
「影吉さん……! ありがとうございます!」
嬉しそうに、彼女は笑った。その眩しい笑顔に、敬吾の胸がじくりと痛む。ただ、そんなことはおくびにも出さずに彼はどういたしまして、と言葉を返した。
きっとこの提案は、優しさなどではない。彼女の隣にいたいという、敬吾自身の欲だった。
――この夜、二人の運命は静かに歪みはじめる。しかし、それを知る者はまだ誰もいなかった。
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