第三話 物語が生まれる瞬間

 このあたりで、音楽の話題から少し視点を広げ、読者にとって関心深い文学の世界について触れてみたいと思います。


 今年の本屋大賞に輝いたのは、花巻市出身の阿部暁子さんの『カフネ』です。全国の書店員による投票の結果、第22回本屋大賞に選ばれました。授賞式で見せた彼女の爽やかな笑顔が、とても印象的でした。


 タイトルの『カフネ』はポルトガル語で、子ども、恋人、家族など、愛する人の髪にそっと指をとおす仕草。頭をなでて眠りにつかせる、穏やかな動作のこと。日本語に置き換えれば、『ナデナデ』といったところでしょうか。


 小説において、タイトルは作品の重要な要素のひとつです。それにもかかわらず、こんなに短い三文字を選んだことに、深く心を動かされました。


「私が茶碗だとすると、大きなどんぶりに入れるご飯をいただいたよう。入りきらないほど大きな賞です」と、満面の笑みで語られる姿には、長年の努力が報われた喜びが滲んでいました。


 阿部暁子さん、おめでとうございます。さっそく書店に立ち寄り、久しぶりに紙の本を手に取りました。読者の一人として、心からお祝いの気持ちを贈ります。


 岩手県の花巻市といえば、東日本大震災によって甚大な被害を受けた地域として知られています。しかし、その試練を乗り越え、現在では復興を遂げ、力強い歩みを続けています。


 詩人、童話作家、教師、科学者など、多彩な顔を持ち、『銀河鉄道の夜』の作品で広く知られる宮沢賢治さんは、この地が生んだ才能のひとりです。

 また、花巻はスポーツの分野でも輝かしい実績を誇り、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手や菊池雄星選手が花巻東高校の出身であることも、この街の誇りをさらに輝かせています。


 執筆の背景や受賞の感想を交えながら、取材会見の席で阿部暁子さんが語った中から、特に印象深かった裏話をご紹介します。


 彼女は大学卒業後、少女向けレーベル「コバルト文庫」からすぐにデビューしました。ところが、17年もの間、文学賞とはまったく縁がなく、売れない作家としての日々を過ごしたそうです。


 作品が広く知られることもなく、出版すら困難な状況が続きました。焦りからか、次第にオリジナルの物語を生み出すことが難しくなっていったといいます。


「まるで、おしゃれなカフェの客に牛丼を食べさせようとしていたようだった」と、当時のことを振り返っています。


 そんな苦悩の中、家族は星が輝く夜に暁子さんを外食へ連れ出しました。彼女の目の前には、ジュウジュウと音を立てる熱々のハンバーグが運ばれてきます。肉汁があふれ、香ばしい匂いが立ちのぼりました。


 その瞬間、家族の笑顔とともに、その温かさが彼女の心に染み渡り、頬が自然とほころび、久しぶりに微笑みました。


 やがて、失われていた活力が体の奥から湧き上がるのを感じるとともに、執筆への新たな情熱が胸の内に芽生えます。このひとときの温もりが、彼女を再び創作の世界へと導いたのかもしれません。


 こうして、彼女は、日々の暮らしの中でふと『いいな』と思う瞬間を大切にし、そのときめきを物語に紡ぎ出すという創作の原点に立ち戻ることができたのです。その結果生まれたのが、本屋大賞に選ばれた『カフネ』という感動的な物語でした。


 着想のきっかけとなったのは、テレビ番組でのワンシーンでした。NHKの『プロフェッショナル―仕事の流儀』に登場したあんこ職人が、ワゴン車に乗って和菓子店へ向かう姿を目にした瞬間、彼女の胸に深い感動が込み上げてきたそうです。


 この職人、小幡さんの炊くあんこは、老舗和菓子店の職人たちも教えを請うほどの究極の逸品です。彼は自分の店を持たず、店から店へと渡り歩きながら極上のあんこを炊き続け、その技ひとつで30軒以上の菓子店を再建してきました。


 通常5時間ほどかかるところを、約50分で仕上げる型破りな技で炊かれるあんこは、小豆本来の香りと味を際立たせ、『極上のあんこ』と称されています。


 このシーンを目にしたことがきっかけとなり、阿部さんは『さすらいの料理人と人生につまずいた41歳が車で旅をする』という物語を生み出しました。


 何気ない日常のひとコマが、心を揺さぶる物語へと昇華される――それこそ、創作の豊かさを実感する瞬間です。小説が自分自身を映し出す鏡といわれるのも、きっとそのためでしょう。


 小説の着想は、時に思いがけないところから生まれるもの。その奥深さに改めて驚かされます。だからこそ、ふとした気づきを大切にし、言葉として残しておくことが重要なのかもしれません。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る