XIV

 横転した黒のクロスカントリーの横を通り過ぎ、再び跳躍すると、対象の栗色の頭が近づく。もう二度の跳躍でニルと男の距離は一メートルを切る。

 そこからは簡単だった。

 接近されたことに気がつき、ぎょっとした顔を見せた男の肩を義手で鷲掴み、抵抗する前に足をかけて引き倒した。ごろりと転がる男の体を拘束する。義肢で足を押さえ、両腕を義手で締め上げる。起き上がろうとする肩は左手で地面に押し付けた。

「クッソォ……ッ! ふざけんなよ、アイツ……ッ!」

 薄い唇が悪態を吐き、平坦な顔が苦痛と憤怒に歪んでいる。

「離せよ、女ァ! オレはアイツに言われてやっただけだっつーの! アイツの方を捕まえろよ!」

 口汚く吠え、歯ぎしりをする口の端からは唾液が滲んでいる。人間だ。

「誰が何をやったのかはあとで州警察が調べる。私は盗難車に乗っていたあなたを捕まえただけ。ところで、クリフ・スミスというのは本名?」

「言うか、バカ」

「そう」

 未だ拘束から逃れようと藻掻くクリフの腕に手錠を嵌める。衣服を軽く調べたが凶器は見つからない。飛行機に乗るつもりだったのならば、車内に放置されているか、あるいはアンドレが所持しているか。

 二度目の殺人事件では、実行犯はアンドレだった。

 来た道を振り返ると、事故が起きた交差点には規制線が貼られ、進入しようとした一般車両を追い返しているのが見えた。

 アンドレが逃げた道では警察官が慌ただしく走っていくのが見えるが、アンドレの姿もミヒャエルの姿も見当たらない。朝のすがすがしい空気の住宅と木立。その奥から怒号のような声が聞こえる。未だアンドレの確保には至っていないようだった。

 拘束したクリフをやってきた警察官に任せ、ニルは再び右足を踏み切った。

 手配写真の獰猛な表情と鋭利なナイフが頭を過ぎる。

 ミヒャエルに渡した防刃ジャケットは、斬りつけには強いが刺突には非常に弱い。普通の学生をしていた彼に体術は期待できない。だから待機を命じたのに。

 もう少しきつく言い含めておけば良かった。目を離した隙に追いかけていってしまいそうだが。

 パーキングを通り過ぎ、複数の建屋がある敷地に入る。敷地にいた若者たちが何事かと闖入者たちを見る。どうやら大学のキャンパスらしい。近くにいた警察官が避難を呼びかけていた。

 キャンパスの傍には雑木林があった。「あっちだ!」と叫ぶ声を聞き、踏み荒らされた草木の先を見つける。雑木林の真ん中に敷かれた石畳の道を外れ、ニルは湿った土の上に降り立ち、草を掻き分ける。光が遮られ、急激に視界が闇に包まれる。蠢くものを必死で追った。

「いたぞ――――――ッ!」

 雑木林に進入してすぐだった。ニルも含めた警察官たちが声のする方を一斉に振り向く。

 雑木林を超えた先に人影がいた。逆光で人相は定かではないが、二人分の人影が取っ組み合い、そのうちの一人は背で髪を結った長髪だ。すぐにミヒャエルだとわかった。

 土で滑るのも構わず義肢で地を蹴る。細かい枝葉が服の裾や手に引っかかる度に手で払いのけた。

 ミヒャエルとアンドレの距離が離れる。シルエットでしかわからないが、ミヒャエルの手には警棒、アンドレの手にはナイフが見える。アンドレがナイフを突き出し、ミヒャエルが身を引こうとする。

 影が重なり、再びもみ合いになる。やがて、二人の影はどちらともなく倒れて見えなくなった。小さい悲鳴が聞こえた気がしたが、誰のものかわからなかった。

 雑木林を抜けると朝日が差し込み、視界が眩む。目が慣れてくると、遊歩道らしい石畳と夏の花がある草原が見えた。

 草原の花をなぎ倒す形で二人が横たわっていた。ミヒャエルの上にアンドレが覆いかぶさっている。アンドレの右手は空である。すぐ傍にナイフの柄があった。

 ナイフの柄の先には、ミヒャエルの胴が――

「――――ッ!」

「あいたたたぁ……」

 ニルが息を呑んだのと、ミヒャエルが間の抜けた声を上げながら体を起こしたのは同時だった。覆いかぶさるアンドレの上体から抜け出そうとしている。

 よく見るとナイフはミヒャエルの左わき腹を逸れ、細い茎の草花を切り裂いていた。ミヒャエルが起き上がるとナイフがぱたりと倒れていく。

「ミヒャエル」

「ニル、来てくれたんですね! あ、犯人、捕まえましたよ!」

 呆然としているニルに、ミヒャエルは誇らしげな顔で右手の警棒を掲げて見せた。防刃ジャケットも傷ついた様子はない。無傷だ。

 アンドレはうつぶせに倒れたまま気絶しているらしかった。呼吸の有無を確認したかったが、背中は上下しておらず、容態がわからない。顔をよく観察すると、右頬に青い黒子が三つあった。二十年以上前のアンドロイドの型だ。


 気を失ったアンドレは、念のため救急車で病院へと運ばれることとなった。二人を確保したのが連邦刑事庁BKAの所属と知り、その場にいた警察官はいい顔をしなかったが、指令室の方からは謝辞を伝える連絡が来ていた。恭しい態度で称賛されたものの、ニルとしては御礼をされる謂れはない。畏まって謝辞を述べるのであれば、代わって報告書を作ってもらいたい。まだ別件の始末書も書き終わっていないのだ。

 今後の対応について話し合い、全自動運転車に戻る道すがら、横転した黒のクロスカントリーが目に入る。

「彼、アンドロイドだったのね」

「ええ」

 ミヒャエルが防刃ジャケットを脱ぎながら答えた。前と後ろとを確認して、傷がないのを見ると丁寧に畳んでいく。

「毛髪が自然に伸びたりはしませんが、髪型や髭の長さは変えられます。……だから、もしどちらかがアンドロイドなら、アンドレがそうじゃないかと思っていました」

「付け髭でなければ、数か月であんなに髭が伸びたりしないものね」

「それもありますし、監視システムの掻い潜り方がアンドロイドらしいと思って」

「そういえば、うちに来る前はセキュリティシステムに携わっていたって」

「はい。そのときの経験が役に立ったみたいで、良かったです」

 ニルたちは全自動運転車に乗り込んだ。目的地の設定は、人機総合警備部第三機動隊の拠点であるペンハーン本社。カードリーダーからライセンスを抜く。ここからはニルのライセンスでも問題はない。

 ミヒャエルは衣服に着いた土を払って乗車してくる。頬にまだ少し土が付着しているが、無機質な滑らかさの頬も、人間と変わらない動作をする体にも、特に異常は見られない。

 ミヒャエルにライセンスを返すと、彼は目を細めた。穏やかに笑う顔が、高くなり始めた陽に照らされて眩しく感じる。

「ニル? どうかしましたか?」

「……怪我、なさそうで安心した」

 思わず言ってしまった言葉に、ニルは目を逸らす。見なくてもミヒャエルの表情は想像がついた。喜びを隠そうともしない声がする。

「心配してくださったんですね! 嬉しいです!」

「別に。配属二日目にして、大怪我されても困るから」

 車載端末の画面をタッチして、目的地までの運転を開始させる。車は規制された交差点を迂回するため、ゆっくりとUターンを始めた。

 アンドロイドの輸液の確保は、人間の輸血のそれより困難である。輸液の流出箇所を塞げば延命が可能だが、絶命は時間の問題だ。

 機動隊員として、自分や同僚の安全に気を配るのは当然のことである。

 そう思うことにして、ニルは運転席で目を瞑った。

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