女嫌い王子の近衛騎士は

火野青

一話完結

 王太子ルーシスは面前でこうべを垂れる騎士を嫌悪に満ちた青い目で見下ろした。


「ご尊顔を拝し、身に余る光栄に存じます。本日より王太子殿下の護衛を務める栄誉を賜りました、ジェッタ・セルベックと申します」


 ジェッタの口上が終わるや否や執務室に舌打ちが響く。王太子として相応しくない振る舞いに、補佐官のフレッドから向けられた窘めるような視線。だが、それにも構わずルーシスは忌々しげな声を絞り出した。


「なぜ、護衛に女をつけなければならない」

「殿下がご令嬢はおろか、侍女でさえも妙齢の女性を近寄らせないからです。年齢を考えますとそろそろお相手を決めていただかねばなりませんし、何より不名誉な噂をこのままにしてはおけませんので」


 フレッドの苦言にルーシスは眉根を寄せ、唇を引き結んだ。苛立ち紛れに輝く金色の髪をくしゃりと乱す。


 容姿端麗、文武両道と謳われ、常に国のために心を砕き、国民から愛される完璧な王太子。そんなルーシスの女嫌いもまた、王国内では誰もが知る有名な話だ。


 現在二十五歳の彼には婚約者はおろか候補すらいない。どれだけ縁談を持ち込まれても、全てにべもなく断っていた。更には家族と一部の信頼をおく者を除いて、一切の女性を排除する徹底ぶり。


 そんな状態が十年以上も続き、『王太子は男色家』『男性として機能しない』などと口さがない声まで聞こえはじめたことで、周囲が遂に業を煮やしたのだろう。荒療治とも言える手段にルーシスはずきずきと痛む頭を押さえながら深くため息を吐いた。


 フレッドと話していても埒が明かない。顔を伏せ続けるジェッタ・セルベックと名乗った騎士へと視線を向けた。


「立て」

「はい」


 音もなく立ち上がった彼女の頭から足元まで目を滑らせる。


 国内の貴族にしては珍しい艶やかな黒髪と、温度のない硝子玉のような灰色の瞳。整ってはいるが表情に乏しいジェッタの顔は、ルーシスがいくら視線を注いでも変化しない。


 姿勢よく真っ直ぐに伸びた背筋に長い手足。踵の高い靴を履いているのか、彼女と目線があまり変わらないことに彼はやや怯んだ。もちろん顔にはおくびにも出さずに。


「セルベックということは西部辺境伯の娘か」

「はい、キルベロンが末子です」


 抑揚のない低めの声で、にこりともしないまま淡々と答える。一切萎縮する様子もなく、眉一つ動かさないままジェッタは目を逸らさなかった。


「いきなりご令嬢然とした方達に慣れろというのは殿下も難しいでしょう。セルベック卿であれば信頼できるとのお墨つきですよ」


 なぜか得意気なフレッドを一瞥し、その視線をジェッタへと戻す。確かに彼女はルーシスの知る女性達とは違うようだ。だが、彼も素直に頷くつもりはない。


「お前に私の護衛が務まるのか?」

「団長と副団長からは、私の実力を踏まえた上での決定と伺っております。異議がございましたらお二人にお伝えください」

「ほう、そこまで言うのなら実力を見せてもらおう。私と手合わせをしろ」


 今からですか、とフレッドが喚くがルーシスは聞こえなかったことにした。


 西部辺境の騎士は精鋭揃いと名高い。娘であろうと剣を握らせると聞き及んではいたが、近衛騎士に任ぜられるほどの実力があるとは。断る口実にするつもりだが、自身も剣に覚えのあるルーシスとしてはその腕前を見たいというのも本音だった。


 一方、それまで変化のなかったジェッタの表情が僅かに強ばる。


「お言葉ですが、護衛すべき殿下に剣を向けるなどできかねます」

「私が許すと言っている」

「では、どのような結果になろうとも殿下が責を負うとお約束くださるのであれば、お受けいたしましょう」


 どうやらジェッタは自分が膝をつくとは微塵も思ってはいないらしい。女だてらに王太子の護衛を任されるほどだ。よほど腕が立つのだろう。随分と生意気なことだ。


「くどいな。わかった、何があろうとお前に責はない。これでいいか?」

「とのことです。キーリング卿、よろしいですか?」


 ジェッタとルーシスが揃ってフレッドへ目を向けると、彼は観念したように肩を竦めた。


「仕方ありませんね。そうでもしなければ殿下にご納得いただくのは難しいでしょう。では、私が証人になります」


 三人で鍛錬場へと向かい、一角を借りることにした。突然の乱入者とその顔ぶれに、好奇心を顕にした騎士や見習い達が遠巻きに伺っている。


 そんな周囲を気にすることもなく、模擬剣を軽く振って手に馴染ませるジェッタの姿は様になっていた。彼女の腕は確かなのだろう。しかし、ルーシスとてなんとしても易々と負けるわけにはいかない。


「判定はいががいたしますか」

「どちらかが剣を手放したら終了としよう」

「わかりました」


 ルーシスとジェッタが対峙し、フレッドが開始の合図を告げた刹那。ジェッタが地を蹴る音が耳に届いた。正面に打ち込まれた初撃を咄嗟にルーシスは刀身で受ける。どうにか反応できたが、この細腕のどこからこんな力が出るのか、びりびりと痺れほど重い。


 一度引いたジェッタから間髪を容れずに繰り出された横薙ぎの一撃が、ルーシスの胸を掠める。刃は潰されているものの、僅かに服を切り裂いた。


 彼女から次々に繰り出されるのは近衛騎士として型にはまった行儀のいいものではなく、相手を倒すことだけを考えた粗野で一切の無駄が省かれた剣技。防ぐだけでも手一杯のルーシスは攻めに転じることもできない。踊るように揺れる黒い三つ編みの毛先すら掠められず、気持ちばかりが焦っていく。


 脇腹目掛けた突きに気を取られ、足元への注意が散漫になっていたらしい。体勢を崩して尻をついたルーシスが目を開けた時には、すでに剣の切っ先が眼前に迫っていた。彼の剣はその手から離れ、ジェッタの足元に。


「これでお認めいただけますか?」


 涼しい顔をしてルーシスを見下ろし、息切れ一つしていない彼女を苦々しく睨みつけた。俯いて音が立つほど奥歯を噛みしめ、一言絞り出した。


「……お前を護衛騎士として認める」

「ありがたく拝命いたします」


 感慨の籠らない声が降り、目の前に手が差し出される。ルーシスよりも小さなそれは、守られる者ではなく守る者であると一目でわかるもの。


 女性の手など、家族の他には数えるほどしか触れたことがない。躊躇いながらも掴んだ手は力強くて、いやに熱かった。


 ルーシスを立たせたジェッタがあっさり彼の手を離すと、あっと言う間に彼女は騎士達に囲まれてもみくちゃにされる。


「やるじゃんジェッタ! 殿下が相手でも全然手加減しねえのな」

「なあ、次は俺と手合わせしようぜ!」

「離れてください、鬱陶しい。これから殿下の護衛ですから無理に決まってるでしょう」


 雑に頭を撫で、肩を組もうとする彼らをジェッタは迷惑そうな顔で払い除けている。その気安いやり取りを横目にルーシスはその場から離れた。いまだ冷めぬ手を握り締めながら。



 ジェッタが護衛騎士となった日々は、意外にもルーシスが案じていたほど悪いものではなかった。


 初めのうちは彼女を警戒していたものの、自他共に認めるほど優秀なのは確からしい。執務室では気配を見事に消し去り、最初の一月は声をかけるまで彫像のように微動だにせず控えていた。


 ルーシスに対して媚びへつらいすり寄ることもなく、愛想の欠片さえも見せないジェッタ。その態度に呆れつつ、彼女が傍にいる日常に慣れてしまえば顔を見ない日は物寂しいとさえ思うほど。


 そしてたわいもない話をするくらいに打ち解けて知ったのは、ジェッタの交友関係が広いことだ。


 城内のあちこちに顔見知りがいるらしく、地方からの陳情書について話を振れば次々とそこの出身者の名前があがる。その上、どこから聞いてきたのか現地の詳しい実情まで知っていた。


「この髪色と性別が目立つのか、見習いの頃はよく声をかけられました。今でも顔を合わせれば話をするので、その時に教えてもらったんです」


 そう言いながらジェッタが一つに束ねた三つ編みを振ってみせる。陽射しで艶々と輝く黒髪。それがルーシスにはひどく眩しくて、目を細めた。



 そうして半年が過ぎた今では私室への入室をジェッタに許し、そればかりかルーシスが寝支度をするまで控えさせている。それが当たり前であったかのように。


 夕食を済ませたルーシスが居室で書類に目を通していたある日のこと。傍らに控えるジェッタがどこか緊張した様子で声をかけてきた。


「殿下に一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「許そう」


 近ごろはこうして彼女の方から話かけることも少なくないが、わざわざ断りを口にするのは珍しい。


 ルーシスが視線を向けると、ジェッタは僅かに躊躇いながらも切り出した。


「女性を嫌悪なさるのは、どのような理由からですか?」

「っ、それは……」


 つい言葉に詰まってしまう。いつか尋ねられる日がくるとは思っていたが、いざその時になると取り繕うこともできない。


 そんなルーシスの動揺が伝わったのだろう。ジェッタが彼と目線を合わせる。その灰色の瞳は凪いでいた。


「無理に聞き出そうというのではありません」


 ですが、と一度言葉を切る。


「現状のように殿下が強情ですと、原因や理由がわからない周囲の者も同じように頑なにならざるを得ません」


 ジェッタの声音はルーシスを諭して促すのではなく、気遣うもの。彼に寄り添おうとしているのが伝わった。


「何事にも公正であろうとする殿下が、単なるわがままでそのような態度をなさっているのではないと承知しております。誰かに打ち明けることで解決は難しくとも、少しは殿下のお心が安らかになることもあるかと」

「……そう、か。そうだな……」


 王族としてはむやみに自らの弱みを明かすべきではない。

 それでも、ルーシスは誰かに聞いてほしかったのかもしれない。あるいは、その相手がジェッタだからなのか。


 短い逡巡の末、彼は意を決して語り始めた。


「あれは今から十三年ほど前のこと――」

「お待ちください殿下。誰かとは言いましたがその相手は私以外でお願いいたします。そうだ、キーリング卿フレッドはいかがでしょうか」

「お前が言い出したんだろう……! 黙って最後まで聞け!」

「そこまでの責任を負いたくはないのですが……。近衛騎士の任を越えてしまいます」

「私が十二歳になることを祝う宴の前日だった」

「始まってしまった……」



 ルーシスには四歳上の異母姉、ミネルヴァがいる。元々体が丈夫ではなかった前王妃は、ミネルヴァを出産してから一年あまりでこの世を去ってしまった。幼くして母を亡くした娘。彼女を憐れんだ国王はミネルヴァが望むままに全てを与え、願いを叶えてきた。


 だが、新たに迎えた妃がルーシスという男児を産んだことでミネルヴァの環境は大きく変わる。


 この国で王位を継承するのは男児のみ。故にそれまでミネルヴァを中心としていた王宮が、その主役をルーシスという後継者へと変えたのだ。その中には父である国王も含まれている。


 突然手のひらを返した大人達の態度に、当時四歳のミネルヴァが鬱屈とした感情をルーシスに向けるのは致し方ないこと。いち早くそれに気づいた国王は、可能な限り異母姉弟が顔を合わせることのないよう配慮した。


 しかし、その気遣いが余計にルーシスを特別しているようにミネルヴァの目には映ったらしい。彼女を利用せんとおもねる大人達はそれを見逃さず、国王や王妃の目を盗んではミネルヴァに甘言や空言をその耳に吹き込んでいく。


 かんしゃくを起こして関心を向けようとするミネルヴァに手を焼いた国王は、移動に三ヶ月以上はかかる他国との縁談を決めた。その時の荒れようは凄まじかったという。


 いずれ嫁ぐ身としての教育を叩き込まれる傍らで、異母弟は次期国王として学び、教育係達の賛辞を浴びていた。日々、ふつふつと募っていく不満。そこに双子の弟妹が産まれたことで、ミネルヴァは更に孤立を深めていった。


 そして、遂にミネルヴァの悪意が直接ルーシスへと向かう決定的な事件が起きる。


 ルーシスの誕生を祝う宴の前日。翌年には他国へと嫁ぐことが決まっていたミネルヴァは、彼に毒を盛った。


 ルーシスが毒物に対する耐性をつけはじめていたことと、王女といえどミネルヴァに用意できる毒は命にかかわるようなものではなかったこと。それらが幸いし、多少体調を崩す程度で翌日には回復して祝宴にも顔は出せた。


 とは言え後継者である王子が害されたのだ。たとえ身内であっても本来であれば厳罰に処すべきである。


 しかし、国王は厄介払いのように嫁がせるミネルヴァに対して負い目を感じていたらしい。関わった者達は適当な理由をつけて処分を下し、事件について公にすることなく内々に処理をした。


 後日、国王立ち会いのもとで設けられた、ミネルヴァから謝罪を受ける場でのこと。


 涙ながらに平謝りする異母姉と憐れみの表情を浮かべる国王。それらを冷ややかな顔で眺めていたルーシスは、手で覆われた彼女の口元を見逃さなかった。紅をのせたその唇が、醜く歪んだのを。


 結局ミネルヴァに与えられた罰とは、予定よりも半年早めて国を発つということだけ。


 涙一つで周囲の同情を乞い、どれだけ利己的な振る舞いをしようと庇護されるべきというだけで全てゆるされる。どれだけ美しく着飾っていても浅ましく、狡猾で卑劣な本性は隠しきれない。


 その事件以降、ルーシスは女性――特に年上に対する不信感が高じて苦手意識を抱くようになる。しかし、まだ嫌悪と言うほどではなく、社交や公的な場であれば礼儀として最低限の対応は可能な程度であった。


 それが悪化したのは成人を迎えたルーシスが正式に立太子して以降のことだ。


 王太子という立場か、又はその容姿に惹かれてか、はたまたその両方か。腹の内に何を飼っているかわからない者達が言い寄ってくる。しかもその多くがルーシスを心から慕っているかのように振る舞うのだ。中には既成事実を成そうと手を回す者まで現れる始末。


 可憐に微笑むその眼の奥で、ありありと欲望を浮かべる醜悪で強欲なその姿がミネルヴァ異母姉と重なる。彼女達の欲を満たすための対象として見られ、扱われることはひどく耐え難く、そうしてルーシスは女性という存在そのものを嫌悪するようになった。


 だが、いつまでも避けていられないのは彼自身が誰よりもよくわかっている。王位を継ぐものとして、血を繋ぐことは一番の責務だ。


 そう頭ではわかっていても、一度抱いた深い忌避感は簡単には払拭できない。最も酷い時期とくらべて今は改善されてはいるが、欲深さの滲む視線を向けられると全身の血が凍りつくほどのおぞましさで息をするのも苦しくなる。


 解決には至らないとしても、ルーシスは女性を遠ざけることでしか自身を守ることができなかったのだ。



 一通り語り終え、ルーシスは深く息を吐いた。額に浮かんだ汗が玉となって頬を伝い落ちる。


 話をする間、手元に視線を落としていた。きつく組んだ手は血の気を失って指先が震えている。緊張していたらしい。家族と事実を知る一部の者以外にこの話をしたのは初めてだ。


 できる限り主観を交えず伝えたつもりだが、ジェッタはどう受け止めただろうか。


 彼女は聞きたくなさそうにしていた。それも当然だろう。王家の醜聞とも言える内容なのだから、耳でも塞いでいるかもしれない。


 おずおずと顔を上げ、ジェッタの様子を窺う。伏せた顔は前髪が影となってその表情がわからない。


 ルーシスの視線に気づいたらしい。彼女が静かに口を開いた。


「姉君について、どうお思いですか」

「……今となってはどうでもいいとしか思わない。私の人生には、もはや関わりのない人だ」


 頼る者もいない見知らぬ異国に嫁いだことで心境に変化でもあったのか、ミネルヴァからは一年に一度――ルーシスの誕生日前後に手紙が届く。だが、受け取りはしても目を通すことなく破棄していた。詫び言でも怨み言でも、今更そこに何が書かれているか興味はない。


 感情を割くほどの関心は、とうの昔に消え失せていた。


「そう、ですか」


 そう呟くと、ジェッタはふたたび黙り込む。普段は不敬にならない程度に言葉数の多い彼女にしては口が重い。


 聞かせるべきではなかっただろうか、とルーシスの心に不安が過る。


「それだけ、か?」

「殿下の胸の内を私ごときが推し量ることなどできません。ただ、そのお気持ちに寄り添う者がおられなかったことが、とても残念でなりません」


 唇を噛み、握り締めた拳は震えている。


「どうして殿下が……殿下だけが耐えるべきではなかったのに」


 怒りや悲しみ、痛みを押し殺して絞り出すような声。ジェッタは、かつてルーシスが心の奥深くに沈めた欠片達を掬い上げ、それに憤っていたのだ。


 ――ただ、彼のために。


「……ですが、そのような過去があろうともその責を投げ捨てることなく全うなさろうとする気高さに、高潔さに」


 そして、と彼の足元に跪く。


「今こうして殿下にお仕えできることを、心から誇りに思います」


 じわり、と胸の奥から熱が広がっていった。冷えていたルーシスの指先は、もう震えていない。


 雨が上がり、陽射しが降る寸前の空を思わせる灰色の瞳が、ひどく眩しくて。そこに映る自分は、とても崇高で神々しいものになれた気がした。


 真っ直ぐに彼を仰ぐ真摯な眼差しが、不意に柔らかく緩む。そして、ジェッタの口元がふわりと綻んだ。


 慈しみが溢れる笑みに目を奪われる。


 束の間、ルーシスの息が止まった。今まで抱いたことのない感情が、次々と心に沸き上がっていく。


 頭を殴られたような衝撃にぐらり、と体が傾いだ。


「殿下、いかがなさいました!?」


 ジェッタが慌てて彼の肩を押さえる。先ほどからやけに大きな音をたてて跳ね上がる心臓がまた飛び上がった。


「なんでもない、から、気にするな」


 声が上ずるのを気にする余裕もなく、彼女の顔もまともに見られない。口元を手で覆い、のぼせたように熱っぽい顔を逸らした。


「……もう休む。お前は下がれ」


 肩に置かれた手を軽く払う。ジェッタの戸惑う気配が伝わるが、ルーシスはそれどころではなかった。


「かしこまりました。これにて、失礼いたします」


 扉が閉まる音を最後に、静まり返った部屋に広がる悩ましげなため息。


 どうしようもなく喉が渇いて、水差しから直接あおった。だが、どれだけ流し込んでも満たされない。口の端から零れる水を雑に拭う。


 気づいてしまった気持ちが、溢れ出してとまらなかった。



 翌朝、悶々として眠れぬ夜を過ごしたルーシスはジェッタとの出会いを振り返り、我ながら初対面の印象が悪すぎたと猛省した。臣下としては親しくなれたが、その先を望むのであれば態度を改めなければならない。


 そこで手始めに差し入れをすることで距離を縮めることにした。食べ物であれば彼女も負担に感じることはないだろう。


「これはなんですか?」

「大したものではない。たまには労おうと思っただけだ」

「ありがとうございます。みんなでいただきますね」

「……」


 次の日からは、きっちり一人分だけの焼き菓子を用意した。


「これはお前一人で食べろ。いいな?」

「はあ、お心遣いありがたく頂戴いたします」


 毎日せっせと彼女に意識してもらえるよう励むうちに、ルーシスの心境にも変化が現れる。


 ジェッタに打ち明けたことで胸のつかえが下りたのだろうか。女性を前にした時の息もできなくなるような苦しさが軽くなり、長い時間とはいかないが、家族以外とも話せるようにもなった。


 夜会等の場でもそこにジェッタの姿さえあれば二、三人とは踊ることにも耐えられる。今までは考えられないことだ。


 そして、ルーシスに近寄る誰も彼もが醜い欲にまみれているのではないとようやく気づく。過去の出来事による思い込みは、彼の視野を狭めていたらしい。


 目の前が開けたように心が晴れる爽快感は、久しく忘れてしまっていたもの。もはや、彼女のいない日々など考えられなかった。



 いつにも増してすっきりとルーシスが目覚めた朝。身支度を整え終えたところに私室の扉を叩く音が響く。


 許可を出すと入室したのはジェッタではなく、以前まで護衛を務めていた騎士だった。


「セルベックはどうした」

「本日は休暇を頂戴しております」

「休暇? 昨日は何も言っていなかったが」

「なんでも急に決まった見合いがあるとのことで」

「………………なんだと? 見合い? 誰と、どこで?」

「い、いえ、私もそこまでは……」


 余計なことを言ってしまった、と目を泳がせる騎士を射殺しそうな目で睨みつける。


「……補佐官殿には、昨夜のうちに伝えているそうです」


 硬い表情をした騎士が口ごもりながらそう続けた。口を開けば理不尽に怒鳴りつけてしまいそうで、ルーシスは爪が食い込むほどに手のひらを固く握り締める。


「……そうか、連絡の行き違いがあったようだ」


 非番や休暇にしても、当日まで知らされずにいることは今までなかった。


 心臓が軋むように痛む。ひどく胸が騒いで今すぐに飛び出してしまいたかった。


 だが、執務は待ってくれない。王太子という立場に不満を抱いたことはなかったが、今ばかりはそれが足枷のように重く感じられる。


 淡々と目の前の書類を処理しながらも、気が気ではない。


 そんなルーシスの鬼気迫る様子にフレッド含む補佐官達は気圧され、一日中震え上がりながら無事に勤務を終えられるよう祈るばかりだった。



 翌日、何事もなかったような顔をして護衛に就くジェッタ。そんな彼女を今すぐ問い詰めたいところをどうにか堪え、ルーシスは黙々と執務をこなしていった。


 室内に広がる肌を刺すような凍てついた空気。補佐官達は腫れ物に触れるように必要最低限の言葉だけを交わし、紙の上を走る筆記具の音がいやに大きく響く。


 その異様な光景に、用向きで訪れた事務官や文官達は一様にぎょっとした表情を浮かべてそそくさと立ち去った。


 空も暮れはじめた頃、ルーシスが深く息を吐いて顔を上げる。


「フレッド、今日確認すべきものは全て終わったな?」

「はい、殿下に決裁いただくものはございません」

「ご苦労だった。私は部屋に戻る」


 席を立ち、速やかに執務室を出る彼を追うようにしてジェッタもそれに続いた。


 二人が退室するや否や、補佐官達はへなへなと机に突っ伏す。誰もがこの二日間でやつれ果てていた。


「……明日もこんな状況なんでしょうか」

「今は何も考えるな……」


 一方ルーシスは人払いを済ませた私室に入るなり、腕を組んでジェッタを見据えて言い放った。


「昨日は私に一言の断りもなく見合いをしたらしいな、ジェッタ・セルベック卿」


 努めて冷静であろうとするも、咎めるような声音になってしまう。


 ジェッタは一度大きく灰色の瞳を見開くと、悪びれることなく器用に片眉を上げて訝しげな表情を作って見せた。


「私的な予定まで殿下にお伝えする必要はありませんでしょう? 休暇も団長には許可を得ておりました」

「お前は、私の近衛騎士だ」

「ええ、その通りです。いくらでも替えの利く一介の騎士にすぎません」


 ぴしゃりと言い放たれ、ルーシスは押し黙る。


「近ごろあれこれと気をつかっていただいておりますが、私などにはどうか構わず、ご自身の唯一のお相手をお決めください」

「それならジェッタ、お前が――」

「殿下」


 ルーシスを短く制止する声は硬質で、明確な拒絶が含まれていた。


「それ以上はなりません」


 一線を引くように後退る。視線は彼から逸らされない。


「私が立つべき場所は、高貴な殿下のお隣ではないのです」


 足元へとジェッタが跪いた。床に広がる、近衛騎士の証たる潔癖の白い外套。ルーシスは音が鳴るほど奥歯を噛みしめて、深く下げられた頭をただ見つめる。


「いついかなる時も、私は身命を賭して殿下の盾にも剣にもなりましょう」


 ですから、と区切ってジェッタは一呼吸おいて顔を上げた。彼女が喉を鳴らして息を吸う音さえ聞こえる、痛いほどの沈黙。


「殿下の近衛騎士として、王太子という立場に相応しいご判断をなさること、心より願っております」


 射抜くような灰色の瞳が、ルーシスを映して僅かに揺らぐ。一瞬にも満たないそれは、ジェッタが長い睫毛を伏せ、ふたたび視線を交えた時には消え去っていた。


 呆然と立ち尽くす彼の言葉を待たずして、彼女は足早に部屋を後にする。決して振り返ることはなく。


 扉の閉まる音で硬直していた体の自由を取り戻した。痛みを訴える胸を押さえ、ルーシスは苦しさに喘ぐように浅く呼吸をする。息を整えると自嘲の笑みを一つ浮かべた。


「それで私が諦めるとでも?」


 掠れた声に滲む静かな怒気。


 こんなにも人の心を惑わし、深く踏み込んでおきながら今更突き放すつもりか。そんなことは許さない。


 ルーシスを拒むのであれば、ジェッタは断じて隙を見せてはならなかったのだ。彼女がそのつもりなら、彼とて多少は強引な手に出るしかないだろう。


 あの態度を見るに、全く手応えがないというわけではなさそうだ。ならば、彼女自ら頷かざるを得ない状況さえ作り上げればいい。


 王太子の権力を振りかざせばことは簡単だが、それでは意味がない。ただし、持てる立場は遺憾なく使うつもりではあるが。


「覚悟しておけ、ジェッタ」


 決して逃がさない、と閉ざされた扉を睨みつける。その青い瞳はひどく剣呑な色を湛え、ただ一人に狙いを定めていた。



   ◇◆◇



「あのわがまま王子を止めてください」


 入室の許可を得るなり渋い顔をしたジェッタがそう訴える。


 書類仕事をしていた騎士団長と事務官は手を止め、まじまじとそちらを見つめた。どんなに厳しい任務を命じられても音を上げることなく平然としていた彼女が、今や疲れ果てた表情をしている。


 その原因には二人とも心当たりがあった。ジェッタの様子を見るに王太子が彼女に入れ込んでいる、という噂はどうやら本当らしい。


「女嫌いが改善されたらしいな。よかったよかった」

「何もよくありません。こんなことになるとわかっていたら、私は引き受けませんでしたよ」


 軽口をたたく団長にジェッタは心底迷惑そうにぼやく。


「建国以来の辺境伯家なら釣り合いもとれるし、喜んでお受けしたらいいだろ」

「いけません」


 きっぱりとしたすげない返事に彼は肩を竦めた。


「殿下には心から幸せになっていただきたいんです。……私以外の、もっと相応しい方と」


 思い詰めた声音に含まれた、忠義だけではない感情。団長はそれを正しく読み取った。


 これだけの思いを抱えていながらよく顔に出さずにいられるものだ、とある意味感心してしまう。


「相応しい方と幸せに、ねえ。殿下の幸せを、臣下であるお前が決めるのか?」


 眉を寄せたジェッタはそれに言い返すことなく、床に視線を落とした。


「……突然失礼いたしました」


 しばらく考え込んだ後、用は済んだとばかりに部屋を出ていく。


 机に頬杖をついた団長は事務官と顔を見合わせた。


「難儀なやつだよなあ」

「セルベック卿は真面目ですから」

「はは、なんだよそれ。俺が不真面目みたいじゃないか」

「……」

「否定してくれよ……!」


 果たしてジェッタが逃げ切るのが先か、ルーシスに陥落させられるのが先か。


 こればかりは、他人があれこれ口を挟むことではない。


「まあ、なるようになるだろ」


 そう呟くと団長は手元の書類に目を向けた。




 ジェッタがルーシスと出会ったのは彼女が六歳の時。父が辺境伯を継ぐこととなり、その承諾を得るために両親と初めて王宮へと上がった日のことだ。


 両親が国王に謁見をしている間、庭園を散策していたジェッタはいつの間にか護衛や侍女とはぐれてしまう。偶然近くにいた人に声をかけて案内してもらおうとしたのだが。


「気持ち悪い髪だな。こんなに真っ黒なんて見たことない」

「本当に貴族か? どうせ平民の血でも混ざってるんだろ」

「衛兵にでも突き出してやろうか」


 眉を寄せ、蔑みの色を宿した目でジェッタを見下す二人の少年。彼らは彼女を見るなり父譲りの黒髪をそう侮辱した。


 いたいけな彼女に向けられた明確な悪意に、体が震える。恐怖ではなく怒りで。


 剣ではなくともなにか長物ながものさえあればこんなやつらは簡単に叩きのめせるのに。


 まだ小さくて柔らかな手を勇ましく握り締めながら物騒な考えを巡らせるジェッタ。だが、拳を振り上げる寸前に父の言葉を思い出す。


 むやみに力で解決してはならない、それは最終手段だ、と辺境を守る父は常々子ども達に言い聞かせていた。


 実力行使以外の方法で解決するにはどうしたものか、とジェッタが思案していると。


「おい、何か言ったらどうだ!」

「あっ!」


 じれた少年の一人に突き飛ばされる。いつもなら容易に躱せるが、反応が遅れたせいで尻餅をついてしまった。更には足首を捻ったようで、鈍い痛みに彼女は顔を歪める。


「何をしている」


 足首を押さえて俯いたジェッタの背後から涼やかな声が耳に届いた。


「ルーシス殿下!」


 ジェッタの肩が跳ねる。彼らが呼んだのは、辺境から出たことのない彼女でも知る第一王子の名。


 振り仰いだ先には煌めく金色の髪に冴えた青い瞳をした、その人が立っていた。


 少年達と王子は面識があるようで、彼らはどちらも色を失っている。


「た、偶々僕達が通りかかった時に、その、この子が勝手に一人で転んだんです!」

「そうです、殿下。僕達は何もしていません!」


 先ほどまでジェッタに詰め寄っていた強気な態度はすっかり消え、彼らは保身のためにルーシスへと近寄り次々に弁明を口にした。


「仮に彼女が自ら転んだのだとして、君たちは手を取ることもせずに見ていただけなのか?」

「あっ……そ、それは」

「いえ、僕達もちょうど助けようとしていたところで……」


 尚も言い訳を続けようとする彼らに背を向け、彼はジェッタの前に膝をつく。上等な衣装が土で汚れるのを気にする素振りはない。


「立てる?」


 少年達に向けられたのは鋭いものだったが、一転して穏やかな声音で問われた。


 足首は熱を持ってずきずきと痛みを訴えている。すでに腫れているようで立てそうにはない。


 ジェッタは正直にふるふると首を横に振った。


「足を痛めたのか。この子を医務官のところまで運んであげてくれ」


 背後の騎士に声をかけると、彼はふたたび少年達へと向き合う。


「君たちには私から話がある」


 立ち竦んでいた彼らは項垂れたままその場を離れるルーシスに続いて行った。


 騎士に支えられながら立ち上がったジェッタは、遠くなるルーシスの後ろ姿から目が離せない。十一歳の少年らしい幼さはあれど、纏う空気は支配者のそれだ。これが上に立つ者としての風格なのか、とジェッタはまざまざと肌で感じ、感嘆の息を零す。


 その後、医務室に向かう道すがら、騒ぎを聞きつけて駆けつけた護衛達と無事に合流を果たした。


 治療を受けながら、医務室へ飛び込んできた両親へ一通り事情を説明し終え、すぐさま少年達を懲らしめんと飛び出しかけた父の背に向かってジェッタはこう宣言する。


「お父様! 私、近衛騎士になって殿下をお守りします!」


 かくして少女は剣を捧げる主を定めたのであった。



 ルーシスにとってはきっと、記憶にも残らないような手を差し伸べたうちの一人にすぎないだろう。ジェッタはそれでも構わなかった。


 ただ彼が治める国のためにできることをしたい。


 その一心で、領地に戻ってからは父に厳しくしごかれる鍛錬漬けの毎日を送っていた。


 故に彼女は知らなかったのだ。ルーシスの身に何が起きていたのかを。


 王城勤めの騎士となってから数日もしないうちに耳に入ってきた彼についての噂。どうしてもジェッタの記憶にある姿と結びつかない。


 半年間護衛として側にいた限りでは、女性を嫌悪している以外ルーシスの心根には変化がないように見えた。


 だから余計に何が彼をそうさせたのか、その断片だけでも知りたかった。まさか、長年彼の下にいるフレッドでさえ聞かされていなかった全てを打ち明けてくれるとは考えもしなかっただけで。


 狼狽えるあまり、まるで拒むような言葉を口走ってしまったのは非常に申し訳なく思う。


 ルーシスの口から語られた内容は、とても十二歳の少年が一人で抱えきれるとは思えないもの。護衛の任に就いた日にジェッタへ向けられた拒絶も今となっては頷ける。


 なんでもなかったことのように語れるまで、どれほど苦しんだことか。胸に広がる苦い思いに、ただ拳をきつく握り締めるだけの自分が不甲斐ない。


 私情を交えず公正な判断ができるルーシスのことだ。一度の経験だけで考えを固めることはしない。彼は何度も信じようとしたはず。その度に失意に沈み、遂には女性そのものを厭うまでになってしまった。


 当時、ジェッタが側にいても何も変わらなかっただろう。しかし、ルーシスが全て諦めてしまうことはなかったのではないかと悔み、無念でならない。


 過ぎてしまったものは変えられない。せめてこれからルーシスが進む道を切り開くための剣となり、盾になればいい。ただそれだけを願っていた――はずなのに。



 ジェッタに心の内を吐き出して以降ルーシスが変わった。常に彼から伝わっていた張り詰めるような空気が和らいでいる。


 更には女性が視界に入った途端に踵を返し、顔を合わせることさえままならなかった彼が自ら声をかけるようになったのだ。進んで関わるようになり、その症状は少しずつではあるが確かに改善の兆しが見えている。


 元々城に勤める者達についてはその働きぶりを正しく評価していたのだ。きっかけさえあればルーシスは自ら過去の呪縛を振り払い前に進む強さを持っている。


 周囲の喜びようはひとしおで、ジェッタとしても誇らしさで胸が熱くなった。彼が完全に克服できる日も遠くはないだろう。


 ――そこまではよかったのだ。


 もう一つの変化の方が深刻で、何よりもジェッタが頭を抱えることにさえならなければ。


 最初は気のせいだと思っていた。秘めていた過去を共有したことで、彼女に心を開いたからだろうと。


 だが、いくらその方面には疎い彼女でも、自分を見つめるルーシスの眼差しに今までにない焦がれる熱が籠められていれば否応なしに認めざるを得ない。そこに含まれた感情が、何であるのか。


 意識してしまえばどうしようもなく気持ちが揺らぐ。とてもではないが騎士としての本分を全うできそうにもなく、逃げるように以前から打診されていた見合いに臨むことにした。残念ながらその相手とは縁がなかったが。


 それでも諦める様子のないルーシスに、一人の臣下としての忠誠を示すために一線を引いた。


 そう、全ての始まりは確かに忠誠心だったのだ。誤算だったのは、そこに初恋とも呼べぬ淡い想いが種のように潜んでいたこと。


 ルーシスの護衛騎士として側に仕えるうちに芽吹いてしまったそれは、今や目を背けることが難しいほどに育ちきって根を張って日々ジェッタを悩ませている。彼女に彼の心が寄せられさえしなければ、気づかずにいられたのに。


 それに加えてきっぱりと断ったにもかかわらず、ルーシスは気が変わるどころか更に悪化してしまって手に負えない。


 菓子を持たされるのは当然として、同じ席についてお茶を飲め、宝飾品を受け取れ、と手を替え品を替えて落としにかかってくる。


 先日は繊細な金細工の台座に青く輝く宝石が鎮座する髪飾りを贈られた。それもルーシス手ずからジェッタの髪につけ、満足そうに目を細めるのだから心臓に悪い。


 この時ばかりは感情が顔に出にくいたちでよかったと思う。


 頼みの綱であるはずのフレッドや他の補佐官達は諫めるどころか、あたたかい目を向けて見守るばかりだ。時には涙さえ滲ませながら感謝の言葉すら呟いて。


 聞くところによると、国王や王妃さえこの状況を歓迎しているとか。ジェッタさえルージュの想いを受け取ってしまえば全て丸く収まり、いっそ楽になるのはわかっている。


 今でさえ強く自制しなければ絆されそうになっているのだ。


 いっそルーシスから離れてしまえば、とも考えたが、それでは一時しのぎにしかならない。


 手詰まりの状況に頭を痛めるジェッタに、更なる難題が降りかかるのはもうしばらくしてのことである。



 夕食を終え、私室に戻ったルーシスは上着を長椅子に放ると扉前に立つジェッタへと向き直った。


「ジェッタ」


 指を曲げ、こちらに来いと仕草だけで呼びつける。


 臣下としてけじめをつけようとしたあの日以来、名前で呼ばれるようになった。その度に心をくすぐられるような気恥ずかしさと居心地の悪さを感じてしまう。


「手を出せ」


 首を傾げつつもジェッタは右手を素直に差し出した。手首を緩く掴まれ、その内側を撫でさするルーシスの長い指が手袋の縁へとかかる。


 《騎士》という鎧を剥がされるようで、体が強ばった。


 ジェッタの反応をつぶさに観察するように見据える青い瞳。それが更に彼女を落ち着かせなくする。


 恐ろしいくらいに真剣で、いつもより深い色のそれから視線を逸らせない。このまま沈んでしまいそうな息苦しさに喘ぐように、知らず止めていた息をそっと吐いた。


「……殿下、近すぎます」

「お前は私の護衛だ。離れているよりはいいだろう」

「剣を振るのに邪魔です」


 するり、手袋が抜き取られて床に落ちる。汗ばむ手のひらに触れた空気が、いやに冷たい。


 ルーシスの指が絡み、手をきつく握られた。


「利き手を封じられているのに?」


 耳元に顔を寄せたルーシスが囁く。


 くっ、と喉を鳴らして嘲りを含む声音に、ジェッタは息を呑んで体を離そうとした。しかしそれより早く手首を引かれ、腰に回された手に阻まれてしまう。後退ろうにも更に引き寄せられて距離がなくなった。


 重なった胸から鼓動も気持ちも、全て伝わってしまいそうで、怖い。


「来週の舞踏会には護衛ではなく、セルベック家の娘として参加しろ。これは命令だ」


 ルーシスが二十六歳となる生誕祝いの舞踏会。その場に令嬢として参加させることの意味はジェッタにもわかる。


 そして、今まで婚約者をおかなかった彼がわざわざ彼女に命じるその真意も。


「どうかお考え直しください。そのお気持ちはきっと、親愛や友愛の情で――」


 それ以上聞きたくないとばかりに、背骨が軋むほどに抱きすくめられた。手荒なのに切実で、縋るように。


 二人の間で響く、どちらのものかもわからない跳ね回る心臓の音。ジェッタの肩口に額を押しつけるルーシスの髪が首筋を掠めた。


「私のこの想いは私だけのものだ。お前であろうと、否定することは許さない」


 顔を上げた彼が挑むような眼差しで彼女を射抜く。


「私が望んでいるのは、一人だけだ」


 喉が渇いて張りついたように声を出せずにいると、手のひらに柔らかな唇が押し当てられた。そのまま彼の頬へと導かれる。


「安心しろ、ドレスは私の方で用意する。当日は侍女も手配するから安心するといい」


 そう言い捨てるとルーシスはようやくジェッタを解放し、手を振って辞去を命じた。


 どうやって宿舎に戻ったのかもあやふやなまま、彼女は自室に入るなり扉に背を預けてずるずると座り込む。抱えた膝に顔を埋め、しばらく言葉にならないまま唸り声だけが零れた。


「どうしたらいいのよ……」



 それからはお互い何事もなかったように普段通りに過ごした。唯一変わったのは、ルーシスがジェッタを私室に入れなくなったこと。内心気が気でない彼女にとっては僅かながらの救いであった。


 そうして遂に迎えたルーシスの誕生日。彼の宣言通り手配された年嵩の侍女達がジェッタの部屋を訪ねてきた。夜が明けて間もない時間に。


「お時間がありませんから、速やかにご準備いたします」


 問答無用で香油を垂らした湯船に放り込まれ、入念に肌を磨かれる。世の令嬢達は毎回こんなことをしているのか、とすでにげんなりしたジェッタは用意されたドレスを目にして言葉を失った。


 深い青色の上質な絹地を贅沢に使い、金糸で王家の花の意匠がふんだんに刺繍されたドレス。揃いの宝飾品や靴まで用意され、否応なしに贈り主の顔が浮かんでくる。


 あまりにも重すぎる。その重みも、そこに籠められているものも。


「あの、本当にこれを着なければいけませんか?」

「殿下がセルベック嬢にこちらのドレスをお贈りしていることはすでに知られております」

「他のドレスにしようものなら、いらぬ勘繰りをされるかと」


 込み上げるため息を呑み、ジェッタは観念して手を上げた。


「……わかりました、お願いします」


 腰をきつく絞り上げられて心も引き締まる。化粧と髪結いを手際よく仕上げる彼女達に見惚れていると、いつの間にやら姿見の前に立たされていた。そこに映るのは見事に飾り立てられた淑女の姿。


「よくお似合いですわ」

「初めてにしては、殿下の見立ても悪くはありませんね」


 女性にとってのドレスは騎士の甲冑に等しい、とは誰の言葉だったか。侍女達の称賛を聞き流しながらジェッタは戦く。今夜を境に、全てが変わってしまいそうな予感がした。


 会場の扉前まではルーシスに命じられたフレッドが連行、もとい付き添うことになっている。


 回廊を並んで歩いていた時だった。夜風にまぎれ、遂に解放される、と万感の思いが詰まった呟きがジェッタの耳に入ったのは。


 聞き捨てならない言葉にフレッドを問い詰めるもはぐらかされ、彼女の足は益々重くなる。


 満面に笑みを浮かべながら見送るフレッドに恨めしげな目を送りつつ会場に足を踏み入れた途端、あちこちからジェッタに注がれる視線の数々。


 王太子の意中の相手を値踏みしようとするそれらに気圧されて、立ち竦んでしまいそうだ。せめて目立たぬように会場の隅へ向かおうと一歩踏み出した時。


「ここにいたのか、ジェッタ」


 一際大きなざわめきが広がる中でも、その声だけは確かにジェッタの耳が拾った。割れた人波の間から金糸のごとき眩い髪を揺らしてルーシスが彼女の前まで歩み寄る。今すぐに踵を返してしまいたいのを堪え、静々と淑女の礼をとった。


「王太子殿下にお祝い申し上げます」

「ああ、よく来てくれた。感謝する」


 半ば強引に参加させておいてよく言う、と内心で悪態を零しながらジェッタは顔を上げる。目の前に差し出されたルーシスの手に、しつけられた犬のように同じものをのせた。しまった、と彼女が手を引く前に柔らかな唇が手の甲に寄せられる。


「そのドレス、よく似合っているな。今夜の君はいつにも増して美しい」


 砂糖菓子よりも甘い声と蕩けた笑顔。


 正面からそれを浴びたジェッタは、そこかしこからあがる悲鳴を耳にしながら頬を噛むことで正気を保った。


「……過分なご配慮を賜り感謝いたします」

「今日の祝いに一曲つき合ってくれるだろう?」

「構いませんけれど、足がどうなっても知りませんよ」

「君と踊れるのなら望むところだ」


 軽口を叩き合いながらルーシスに手を引かれる。背後から放たれるご令嬢や貴婦人方の突き刺さるような視線が痛い。全身に穴が空きそうだ。代われるものなら是非とも代わってほしい。


 重なる手をきゅっ、と柔らかく握られて目線と意識をルーシスに向ける。まるでジェッタだけを映しているかのような眼差し。その瞳の熱にあてられて彼女は火照った顔を伏せた。


「可愛いな」


 彼のその呟きと小さく笑う気配に、ひどくこそばゆい。


 広間の中央で二人が向かい合うとルーシスの合図で演奏が始まる。久しぶりに踊るジェッタのぎこちない動きは、ルーシスのリードによってどうにか形になっていた。


 曲も終盤に差し掛かった頃。勘を取り戻して笑みを浮かべる余裕さえも出てきたジェッタであったが、不慣れな靴に足を縺れさせて体勢を崩してしまう。


 倒れる、と身構えた彼女の腰が力強く引かれルーシスに抱き止められた。安堵したのも束の間。傍から見れば彼の胸に凭れかかり、身を寄せ合っているような状況だ。


「申し訳ありません、もう大丈夫です」


 慌てて離れようとするもルーシスは腕の力を緩めない。それどころか頬が触れ合うほどに顔を寄せ、赤く熱をもったジェッタの耳朶に低い声で囁いた。


「この曲が終わったら話がある。くれぐれも逃げようなどとは考えるな」


 有無を言わせない声色に、ただ頷く。負け戦に向かうような心地で最後まで踊り切り、演奏が止んだ会場の中心で向かい合った。


「ジェッタ・セルベック嬢」


 ルーシスが彼女の足元に恭しく膝を折る。ジェッタを仰ぎ見て、視線が交わるとそれだけで嬉しそうに柔らかく目を細めた。


 ふわふわと心が浮き立つ、まるで現実みのない光景。


 時が止まった世界に二人だけが存在するようだ、なんて月並みな表現だと呆れていた。けれど、本当にそう思えるのだから笑えないなどと場違いな考えすら浮かんでくる。


「これまで、私の剣としてよく仕えてくれた」


 揺るぎない意志を宿してジェッタを映す青い瞳。眩むほどの輝きを放つその眼差しに、束の間呼吸の仕方を忘れた。かろうじて吐き出した息が震え、重なる手から全身に熱がのぼる。


「これからは私の隣で共に歩んでほしい」


 会場を満たすざわめきもジェッタの耳には入らない。ただ、自身の鼓動だけがいやに大きく響いていた。あらゆる感覚がルーシスただ一人へと向いている。


「願わくは、どうか私の妻に」


 ここで頷いてしまったら、きっと二度と戻れないだろう。ずっと見ないふりをしてきた自分の心と向き合うのが、恐ろしい。叶うなら逃げ出してしまいたい。久しぶりに纏ったドレスの中でジェッタの足が震えた。


 往生際悪く、救いを求めるように顔を上げた先で国王夫妻の姿が目につく。


 いくら王太子とはいえ、このような暴挙は国王も許しはしないだろう。一縷の望みを抱いて視線を投げかけた、のだが。


 涙ぐんで頷く国王。その隣に立ち、淑やかな笑みを浮かべてジェッタに手を振る王妃。更には巨躯を揺らしながら手で顔を覆う父とそれを宥める母まで揃っている。


 それは、文句なしに根回しは済んでいるとしか思えない光景。


 この舞踏会に足を踏み入れた時、いや、きっとその前から仕組まれていたのだ。


 ――嵌められた。


 こんな芸当が可能なのは、いまだ優美な笑みで彼女を見上げる王太子に他ならないだろう。憎らしいほどに優秀なルーシスによって、ジェッタの退路は尽く断たれている。


 しばし思考を放棄していると握られた手が軽く引かれた。尚も注がれる焦がれたような視線は、彼女が応えるまで引くつもりがないらしい。


 こうなっては覚悟を決めるしかない。自分の心も、もうこれ以上誤魔化せないのだから。


 唇を湿らせ短く息を吐いた。目の奥が痛いくらいに熱い。とびっきりの笑みを浮かべながらこたえを声にのせた。


「不甲斐ない私でよろしければ、喜んでお受けいたします」


 言い終えた瞬間、立ち上がった勢いそのままのルーシスに抱きつかれ、たたらを踏んでどうにか堪える。ジェッタは己の体幹に感謝した。普通の令嬢であればもろとも倒れていただろう。


「ありがとう、ジェッタ。愛している」


 それでも、ほんの少し湿る声で呟かれた一言で許してしまうくらいには、彼女も絆されてしまっているのだ。


「私もお慕いしております」


 頬への口づけは、ほんの少ししょっぱかった。



 ルーシスの求婚に頷いた後。表面上はにこやかに祝福の言葉をかける貴族達の挨拶を浴び、へとへとになりつつ彼と共に宴会場から抜け出した現在。


「あの、殿下」

「ルーシス」

「……ルーシス殿下」

「ルーシス」

「…………ルーシス様」

「ルーシス」

「…………………………ルーシス」

「なんだ? ジェッタ」


 耳に直接蜂蜜を注がれているような声音にくらくらする。


 ジェッタは半ば拐われるようにルーシスの私室に連れられてきた。長椅子に腰かける彼の膝に抱えられ、ぐりぐりと頭に頬擦りされている。その勢いで発火しそうだ。


 降りようともがくも、腰に回された腕は一向に外れそうにない。仕方なく抵抗を諦めてジェッタは本題を切り出した。


「こんな深い時間に使用人も護衛も下がらせて、部屋に二人というのは誤解されてしまいますよ」

「誤解もなにも、婚約したのだから問題はない」

「正式な婚約はまだでは?」


 ああ、と麗しい顔を綻ばせてジェッタの頬に手を添える。


「それなら心配いらない。婚約証明書は早駆けで教会に提出され、無事に受理されたと報告を受けている。これで君と私は神に誓った婚約者だ」


 求婚に頷いた途端、やけに急いで署名をさせられたと思ったら仕事が早すぎる。こんな夜更けに叩き起こされた名も知らぬ誰かに同情した。


「……さすが、有能でいらっしゃる」


 片頬を引きつらせながら絞り出すように発したジェッタの言葉に、ルーシスは笑み崩れながら喜色を隠しもせずに答える。


「そうだろう! 婚姻の準備も以前から進めていて、三ヶ月後には式を挙げられるぞ」

「褒めてはおりません。……いや、それよりも婚姻まで三ヶ月? 王族の式ですよ、いくらなんでも早すぎませんか」


 準備を進めているとはどういうことか。いったいいつから計画していたのか。


 断らせることも逃がすつもりもさらさらなかったのだろう。今更ながら、とんでもない人に捕まってしまった。


「子が産まれる前に済ませなければ。そうでなくとも腹が大きくなっては難しいだろう?」

「…………は?」


 不敬極まりない声が零れるが仕方がない。先ほどからさらりと伝えられる話を呑み込むだけでジェッタは手一杯なのに、それらを上回る聞き捨てならない内容が飛び出したのだから。どうか聞き間違いであってほしい、と願うも。


「今夜は帰すつもりはないし、明後日まで放すつもりもない」


 続いた彼の言葉に、自分の耳は正常であることに彼女は頭を抱えたくなった。


「私と一緒に、朝を迎えてくれないか」


 じわり、とはにかむルーシスの目元が朱に染まっていく。その顔につられて熱を帯びたジェッタの頬を撫でる手は、ひどく優しい。


「……ですが」


 言いかけた彼女の唇が柔らかなもので塞がれた。触れるだけの口づけに、益々心臓が早鐘を打つ。


 ルーシスが一度唇を離してジェッタの瞳を覗き、そこに拒絶の色が含まれていないのを確かめるとふたたび唇を重ねた。だんだんと深まる口づけに、ジェッタもおずおずとルーシスの首に腕を回して応える。


「ずっと、こうしたかった」


 弾んだ吐息が重なった。唇の上で囁かれる声は甘く掠れている。


「ジェッタ……」


 潤んで蕩けた青い瞳。そこに燻る熱情に、ジェッタの理性は深く沈んでいった。自分の灰色の瞳も、きっと同じものを灯しているのだろう。


 ルーシスに求められると、何もかも全てを捧げてしまいたくなる。口づけの余韻から抜け出せず、ふわふわと回らない頭は彼だけを求めていた。


「……せめて、寝室で」


 ルーシスの肩口に顔を埋めながら、そう伝えるだけで限界だった。


「! そうだな!」

「それから、どうかお手柔らかにお願いします」


 念のために釘を刺しておく。どれほど効果があるかは不明だが。


「…………善処する」


 ありありと苦悩の滲む声音にジェッタは堪らず吹き出した。止めどなく込み上げる愛おしさに突き動かされて、彼の頬に唇を寄せる。


「ルーシス、好きです」


 間違いなく心からの言葉であったが、彼女がその一言を後悔することになるのは程なくしてのこと。



 端から頷かせること以外の選択肢を与えなかった万事に優秀な王太子は、宣言通りに三ヶ月後の今日式を挙げた。


 とても短期間で準備したとは思えない規模に、ジェッタは呆れを通り越して尊敬の念さえ抱いたのである。


「そんなに私と結婚したかったんですか」

「当然だろう。どれほどこの日を待ち遠しく思っていたと……まさか、君は違うのか」


 不安げに瞳を揺らすルーシスに見つめられてジェッタはぐっ、と言葉を詰まらせた。最近知ったことだが、自分はこの顔に弱いらしい。


「……私も、同じ気持ちです」


 よかった、と顔を綻ばせるルーシスに心臓がきゅっと締めつけられる。ジェッタの言葉に一喜一憂する彼のこんな姿を、他の誰にも見せたくないと思うくらいには欲張りになってしまった。 


 今更意地を張るのも馬鹿馬鹿しい。少しずつ、この想いを言葉で伝えていきたい。きっと、ルーシスは喜んでくれるだろうから。


「ルーシスの妻になれて、嬉しいです。これからは一緒に幸せになりましょうね」



   ◆◇◆



 誕生日を数日後に控えたルーシスは、自室にて一通の手紙に目を通していた。読み終えた彼は隣に座るジェッタの手を握り、躊躇いがちに口を開く。


「……姉上に、手紙を書こうと思う」

「ええ、それがよろしいかと。お伝えしたいことがたくさんありますね」

「いつか、あちらの国にも行きたいな。その時は君もついて来てくれるか?」 

「もちろんです。私はいつでもあなたの隣にいますから」


 その言葉を誓うように、そっと彼の頬に唇が触れた。


「この子も一緒に、ミネルヴァ様にお会いできるといいですね」

「そうだな」


 ルーシスの手に指を絡め、ジェッタは空いた手で臨月を迎えた腹を愛おしそうに撫でている。


 その横顔を眺めながら、彼は何故だか泣きたくなった。


 女嫌いだった王太子の護衛騎士は、どんな時でも離れずに彼の身も心も守ってくれている。今までも、これからも。

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女嫌い王子の近衛騎士は 火野青 @hino_ao

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