Ⅴ
『
「――ッ」
頭上から降り注いた声に動きが止まる。
咄嗟に対象から離れ、周囲を警戒するが、人気はない。
見下ろせば、左腕を失った立て籠もり犯が悶え苦しむ姿。左肩からニルの背後へと、人間のそれとは違う発色の良い循環液が伸びている。
足元の水溜まりの音が、ニルをきまり悪い思いにさせた。
天井を見上げるが、それ以上、誰の声も聞こえなかった。
やがて気絶したらしい対象に急いで止血――正確には血ではないが、医療用語は人機で通用される――を行い、念のために両足に錠をかける。対象が目を覚ます気配がないのを確認し、ニルは踵を返した。
戦闘で荒れ果てた室内を進み、奥で息を潜めていた女性と顔を合わせる。女性はニルを視認すると、顔を引きつらせ、息を呑むように悲鳴を溢した。
「ひっ」
「犯人は確保しました。もう脅威はありません」
告げても、女性の表情は強張っている。
「怪我は」
そう言って、伸ばした右手が濡れていることに気が付いた。気づくと同時に、頬に何か滴る感覚。対象の循環液だ。暗がりに返り血のように液体を滴らせた人物は、確かに恐怖を煽る。急場しのぎに活動服で手を拭った。
「怪我は、ありませんか」
「だい、じょうぶです。脚を撃たれたけど、動かせる、し……」
それを聞いて、咄嗟に脚に触れた。その滑らかすぎる質感と、犯人が持っていた凶器を思い出して顔を上げる。未だ怯えの消えないヘーゼルと目が合う。
聞こえるはずもない、焦点を合わせるレンズの音が聞こえた気がした。
「あなた――――」
アンドロイドだったのか。
ニルは知らず滑り落ちそうになった言葉を飲み込んだ。
「すぐに救急隊員が参ります。念のため、病院で検査を受けてください」
人質の無事を確認し、立ち上がる。幸い、被弾したという脚の稼働も、本人の意識も大きな問題はなさそうだった。
立ち去る直前、細く澄んだ声がかけられる。
「あの。助けてくれて、ありがとうございます」
ニルは振り返らなかった。
携帯端末の電源を入れ、隊長のエリカに犯人確保を伝えれば、現場は再び騒がしくなった。州警察の機動隊や鑑識ら、救急隊員らが詰めかけて、事件の後処理に追われる。
後に報告書の提出をしなければならないが、対象の制圧が完了すれば、今日のニルの仕事は終わりだ。
手持無沙汰にエレベーターホールの端に避けていると、息を切らせた女性が駆け寄ってきた。
「ニル! 無事……⁉」
「大事ありません」
ニルから離れるや否や、隊長――エリカは、ニルの体をあちこち診て回った。心配性だな、といつも思う。左腕が、今になってじんと熱を持った。
「ああ、良かったぁ! 怪我はない? ――って、腕! 痣になってるじゃない!」
「問題ありません。それよりも」
「大問題よ! 本当は、今日は休んでもらいたかったんだけど……ごめんなさいね。明日からはちゃんと休みにするから!」
「……では、ありがたく頂戴します」
ニルは問うのを諦めて、救急隊員を呼びに行くエリカを見送る。そして、エレベーターホールに取り付けられたスピーカーをじっと睨みつけた。
館内放送は、一階の管理室で制御している。ネットワークが切断され、中には人質と立て籠もり犯とニルしかいなかったはずの、あの瞬間。遠隔で映像を確かめることも、放送を行うことも不可能だったはずだ。館内放送を使うには、管理室に向かうしかない。
ニルを制止させた、険を含んでも穏やかに聞こえる、甘いテノール。
一体、誰が。
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