第36話 晩餐会の緞帳上がりて

 静まり返った屋敷のホールに、コツコツと二人分の靴音が響く。緊張で早鐘を打つ胸を押さえながら、純蓮は深く呼吸をした。


「……大丈夫ですか、お嬢様?」

「大丈夫……、ですわ。多分、おそらく。えぇ、きっと」


 後ろから降ってきたのは、この数十分のうちに幾度となく聞いた影吉の問いかけだ。そんな彼の気遣わしげな声に、純蓮は形式だけを保ったままで感情のこもっていない言葉を機械的に返す。

 ただ、大丈夫という言葉を額面通りに信じられるほど、純蓮の挙動は平常通りではない。どこを見ているのかもわからないままに目は据わっていて、彼女の指先は過度の緊張で小刻みに震えている。


 純蓮たちが「作戦」を実行するのは、食後の紅茶を淹れるときのことだ。それまでに純蓮は治彦の態度を見極めて、作戦を実行するかどうかを決めなくてはならない。それはなんと責任重大なことだろうか。

 

 とうとう食堂へと辿りつく、というそのとき。純蓮の行く手を阻むように、影吉はすっと前へ歩み出た。


「……お嬢様」


 純蓮に呼びかけながら、影吉は静かに膝をつく。純蓮の震える手をとって、彼はまっすぐに顔を上げた。


「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「は、はい? ……なんですの?」


 影吉の唐突な言葉に、純蓮はぱちと瞳を瞬かせる。そして、純蓮と目が合ったことを確認すると、彼は小さく息を吸った。


「この晩餐がどのようになろうとも、私は絶対にあなたの味方であると誓います。ですから……、何があってもここにはあなたの味方がいるのだということを、覚えていてください」


 彼の言葉は、緊張で凍りきった純蓮の心の中に、じわりと確かに染み込んでいく。影吉のそんな誓いを飲み込むと、純蓮はふわりと顔を綻ばせた。


「……ありがとう、影吉」


 純蓮の返答を聞き届けると、影吉はすっと立ち上がる。ただ、影吉の手が離れてもまだ、純蓮の手のひらには温かい彼の体温が残っていた。


 もう、震えは止まった。大丈夫。だって純蓮の後ろには、誰よりも心強い彼らがいるのだから。


 ふぅと大きく深呼吸をして、重々しい扉を開く。ギィと音を立て、木製の扉はその口をひらいた。

 

 食堂にずらりと並んでいるのは白いテーブルクロスのかかった食卓と透かし彫りの入った木製の椅子だ。そしてその奥には席につく治彦と、その背後に控える執事長がいた。記憶にあるものより白髪の増えた父の姿はどこか陰鬱な雰囲気を纏っており、実年齢である四十歳よりも老成しているようにすら見える。

 彼は純蓮の姿を認めると、おもむろに口を開く。


「こうして顔を合わせるのは……、久しぶりだな。純蓮」

「……っ。えぇ、お久しぶりですわ、お父様」


 治彦の口から直接名前を呼ばれたことに動揺しつつも、純蓮はにこりと言葉を返す。彼の瞳は暗く濁っており、何を考えているのかを伺い知ることすら出来はしない。


 純蓮が挨拶を終えたそのとき、すっと音を立てずに純蓮の横にあった椅子が引かれる。視線を向ければ、椅子の背もたれに手をかけた影吉が、純蓮を落ち着かせるように見守っていた。

 彼の言葉を必要としない気遣いに内心で感謝を告げながら、純蓮は席につく。


「ところでお父様、このように屋敷へ戻るだなんてとても珍しいですけれど……、なにかございましたの?」

「……いや、何も」

「そう……、ですの」


 純蓮の返答とともに満ちた嫌な沈黙に、純蓮は誰にも気付かれないようにそっと唇を噛む。――この人はいつもこうだ。考えていることを何一つとして、純蓮になど話してくれない。きっと純蓮を話すに値しない者だと考えているのだろう。


 ことり、と執事長が給仕したグラスの透明な水面を見つめながら、純蓮は思考を巡らせる。アルマは以前治彦が純蓮を嫌っていないかもしれない、と言っていたが、彼の態度を見るにそれはありえないのではないだろうか。


 ――いえ、違いますわ。そうやって人のことを決めつけてしまってはいけません。わたくしは自分の目でお父様を見極めて……、わたくし自身の言葉でわたくしの気持ちを伝えなければならないのですもの。


 心の中で気合いを入れて、純蓮は上品さを失わないように気を付けつつ、グラスの水をごくごくと飲み込む。よく冷やされた冷水は純蓮の喉を滑らかに通過していき、純蓮に少しばかりの冷静さを取り戻させてくれた。また、ちらと治彦の方を見れば、彼は静かに食事が配膳されるときを待っていた。


「どうぞ、お嬢様」


 そんな影吉の言葉とともに食卓に並べられたのは、純蓮の好物であるビーフシチューだった。きっと昨日執事長から連絡を受けてすぐに、香坂が仕込んでくれていたのだろう。良く煮込まれた牛肉は一見しただけでホロホロと柔らかいことが伝わってくる。


「ビーフシチュー……! お父様。その……、香坂の作るビーフシチューは……、とても美味しいのですよ」

「……あぁ、よく知っている」


 途切れ途切れになりつつも純蓮が言葉を紡げば、彼はぽつりと言葉を返す。その言葉数は少ないながらも、純蓮の言葉に対してはっきりと返答したものだった。治彦とこのように何気ない会話をすることすら目眩がするほど遠い記憶で。純蓮は内心で息を呑んだ。


 ――お父様が、このようにお話しされることなど……。珍しい、ですわ。


 そこまでを考えて、純蓮は自身の異変に気付く。思考が何やらまとまらない。

 

 何故か視界はぼんやりと白く霞み、瞼さえ微塵も持ち上がらなかった。指先すらも動かないという異常事態にも関わらず、純蓮の意識はそれが異常であるということにも気付けない。――なぜ、意識が遠のいていくのだろう。何かがおかしい。だめだ。まだ、何もできていないのに。

 そんな思いもいつしか闇の中に溶けていった。


 ぐらり、と音もなく世界が揺れて、純蓮の意識は暗転する。 


 ――消えゆく意識の片隅で、純蓮の名を呼ぶ声が聞こえた。

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