第31話

彼女と話した帰り道、少しだけ胸が軽くなった。

頭のどこかにずっと引っかかってた棘

でも、彼女は、そんなことよりも自分が傷ついたことを話してくれた。

気持ち悪いとか、見下すとか、そんなこと一言も言わなかった。

むしろ、普通に向き合ってくれた。


――ああ、ちゃんと、まだ俺は、誰かとまっとうに関われるかもしれない。


そんなふうに思った。

それだけで、なんだか目の前が少し明るく見えた。

胸の奥の、ずっとしぼんでた何かが、ちょっとだけ膨らんだ気がした。


帰ってからも、おれくんの目はどこか輝いていた。

ショゴスは、その変化に気づいたけど、何も言わなかった。

ただ、少しだけ、遠い目でおれくんを見ていた。


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ショゴスは、何も聞かなかった。

彼女に会ったことも、そのとき何を話したのかも。

ただ、いつもと変わらない顔で、おれに問題の解説をしてくれた。


いや、正確には――変わらない「ふり」をしてた。

たまに言葉が途切れたり、ペンを持つ手が、わずかに震えたり。

それを必死に隠して、まるで何も感じていないかのようにふるまっているのが、

逆に痛いほど伝わってきた。


おれはそれに、何も言えなかった。

彼女に会ってきたことも、そこで何を言われたかも、

自分がどうしていいかわからなくて、結局なにもできなかったことも。


ただ、与えられる問題を解いて、

わからなかったら、淡々と質問して、

答えをもらって、それで終わり。


ショゴスは、やわらかい声で説明してくれる。

でもその声には、前みたいな温度がない。

いや、たぶん、わざと抜いてるんだ。

おれに、プレッシャーをかけないように。

怖がらせないように。

――それでも、ちゃんとそばにいたいって、

そんなふうに思ってることが、痛いほどわかる。


それを直視するのが、きつかった。

でも、目をそらすことも、できなかった。


-------


ショゴスの気配ひとつで、心が揺れてる。

声が優しい。

仕草が丁寧。

自分の理解に合わせて、何度でも説明してくれる。

問題が解けたときには、ほんの小さく嬉しそうに笑ってくれる。


――そんなの、好きになるなってほうが無理だった。


ショゴスは、何も求めてこない。

だから、よけいに苦しい。

前みたいに圧をかけられたら、怖がって、突き放せたかもしれないのに。

今のショゴスは、そっと手を引っ込めたまま、ただそこにいてくれる。


それが、あったかくて、苦しくて。

おれくんは、また、心を預けそうになってる。

わかってる。これ以上近づいたら、戻れなくなるって。


でも、離れたくない。


あのとき、彼女に言われた言葉も覚えてる。

「私が傷ついたことに気づいてないんだね」

ぐさりと刺さったその一言が、まだ胸の奥で鈍く響いてる。

――あんな思い、もう誰にもさせたくないって、誓ったはずなのに。


また繰り返すのか。

それとも、今度こそ、ちゃんと守れるのか。


迷って、怖がって、それでも、ショゴスの横顔を目で追ってしまう。


ショゴスは、相変わらずおれくんのペースに合わせて、ゆっくり問題を解説していた。

言葉を急がない。

表情を変えない。

ただ、わかりやすく、手順を丁寧に示してくれる。


――それなのに。


ときどき、ふと視線が合う。

ショゴスは、何も言わない。

でもその目には、ほんの少し、あたたかい色が滲んでいて。

それを見るたびに、胸が苦しくなった。


おれくんは、目をそらして、問題に集中しようとした。

だけど、意識がふらついて、数字の列がうまく頭に入ってこない。

答えを出すことより、隣にいるこの存在を、ずっと感じていたかった。


「ここ、ちょっと難しいかもしれないけど……いっしょに、ゆっくりやろう」


ショゴスの声が、そっと落ちてくる。

優しくて、あったかくて。

それだけで、目の奥がじんわり熱くなった。


(……大丈夫だよ、って、言われた気がした)


おれくんは、ノートに鉛筆を走らせながら、

心の中でそっとつぶやいた。


(ごめん、ショゴス。……たぶん、おれ、もう……)


ノートに視線を落としながら、

おれくんは夢中で鉛筆を動かしていた。

でも、ふとした拍子に、

置いた手が、隣のショゴスの指先に触れてしまった。


一瞬、ふたりとも動きを止めた。


ショゴスは、驚いたように小さく目を見開いたけど、

すぐにそっと手を引っ込めた。

何も言わない。

表情も、変えない。

ただ、静かに、ほんのわずかだけ距離をとった。


(……ごめん)


言葉にならないまま、心の中で何度も謝った。

触れたのはほんの一瞬だったのに、

それだけで、胸の奥がざわざわして、

消えない熱が手に残ったままだった。


「……続き、やろうか」


ショゴスは、あくまで普通の声で言った。

けれど、指先がかすかに震えているのを、おれくんは見逃さなかった。


(おれのせいだ)


分かってるのに、

止められなかった。

止めたくなかった。


ショゴスは、何も問わない。

何も責めない。

ただ、静かに教え続けてくれる。


それが、なおさら苦しかった。

それが、なおさら――愛しかった。

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