耳を叩きつける轟音を貫いて、君は来たる

明井ベランダ

第1話

 駅前のペデストリアンデッキに設置されたストリートピアノを、青年が髪を振り乱しながら弾いている。周りには誰もいなかった。いや、ひどく混み合っているけれど、誰もがピアノなんかよりも家路に向かうことを優先している。デッキ上のアーケードに、轟音と共に風と雨が吹き込んできていた。台風がやってくるのは明日だと聞いていたが、到来は思ったよりも早かったらしい。予防的に本数を減らした電車のために、次々と人々は改札を詰まらせながら通り過ぎていく。

 誰も、青年を気に留めていない。

 轟音だった。彼のピアノも。人々の耳に唸る風に減衰され、誰にも届かない。しかし、叩きつけるようで、ひどく耳障りに響く。風鳴りと混じり、轟くように、甲高く。下手ではないのだ。ただ、暴力的だった。

 青年は今にも叫び出しそうだった。そう見えた。私の立っているところからは背中しか見えない。だけど、半ば立ち上がって全身をバネのようにしてしならせ、指をめちゃくちゃに動かしているのはよく分かる。そのめちゃくちゃに動かしている指は正確に音律を奏でているのだけど。

 駅員2人が青年に近づいてきた。片方はビニールシートを持っている。

「お兄さん、今日はもう終わりです。台風ですから。お兄さんも帰った方がいい」

 青年は無視した。聞こえているかも怪しかった。駅員は青年の背を軽く叩く。

「お兄さん! もうおしまいですって。帰りましょう、分かってる?」

 青年が少し手を止めて、何かボソボソと言った様子だった。しかし、じきに再び指を鍵盤に置き、沈めた。その手を駅員は取る。

「すみません、こちらも撤収させなくちゃいけないんだ。もうやめてください」

 駅員の片方が私に目を向けた。嫌な予感がした。

「お姉さん、さっきから見てますけど、お知り合いですか」

「いえ、見てただけで」

 咄嗟の声は台風の風に絡め取られて、駅員の耳には入らなかった。形式的に駅員は会釈をした。

「ちょうどいい。頼みます、連れて帰ってください。いつもいつも……」

 駅員に手を取られた青年はよろよろと連れられるままになって、私の目の前にやってきた。お願いしますよ、と言いながら駅員たちはピアノにビニールシートを被せ、撤収させていく。立ちすくんでいる私と青年を迷惑そうに、人混みが避けていく。

 さっきまで怒りに満ちているかのように見えたのが嘘のように、青年は感情の抜けた呆けたような顔をしていた。背は高く、私と視線は合わない。緩くウェーブした髪も、シャツもスラックスも濡れてべたりと体に張り付いている。どこを見ているかわからない大きな目は、そんな形では幽鬼の目のようだ。

「ええと、電車ですか」

 視線だけがこちらを見た。

「……なにが」

「あなたのお帰りは」

 青年は頷いた。

「ここ、ただ濡れるだけですし、邪魔ですし、駅に入りましょう」

 青年は私に連れられて、あっさりと駅の構内に入った。

 私は人に揉まれながら迷っていた。このまましばらく、青年に付き合うか、否か。彼の演奏をしばらく見ていた以外に、彼とはなんの縁もなかった。だが、この幽鬼のような青年を放っておくのも良心に悖る気がする。

「あの、路線は?」

 青年が何か言った。

「なんて?」

 青年が軽く屈み、私に耳を寄せた。けれど、人混みのざわめき以外何も聞こえない。

「何か言いましたか。はっきり言ってくださらないと」

「聴いていたんですか」

 何を、と聞き返しそうになる。でも多分、ピアノのことだ。正直、この青年の手助けなど早く終えたい。

「まあ、聞いてました。それで、何線?」

「恥ずかしいな」

 ストリートピアノで弾いておいて?

「どうでした」

「どうって」

 青年が私の手を掴んだ。

「どうでした」

 うちに向かう路線は、あと何本走るだろうか。

「お兄さん、帰らないと」

「どうでした」

 聞く耳を持たない。自分の顔の筋肉が少し歪んだのを感じた。

「耳障りでした」

 青年はきょとんとした。

「ええと、どうして、ですか」

 しどろもどろといった感じで、それでも理由を聞いてくる。怒らないのか。さっきまで怒りの権化みたいだったのに。はあ、と息を吐いた。

「すみません。今のは大人げなかったですね、忘れてください。どこに帰るんですか」

「教えてください。耳障りだったんでしょう」

「ああ、分かった、分かりました。端に寄りましょう。人の邪魔になります」

 私と青年は、ホームに下る階段の脇、自販機とゴミ箱とに並んだ。青年がくしゃみをする。

「タオルいりますか」

 青年は素直に受け取った。フェイスタオル程度だったから、ずぶ濡れの青年を拭けばあっという間にぐっしょりと重たくなる。雑巾のように絞ることもできた。

「お兄さん早く帰った方がいいですよ、やっぱり。お風呂でも入って温まらないと、多分明日は風邪です」

「でも、聞きたくて」

 よく酷評の後に続く言葉を聞きたいなんて思うものだ。変だ、最初から思っていたが。

「その場の不機嫌で言い放っただけかもしれないでしょう」

「そうなんですか?」

「いや……」

 斜め前の床に目を落とす。人が足繁く通り過ぎていく。台風の影響により、計画運休を……

「本当に、耳障りだと思いました。正直にいうと」

 青年は口を挟まない。

「私はピアノなんて知りません。でも上手いのだろうと思いました。曲も知りませんけど、間違えている感じとかは少しもなくて。だけど、あれは暴力を叩きつけてるみたいなものです。乱暴で、今にも叫び声が聞こえてきそうで。うるさくて」

 青年は、何も言わない。視線を上げ、青年を横目で見る。俯いていた。気を悪くしただろうか。当然だろう。

「駅員さんいつもいつも、って言ってました。いつも弾いてるんですか、ここで」

 ゆっくり青年は顔を上げる。

「弾いてます。いつも」

「あんな感じで?」

「いや……」

 沈黙。人のざわめき。

「そうかもしれない。弾いてます」

 要領を得ない。この青年から質問に対する明確な回答を得るのは、難しいのかもしれない。青年は再び俯いた。何か聞こえた気がする。

「また何か言いましたか」

「耳障りだったら、なんであそこにいたんでしょう」

「私?」

 青年が頷く。

「珍しかったからです。うちの近所にはストリートピアノなんてないし。台風の中であんなふうに鍵盤叩きつけているのも見ないことでしょ」

「確かに」

 不意の同意を込めた相槌に、吹き出してしまった。青年は目を見開いて首を傾げた。

「ええと」

「すみません。いや……そうですね。そうなんです」

 気は済みましたか、と青年に聞く。また、沈黙。くしゃみ。鼻を啜る音。

「あの、」

 私が声を出したのかと思った。そろそろ帰ったほうがいいと、もう一度言うところだったから。

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