XⅢ

 道路の左右にあった一面の緑地の先に、ぽつぽつとアパートメントが見える。自分たちの鳴らすサイレンの他に、遠くから別のサイレンが重なって聞こえた。ホンブルッフに入ったところで、ニルは地図を拡大する。

 対象を追っている警察車両は何度も角を曲がり、市街地内をうろうろしている。逃亡している指名手配犯たちはこの辺りの地理に明るくないのだろう。

 車両は、何度か右折を繰り返し、最終的に北の大通りに向かっている。

 ニルは携帯端末から他の車両の位置情報を検索し、車載端末に送信した。ポイントが三つに増える。対象と距離は離れているが、北に二台、南東から一台、対象の乗るクロスカントリーに近づいていっている。

 このまま追跡中の警察車両に続くのが順当だが、それでは逃走車両を確実に追い詰めることはできない。

「先回りが必要、ですよね」

 ミヒャエルも同じことを考えたのだろう。地図を確認して言った。

「でも、対象がどこに向かっているのかわからないと、先回りも何もないわ」

 ニルたちは現在、ホンブルッフの南西にある通りを走行している。ホンブルッフを脱出する一般道はいくつかあるが、南西で車が通れる道は、ニルたちが走る通りただ一つ。もし逃走車が南西側に逃走しようとすれば、挟み撃ちにすることができる。

 ブレーキペダルが踏み込まれ、急停車した。慣性の法則に、体が前に引っ張られる。右手を付いたグローブボックスがみしりと音を立てた。

 慌ててサイドミラーを見たが、後続車はいない。

「ちょっと!」

 ニルが抗議するが、ミヒャエルは地図に表示されたポイントを追うばかりだった。

「すみません。でも、この先は直線なので」

 正面は交差点だった。真っ直ぐに進めばホンブルッフ中心部に、右に曲がれば住宅地、左に曲がれば畑と郊外の街に辿り着く。中心部に向かうなら直進だが、以降は主要駅まで進まなければ方向を変えるのは難しい。袋小路が多いのである。

「ここで待ち伏せて、他に逃げたときに考えればいいのでは? この距離なら、私は走ってでも追いかけられる」

「相手は二人ですよ。そんなことさせられません」

「二人くらいなら問題ない」

「ですが――、あ」

 地図上のポイントが方向を変えた。北上していた車両が左折する。対象はすでに左折し、おそらくホンブルッフを抜けて西へ向かうのだろう。

「掴まっていてください、ニル!」

 言うなりミヒャエルはギアを入れて発進し、ハンドルを左に切った。遠心力に振り回されてサイドウィンドウに軽く頭をぶつける。

 畑を突っ切るようにして引かれた道路を、サイレンを鳴らした銀の車が走っていく。ミヒャエルの瞳は、一本道の先をじっと見据えていた。

「気合が入っているのね。――相手がアンドロイド殺しだから?」

「犯人を捕まえたいから、では信じられませんか」

 前を見たままミヒャエルは言った。サイレンの音が鳴っていても、彼の声は喧騒を掻き分けて耳に届く。

「ニルだって、応援要請を断ってもいいのに、応じたじゃないですか。それは、犯人を捕まえたいからでは」

「警察組織に所属する以上、要請は請けるものでしょ」

「僕も同じです。――見えた」

 小道から大通りを右折して数百メートル。サイレンの数が増え、地図上のポイントが最も近づいた瞬間。

 朝日に照らされた木立と瀟洒な建物が並ぶ通りの右前方から、黒のクロスカントリーが飛び出す。

「行って!」

 この際、衝突しても構わない。その意図を読んだのか、ミヒャエルはアクセルに足を乗せたまま、ハンドルを握り締めた。

 クロスカントリーがホーンを鳴らし、車体がふらついた。慌ててハンドルを切るのっぺりとした地味な顔を、ニルの海色の瞳が捉えた。片手をシートベルトに、もう片方はグリップを掴む。

 ぐん、とクロスカントリーが加速する。ニルの視界から黒い車体が消えた。タイヤが擦れる不快な音がサイレンの喧騒を引き裂く。前方に投げ出されそうになるのを、シートベルトに無理に引き戻されて息が詰まった。左方から、また別の衝撃音。

「――くぅっ…………っ!」

 急停車の衝撃から立ち直るより先に、ニルは通り過ぎて行ったはずのクロスカントリーを目で追う。

 黒のクロスカントリーは街路灯に車体をぶつけ、横転していた。横転したまま車は大通りの中央を滑っていき、やがて止まった。

「ニル……無事ですか……」

 ミヒャエルの声が聞こえたが、頭に入らない。ニルはシートベルトを外した。

 助手席側のドアが開いて、人が這い出て来る。一人は髭を蓄えた男と目立たないのっぺりした男。二人とも地面に足を付けるなり一目散に逃げだした。事故の衝撃を物ともせず、ニルたちから背を向けて走っていく。

 並走していた二人は何やら怒号を飛ばしあって、二手に分かれていった。ひげを蓄えたアンドレは右方、目立たない顔貌のクリフは直進だ。どんどんと背が小さくなる。

 後方からサイレンが迫り、対象を追跡していたパトロールカーが何台か交差点に停車した。

「私はクリフを追う。あなたは」

「僕はアンドレの方ですね!」

 ミヒャエルはシートベルトを外して、今にも飛び出していきそうだ。

「違う。あなたは待機。相手は凶器を持っている可能性が」

「警棒ならあります」

 彼の手には、後部座席に置いた鞄の、外側のポケットに差していた警棒があった。

 逃亡するクリフと、ミヒャエルを見比べ、ニルは後部座席から上着を取って放り投げた。

「これも着て」

 防刃ジャケットだ。活動服に比べたら薄いがないよりもいいだろう。帰ったら彼の活動服を頼む必要がある。補佐だけだと思っていたが、この鉄砲玉な様子は実働も想定しなければ危険だ。

「ありがとうございます!」

 礼を聞く前にニルは車から降りて走り出す。

 到着した警察は、事故の対応と車両の規制に人員を割かれ、対象を追っているのは数人だけだ。クリフとアンドレを見比べ、距離が近いアンドレの方を追っている。アンドレは直に捕まるだろう。

 ぐん、と右足を踏み切る。左足は生身の足だ。普通に走ろうとすると左右の脚力の差で速くは走れない。義足を使い、走り幅跳びの要領で踏み切って跳んだ方が距離を稼ぐことができる。

 二度の跳躍でクリフを追おうとした警察官を抜き去った。

 ニルの海色の瞳は、クリフの背だけを見つめていた。

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