第39話 影として生きる者
「影吉」という姓には、元来違う漢字が当てられていた。なんでも、元の姓は「影義」であり、名に違うことなく影に生きて忠義に死ね、という言葉が、影義家に生まれた者に初めて教えられることだったのだとか。
時代と共にその名は移ろい、いつしか慶事を意味する「吉」の字が当てられるようになった。しかしそれでも、その名前に由来する考え方は今も深く影吉家に根付いていたのだ。
影吉家が一之瀬家に仕える使用人の家系というのは、表向きの顔に過ぎない。彼らの本当の役割は、イチノセ海運にとって不都合な情報の隠蔽や、敵対企業への諜報活動、またときには殺しすらも厭わないような、表向きには出来ない裏稼業であった
時が進むにつれて、そのような非合法な手段をとることはほとんど無くなったものの一之瀬家に付き従い、その栄華を影ながら支えるという役目に変わりはなかった。
そして影吉敬吾もまた、一之瀬家に仕えることを生まれたその時から運命づけられた者だったのだ。
一之瀬家の跡取りに尽くせ、一之瀬家の繁栄の礎となれ、という教えを、彼は幼い頃から教え込まれた。
治彦が五歳の頃、一之瀬家の跡取り息子として生まれた子供こそが治彦だった。幼い頃の彼が敬吾のことを兄のように慕ってくれる治彦に一種の庇護欲を感じていたことは確かな事実だ。
しかし、彼らが成長するにつれて顕在化する二人の格差は、敬吾の精神を少しずつ蝕んでいった。
それは、ひとつひとつは些細なことだったのかもしれない。ただ、実の父が治彦にばかり関心を向けること、常日頃から治彦の「下」の立場としての振る舞いを強要されること、そしてそれがきっといつまでも続くのだという絶望は、緩やかに敬吾の意識を変えていったのだ。
――どうして私が……、どうして私だけがこんなにも苦しんで、彼のことを支えなければならないんだ。
呪詛を身の内に募らせて、いつしか彼はそんな暗い感情を誰も見えない奥底へと封じ込めた。
そして、視点さえ変えれば、国内でも有数の企業であるイチノセ海運の跡取りの側近となることが決まっているというのは、将来の約束としてこれ以上ないことだ。
と、自信を正当化して、彼は治彦の後ろを歩むと決めたのだ。
きっと彼が早くに結婚を決めたのは、義務感の他に自分の事情を汲み、苦しさを分け合える人間が欲しいという幾ばくかの願いもあったのだろう。
ただ、妻と心を通わせることはついぞ叶わず、彼に残されたのは自らと同じ義務を課された幼い依月だけだった。
自分には無い地位や未来を持った治彦のとった、地位の低い人間を伴侶に迎える、という選択に少しの失望を感じながらも、敬吾は彼の結婚を祝福していたのだ。
――あの夜までは。
「わたしは無いものばっかりだから……、せめて少しでも努力して、あの人に近づきたいと思って。だって、持ってないから仕方ない、って最初から諦めてたらつまんないでしょ?」
頬を染めながら笑う彼女は、嫌になるほど眩かった。
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