第2話

 昨日、わたしをおそったもの。それは激しい怒りだった。

「起こしてって言ったじゃない」

 そう言いながらリビングにやってきたわたしを、母も父も、きょとんと見つめる。

「起こしたよー」

 母はのんびりと返した。ダイニングテーブルに着いてトーストをかじっていた弟はにやにやしながらテレビのチャンネルを変え、父はブラシをかけ終えたジャケットを羽織った。

 何もかもが気に入らなかった。

「じゃあ、行ってくる」

 と、父は言い、

「おれもー」

 と、弟が続く。

「カスミ、ほら、朝ごはんは?」

 台所から母が声をかけてくる。

「いらない」

「えー」母は大げさな声を上げる。「新学期になったら、ちゃんと食べていくって言ってたじゃない」

「だって、もう、時間ないじゃん」

 何もかもが気に入らない。少し憂鬱な新学期も、気だるい眠気も、そして何より、早起きひとつできないわたし自身。

 駅に着き、普段より混み合うホームに並んだ。隣にいる制服姿の男子がわたしを見ているような気がした。視線を返すと、彼は少し微笑んだ。

 クラスメイトだった、と思う、たぶん。あれ、名前なんだっけ。

「この駅には、桜を見に」

 わたしが名前を思い出せない彼は、妙なことを言った。だけど、早起きをできる側の人間だ。

 電車に乗り込むとわたしは彼に訊いた。

「早起きって、どうやったらできるようになる?」

 彼はなぜだか慌てたように、まばたきを繰り返した。

「そうだな。何か、目的とか、目標があるといいんじゃないかな」

 がつんときた。やりたいことがないわたしの日々を揶揄されたようにも思えて腹が立った。だけどそれはわたしの思い込みだ。車窓を眺める彼の横顔はなんだか純朴で、平和そうに見えた。

 教室に着くと、こっそり出席簿を確かめた。五十音順、わたしの席の三つ後ろの席に彼は座った。

 ノハラ、ハラダ、ハルサキ。

 彼の名前はハルサキシュウだった。

 ハルサキが言ったことは本当だ。目的、目標、わたしに足りないのはそういった日々の原動力だ。

 悔しいな。誰に対して? 何に対して? ハルサキなら、なんて言うかな。

 翌朝、わたしはハルサキが指した公園に向かった。まとわりつくような眠気は家を飛び出した瞬間、消えていた。ひんやりとして、どこか甘い香りのする空気、ぴかぴかの日差し。

 豊かだな、と思った。とても心地がいい。

 公園の桜並木を見るのは久しぶりだった。何年か前に家族とお弁当を持って花見に来たきりで。

 記憶の中の桜より、きれいだ。手を伸ばし、触れられるくらいの近さで、満開の桜はわたしを抱きしめてくれるようだ。

 果たして、ハルサキは姿を見せた。我ながら大胆かつ繊細な朝の企みは成功を収めた。

 階段を上ってくるハルサキに声をかけると、彼はぽかんとした表情を浮かべた。

「ネコヤも早起きなんだね」

 歩き出したわたしにハルサキはすぐに追いついてくる。

「まあね」

 芝生になっている広場の真ん中をまっすぐに通り抜けると、やがてひと際大きな桜の樹が見えてくる。

「ああ、あれはすごいね」

 ハルサキが声を漏らす。

 空を覆うような大樹だった。

 根元までたどり着くと、ハルサキは不思議なことを言った。

「ぼくは満開の桜を見ると、生き物のように感じてしまうんだ」

 どういうこと? とすぐに答えを求めてしまう前に、わたしはあらためて桜を見上げた。

 桜の花は散り始めていた。花びらが木々の周りを、母体から離れた小さな生き物のように浮かんでいる。

「なんとなく、わかるよ」

 訊きたいことがたくさんあったような気もするが、すぐには訊かなくていいな。ゆっくり時間をかけて、ゆっくり変わっていけばいいんだと思う。

 次の日も、その次の日も、よく晴れた朝だった。

 わたしとハルサキはすっかり新緑に移り変わってしまうまで、桜を見に出かけたのだった。

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ハルとネコ 鹿ノ杜 @shikanomori

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