控えていた機動隊には待機を命じ、一人、建物の中へ潜り込む。事件が起こったのは終業後の時間だ。エントランスの照明は最低限であり、薄暗い。

 奥へ侵入する僅かな時間に、フロア案内版をざっと確認する。ファイクオーグ社のような、セキュリティシステムや設備管理システムを扱う企業ばかりが並び、下層に行くにつれてシステムとは無関係な会社も増えていく。やはり、建物全体の管理は一階で行われているらしかった。

 天井に目を向けると、円形の監視カメラが動いていた。八階の端末はすでにネットワークが切断されているというから、建物内の監視カメラ映像にもアクセスできないはずだが、有線で繋がれてしまえばどうしようもない。

 管理室に辿り着き、急いで八階の監視カメラの映像を確かめた。

 室内は薄暗く、外の光で白んでいるところもあり、詳細はわからない。しかし、PCがずらりと並ぶ無人のはずのオフィス内に、立ったまま端末を弄る人影を認めた。傍に人質はいない。

 別のカメラに切り替えて、そこで人質の安否がわかった。

 壁に並んだキャビネットに凭れかかるようにして、女性的なシルエットの人影が一人座り込んでいる。怪我をしているかどうかは粗いカメラ映像では判別できないが、出血はしていないように見えた。

 再びカメラを切り替えて、立て籠もり犯を観察する。乱暴にキーボードを叩き、時折、苛立ちを抑えきれず頭を掻きむしる様は、あまりに人間的だ。どうやらハッキングの技術や無線通信機能は搭載されていないらしい。外の警察の気配すら、気にする余裕がないらしい。

 旧式の機体や、機体改造リ・サイボーグされていないアンドロイドであれば、できることは人間とそう変わらない。であれば、データの漏洩や窃取の可能性を考える必要がなくなる。不幸中の幸いだった。

 管理室を出る前に、守衛のデスク横から建物内の見取り図を拝借する。各階の部屋割りと、分電盤の位置を記憶した。

 見取り図を戻して、ニルは非常階段へと足を進めた。エントランス自動ドアのロックは解除しなかった。通信を傍受される可能性が捨てきれない今、外と連絡を取ることもできない。勝手に突入許可だと認識されれば、混乱を招く。隊長が到着したかどうかも定かではなかった。

 右足で力いっぱいに踏み切って、右手で階段の手すりを掴んで体を引き寄せる。その動きは機械的であり、野性的だ。

 ニルの右手は二の腕の中ほどから義手である。そして、右足も太腿の半ばからは義足だ。義足には多機能義手と同様に暗器も収納されているが、それ以上に人間の限界を超えた脚力が武器である。この急激な加速には、先の捜査で負傷した左肩も悲鳴を上げた。

「……ッ」

 同様の動きを六度繰り返し、七階までを十秒程度で登り切る。以降は気配を消して、八階の現場を目指した。

 八階の電子錠は、案の定破壊されていた。物理的な損傷は見られないものの、黄緑色の古い液晶が、かちかちと明滅している。何らかのエラーによって、錠が機能していないようだった。

 ちらりと分電盤の位置を確認しつつ、中の様子を伺う。投光器によって、部屋は外から照らされ続けていた。パーティションやキャビネットを遮蔽物に、ニルは音もなく室内に侵入した。

 逆光の中、立て籠もり犯のシルエットが浮かび上がった。監視カメラで見た中腰の態勢で、一台のデスクトップが置いてある席を陣取っている。

「復元機能がまだ使えるはずだ! 早く、コードを言うんだ!」

「む、むだです! 社内のデータはすべて初期化しました。復元なんて……」

「チッ、余計なことしやがって! おれはコレがれるまで帰れねぇんだよ、クソッ……!」

「何が目的か知りませんが、すでに警察がここを包囲しています。逃げられませんよ……」

「黙ってろ、このポンコツが!」

「ひっ」

 立て籠もり犯が声のする方へ何かを突きつけるのが見えた。ニルからは死角だが、恐らく奥に人質がいるのだろう。

 そして、対象が手にしていた凶器に、ニルは小さく息を吐いた。

 マットな黒鉄色に、淡い青色に発光する配線。デザインはデザートイーグルに近いが、二回りほど大きいバレルの形状や、露出した配線から、通常の拳銃でないことは一目でわかる。

 対象が手にしているのは、電子拳銃だ。弾丸の代わりに電波を発射し、電子機器を操作、もしくは故障させる銃。八階の電子錠が破壊されていたのも、あの銃の仕業だろう。

 テーザー銃と違い、通常の人間にはまず影響がない。だが、電子機器――つまりアンドロイドにとっては、鉛の弾に撃たれるのと同義か、それ以上の脅威となる。

 結果として、アンドロイドを退避させたのは正解だったようだ。

 アンドロイドと人間が共存する現代において、犯罪への対応は複雑化する一方である。

 対象が人間で、かつ通常の銃火器や凶器を所持していた場合。同じ生身の人間が対峙すれば命にかかわるリスクが生じるが、アンドロイドが対応する場合、その確率がぐっと下がる。どれだけ人体を模していようと、彼らは機械。機体の末端を破壊された程度では死なない。修理費も部品交換も莫大な費用がかかる上に、損傷の衝撃や部品交換の過程でメモリにエラーを引き起こす可能性はあるが、人体の損傷と比べれば、彼らは物理的な損傷に強い。

 反対に、対象がアンドロイドで、かつ電子拳銃やコンピューターウイルスといった電子兵器を所持していた場合は、生身の人間が対峙しなければならない。彼らアンドロイドの神経は、非常に繊細で複雑な電子回路で稼働している。人体の構造を模したはずの彼らは、人間以上に神経系が脆弱だ。強い電磁波や妨害電波に曝されれば、機体自体に損傷がなくとも、内部機能が破損する。

 アンドロイドに退避命令が出ていたのはそのためである。立て籠もり犯がアンドロイドと判明し、不正アクセスを試みた時点で、同じアンドロイドは対応できない。対峙すれば、立て籠もり犯の機体のスペック如何によっては、触れただけで電子的な攻撃をしかけられた可能性もある。攻撃手段の範囲も不明となれば、敷地周辺からアンドロイドを全員退避させる他ない。

 人質が静かになったことで、立て籠もり犯は再びPCに向き合った。

 ニルは音もなくその場を去る。遮蔽物を利用して、二人に気づかれないよう迂回して分電盤へ向かった。

 対象が何かと悪態を吐き、乱暴にキーボードを叩くおかげで、分電盤を開く音も、ニルの手足の駆動音もかき消されていた。

 ブレーカーのレバーに指をかける。人質は社内データを初期化したと言っていた。落として困る者はいない。

 指先を軽く曲げれば、いとも容易くレバーが下りる。

 元々室内は消灯していたので、突然の出来事に反応を示したのは、PCと相対していた立て籠もり犯だけだった。

「なっ……⁉ なんだ……⁉」

 電子拳銃は、もちろんPCにも影響を及ぼす。近年は電子兵器対策プロテクターの開発も盛んだが、普及率は低い。しかし、電源さえ落としてしまえば関係ない。

 これで、懸案は立て籠もり犯への対処のみ。

 ニルは振り返り、右足を強く踏み込んだ。傾いた体は、近くのキャビネットに右手をついて、ニルの体は更に高度を増す。遮る物がなくなり、全身が室内にいた二人の前に晒される。

 対象がニルの接近に気がついたのは、左足で蹴りを繰り出す直前だった。

「サツが忍び込んでやがった……ッ!」

 蹴りは数センチのところで空を切った。相手は電子拳銃を構え、じりじりと後退していく。ニルはそれに合わせ、人質を背後に隠すように移動する。

 一歩、対象と間合いを詰めれば、相手は容赦なく電子拳銃を発砲した。

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