第5章 雨粒の溜息

空は鉛色に曇り、やがてぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。それはすぐに勢いを増し、地面を叩く音は次第に激しくなっていく。私たちは、降り出した雨を避けるように、開け放たれたままになっていた大きなガラス扉から、巨大な商業施設の跡地へと滑り込んだ。かつては多くの人々で賑わったであろう吹き抜けのエントランスホールは、がらんとしていて、私たちの足音だけがやけに大きく響いた。


天井の一部は崩落し、そこから雨水が滝のように流れ落ちて、床に大きな水たまりを作っている。壁には色褪せた広告ポスターが残り、床には商品の残骸や瓦礫が散乱していた。空気は湿り気を帯び、カビと埃の匂いが混じり合って鼻をつく。外の激しい雨音とは対照的に、建物の中は不気味なほど静かだった。


私は壁際に寄りかかり、リュックの中身を改めて確認した。昨日手に入れた缶詰は残り一つ。水のペットボトルも半分を切っている。この雨が止むまで、ここでやり過ごすしかない。問題は、その後だ。食料を探さなければならないが、雨上がりは「ナニカ」が活発になるという話も聞く。危険を冒して探しに出るか、それとも安全な場所で空腹に耐えるか。思考は常に、生存のための計算に行き着く。


「雨の音って、溜息みたいだね」

隣に座り込んだ仄が、天井から落ちる雨だれを見上げながら呟いた。

「空が、悲しいことをたくさん思い出しちゃって、ふーって、溜息をついてるんだよ」

彼女は、壊れたショーケースのガラス片を拾い上げ、光にかざしている。雨粒に濡れたガラスは、鈍い光を反射していた。

「この建物も、たくさん溜息をついてる。忘れられちゃった物語の匂いがする」


忘れられた物語。確かに、ここにはかつて、無数の人々の営みがあったはずだ。買い物をする家族、笑い合う友人、待ち合わせをする恋人たち。それらの光景は、今はもうどこにもない。ただ、空虚な空間と、打ち捨てられたモノたちの残骸があるだけだ。仄の言葉は、そんな場所の記憶を、感傷的に呼び覚ます。


私は、そんな感傷を振り払うように、建物の奥へと視線を向けた。薄暗い通路の向こうは、闇に沈んでいる。時折、その闇の奥から、パキ、とか、ズル、とか、微かな物音が聞こえてくるような気がした。気のせいかもしれない。あるいは、「ナニカ」が潜んでいるのかもしれない。壁には、黒く変色した奇妙な染みが、まるで巨大な生物が這った跡のように、いくつも残されていた。直接姿は見えなくても、その気配は濃厚に漂っている。見えない脅威は、見える脅威よりも、じわじわと神経をすり減らしていく。


仄の存在は、こういう時、妙な安心感をもたらした。彼女の非現実的な言葉や、物怖じしない態度は、この異常な状況に対する私の恐怖を、ほんの少しだけ麻痺させてくれるのかもしれない。彼女が隣にいれば、あるいは「ナニカ」に遭遇しても、何とかなるのではないか。そんな根拠のない期待すら、抱き始めている自分に気づく。打算だけでは説明できない、奇妙な依存心が芽生え始めているのかもしれない。それは、ひどく危険な兆候のような気がした。


「ねえ、藍ちゃん」

仄が、ガラス片から目を離し、じっと私を見つめてきた。その色素の薄い瞳は、まるで私の心の中を見透かしているかのようだ。

「藍ちゃんは、何を探してるの?」


唐突な問いかけに、私は言葉を失った。何を探している? 食料、水、安全な寝床。生きるために必要なもの。それはそうだ。けれど、彼女が問うているのは、きっとそういうことではないのだろう。では、私は一体、この瓦礫と静寂の中で、何を探し求めているというのだろうか。元の世界への帰り道? 失われた日常? それとも、ただ、意味もなく彷徨っているだけなのか。


「……別に、何も」

やっとの思いで絞り出した答えは、ひどく空虚に響いた。仄は、それ以上何も言わなかった。ただ、再びガラス片に視線を落とし、指でその表面をなぞっている。


外の雨音が、少しずつ弱まっていく。天井から落ちる雨だれの勢いも、心なしか穏やかになったようだ。そろそろ、ここを出なければならない。立ち上がり、リュックを背負い直す。仄も、黙ってそれに続いた。


ガラスの扉を抜け、湿った外気に触れる。雨上がりの空気は、奇妙なほど澄んでいた。水たまりが、鉛色の空を映している。仄の問いかけが、まだ耳の奥に残っていた。私は何を探しているのか。その答えは、まだ見つかりそうになかった。ただ、隣を歩く仄の存在だけが、妙に確かな手触りをもって、私の意識に残り続けていた。

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