第10章 霧の中の道標

東の空が白み始め、夜の闇が薄れていく。しかし、街は深い霧に包まれていて、視界は数メートル先までしか利かなかった。屋上の冷たいコンクリートの上で、私はほとんど一睡もできないまま、この奇妙な夜明けを迎えていた。昨夜の仄の言葉、「壊れた羅針盤」という響きが、まだ耳の奥でこだましている。


隣で丸くなっていた仄が、ゆっくりと身を起こした。眠っていたのか、それとも私と同じように眠れずにいたのか、その表情からは読み取れない。ただ、いつもとは違う、妙に澄んだ、静かな瞳をしていた。まるで、何か大きな決心をした後のような、あるいは、全てを諦めた後のような、不思議な落ち着きがあった。


霧は濃く、まるで世界から音を奪い去ったかのようだ。遠くで聞こえていた「ナニカ」の気配も、今は霧の向こうに掻き消されている。このまま、私たち二人だけが世界に取り残されたような、心細さと、ほんの少しの安らぎが入り混じった感覚。


私は、仄の内面について考えていた。彼女の突飛な言動、現実離れした言葉、「ナニカ」に対する奇妙な共感。それらは、本当に彼女が世界の真理を知っているからなのだろうか。それとも、昨夜彼女が漏らしたように、内面の混乱や、あまりにも過酷な現実から自分を守るために無意識に作り上げた、壊れかけた羅針盤の示す方向なのだろうか。もちろん、答えは分からない。それは私の勝手な推測に過ぎない。けれど、そう考えると、これまで理解不能だった彼女の存在が、少しだけ、ほんの少しだけ、輪郭を帯びてくるような気がした。


「ねえ、藍ちゃん」

仄が、霧の向こうを見つめながら、静かに言った。

「一緒に行きたい場所があるの」


その言葉は、あまりにも唐突で、私はすぐに意味を理解できなかった。

「行きたい場所?」

「うん。……うまく言えないんだけど、大事なものが、あるかもしれない場所。昔、ほんの少しだけ、いたことがあるような気がする場所」

仄の言葉は、やはり曖昧だった。けれど、その声には、いつものような浮遊感ではなく、微かだが確かな意志のようなものが感じられた。


私は戸惑った。仄の言う「場所」がどこなのか、安全なのか、そもそも本当に存在するのか、何も分からない。これまでの経験からすれば、彼女の言葉に軽々しく乗るのは危険だ。自分の生存だけを考えれば、きっぱりと断るべきだ。けれど……。


私の心は揺れていた。昨夜の出来事、仄が見せた弱さ(かもしれないもの)、そして、今の彼女のいつもと違う雰囲気。それらが、私の合理的な判断を鈍らせる。もしかしたら、彼女の言う「大事なもの」とは、食料や安全な場所のことなのかもしれない。あるいは、この膠着した状況を打破する、何らかのきっかけになるかもしれない。そんな淡い期待、あるいは打算が、頭をもたげる。


いや、違う。期待や打算だけではない。もっと別の感情が、私を行き先不明の旅へと誘おうとしていた。それは、「どうにでもなれ」というような、半ば投げやりな気持ち。そして、この壊れた羅針盤のような少女から、もう逃れることはできないのだという、奇妙な諦観。そして、ほんのわずかな、未知への好奇心。


「……わかった。行こう」

私は、自分でも驚くほどあっさりと、そう答えていた。後悔するかもしれない。でも、もうどうでもいい。進むべき道が分からないのなら、誰かが示す道を、たとえそれが霧の中の不確かな道標であっても、ついていくしかないのかもしれない。


仄は、私の返事を聞くと、少しだけ驚いたように目を見開き、それから、ふっと、本当に微かに、微笑んだように見えた。それは、私が今まで見たことのない、儚く、美しい微笑みだった。


私たちは、荷物をまとめ、霧が立ち込める屋上を後にした。仄が、迷いのない足取りで先を歩く。私は、少し遅れて、その小さな背中を追った。霧は深く、前方の仄の姿も時折見失いそうになる。私たちは、どこへ向かっているのだろう。仄の言う場所には、一体何が待っているのだろう。不安と、ほんの少しの期待が入り混じった複雑な感情を抱えながら、私はただ、霧の中に見える仄の影という、不確かな道標だけを頼りに、足を前に進めた。世界の輪郭が溶けていくような、白い静寂の中を。

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