星来 香文子


 壁の穴に気がついたのは、先週の事だった。

 部屋の模様替えでもしようと、家具の位置をかえた時、本棚の後ろになっていた壁に、小さな穴が空いていたのだ。

 この部屋に引っ越して来た時にはなかったはずの、直径2㎝ほどのその穴は、隣の部屋まで貫通していた。


 確か先月、隣人の男性は引っ越している。

 だから、当然、穴から見えるのは、家具も家電もカーテンも何もない空室だ。

 いつからこの穴が空いていたのかはわからないが、引越しの際、確認しなかったのだろうか?

 一階に住んでいる大家さんから、壁の穴について聞かれた事も、塞ぐ工事をするだとか、そんな話も聞いてはいなかった。


 俺は何もしていないのだから、穴を開けたのはその隣人だった男の方だ。

 俺には何の責任もない事ではあるが……何の説明もなく、穴が空いているというのは、気になる。

 つい覗いてみたくなってしまうのは、人間のだろう。


 そのままにしておくのも気が引けて、カレンダーを貼って穴を隠すことにした。

 おかげで、新しい隣人が引っ越してくるまで、その穴を見ることはなかった。


 今日、アパートの前に引越しのトラックが停まっているのを見るまでは。


 休日だったので近所のスーパーに食材や日用品を買いに行って昼頃に戻って来た時、空室だった隣の部屋の引っ越し作業が始まっていた。

 階段で引越し業者の制服を着たスタッフとすれ違い、気になりつつも自分の部屋に入る。

 買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、新しい隣人はどんな人だろうかと気になった。


 そうして、あの壁の穴の事を思い出したが、今、あの穴から覗いたら、隣人かスタッフと目が合ってしまう……なんて、ことがあってもおかしくない。

 とりあえず空気の入れ替えでもするフリをして窓を開けて、階段の方を見る。

 引越し業者の運んでくる荷物にヒントがないかと思ったが、駐車場に停まっていた真新しい軽自動車を発見し、おおよその見当がついた。


 あの車種で、あの色は、若い女性だ。

 少なくとも、男ではない。

 次々と運びこまれていく家具の感じからも、そう思えた。


 それに、ここは単身者向けのアパートだ。

 二人で暮らすには狭いだろう。

 車には初心者マークが貼ってあったし、大学生か新社会人に違いないと思った。

 どちらにしろ、隣の部屋に若い女が引っ越してきたという事だ。


 俺はカレンダーをぼんやりと眺め、どんな女だろうかと思いを馳せていると、スマホにメッセージが届いた。

 職場でトラブルが起きたらしい。

 休日だというのにふざけるなと思ったが、上司の命令は絶対だ。

 仕方なく、会社へ向かった。


 そして、帰宅した時にはもうすっかり暗くなっていた。

 いつもなら、電気のついていない真っ暗な部屋が待っている。

 ところが、隣に新しい住人が来たことで、いつもと違う光景がそこにあった。


 壁の穴から、光が漏れていた。

 壁に貼り付けていたカレンダーが、床に落ちていたのだ。


 俺は好奇心に負けて、穴の中を覗いてしまった。

 悪いことをしている自覚はあったが、止められなかった。


 髪の長い女の後ろ姿。

 それも、風呂に入ろうとしているのか、服を脱いでいるところだった。

 なんて最高のタイミングだろう。

 これはきっと、休日出勤をさせられた俺を可哀想に思った神様の仕業に違いない。


 ————なんて、考えながら、女の裸を覗き見ていた。

 顔は見えないのだが、肌は白く、くびれた腰ときゅっと引き決まった美尻。

 真っ赤なレースの下着で、浴室の方へ向かって歩いて行った。


 ごくりと喉を鳴らし、家具も家電もカーテンも全て揃って様変わりしている部屋を見つめる。

 戻ってくる時には、こちらを向いてはくれないだろうかと思いながら、その時を逃すまいとじっと待っていた。

 そうして、今度は黒いレースの下着姿で戻った女の顔を、ようやく拝むことができた。


 濡れた髪にタオルを巻いて、すっぴんなのにとてつもない美人だった。

 歳はやはり二十歳そこそこくらい。

 スタイルも抜群だ。


 俺はすっかり、彼女の美しさに夢中になった。

 それから、毎晩密かに穴から彼女を覗き見るようになる。

 一方的な片思い。

 それも、これは犯罪だ。

 わかっている。

 わかっていたけれど、止められなかった。


 見ているだけだ。

 何も、彼女に危害は加えていない。

 少しでも、彼女と目があったり、バレてしまいそうなら辞めるつもりだった。

 そんなある日……


「————ねぇ、いつまで見ているの?」


 彼女はこちらに向かって、そう言った。


「私が気づいていないとでも思った?」


 彼女は、初めから気づいていたのだ。

 穴の存在を。


 彼女は穴に唇を寄せて、ふぅっと息を吹きかける。

 驚いて動けなかった俺の目に、彼女の息がかかる。


「見ているだけでいいの? それ以上は、したくない?」


 俺を誘っているのだとわかった。


「悪いけど、少し下がってくれる?  壁から離れて」

「あ、あぁ……」


 言われた通り壁から離れると、ドンッドンッと壁に硬い何かがぶつかる音がした。


「え……?」


 彼女は直径2㎝程だった穴を、さらに大きくしたのである。

 彼女の鼻から口元にかけてが、大きくなった穴から見える。


「ここから、手を出して」

「えっ……?」


 戸惑っていると、彼女の手がその穴から伸びて俺の右手を掴んだ。

 そのまま引き寄せられて、俺の右手の肘から先が彼女の部屋の方へ。

 穴はその一つしか空いていなくて、何をされるかは見えず、わからなかった。


 一瞬、誘っているふりをして俺が逃げないように引き止めているのかと思ったが、俺の右手の感触はとても柔らかなものに触れていた。

 柔らかくて、あたたかくて、ふわふわしている。

 けれど中心には硬い小さな突起があるような気がして、これは毎晩盗み見てきた彼女の肉体に触れているのだとわかった。


「好きなだけ触っていいわよ、変態さん」


 その甘い吐息混じりの声にぞくりとして、俺は懸命に手を動かした。

 ずっと触ってみたかった。

 本当はずっと、こうしてみたかった。


 彼女は俺を変態だと罵りつつ、それでも俺の手をおもちゃにして楽しんでいるようだった。


「君だって、変態じゃないか」

「そうかもね」


 そう言って、笑った。

 それから毎晩、そうやって遊んだ。

 壁の穴を通して、俺たちは変態ごっこを楽しんだ。


 でも……



「————え、隣?」

「そうなんだよ。ペット禁止なのにさぁ、猫を飼ってたんだよ。だから、出ていってもらったんだ」


 ある日の早朝、久しぶりに階段の前で会ったアパートの大家さんが、隣の部屋の彼女の話を俺にしたのだ。

 ペットを飼っていたことを理由に、先月末に出ていってもらったと。


「いや、ちょっと待ってください! そんなわけ……」


 先月末だなんて、ありえない。

 俺は昨晩も、その前の夜も、彼女と…………


「困るよねぇ、確かもうすぐ還暦だって言ってたよ。そんな歳なのに、常識ってものがなくてさぁ……」

「は? 還暦!?」

「うん、還暦だよ。あれ? 隣に住んでたのに、会った事ない? 髪なんて全部真っ白だし、見た目だけなら、もっと歳上でもおかしくなかったけど」

「髪……真っ白……? え?」


 彼女は黒髪で、若くて、美人だ。

 俺が毎晩、覗き見ていた女とはまるで違う。


「どうしたんだい? そんな真っ青な顔して……」


 俺は急いで、自分の部屋に戻った。

 壁の穴を確認する。

 誰かが部屋を訪ねて来る事もあるからと、毎晩遊び終わるとカレンダーを貼り直して隠してある、あの穴の存在を。


「え……?」


 ————どこにも、ない。

 穴なんて、どこにも……ない。



「そんな、バカな……じゃぁ、彼女は…………あれは、一体、なんだ……?」


 壁の向こうに向かって、何度も何度も問いかけたが、一人きりの部屋で誰も返事なんてしてくれない。

 穴もない。

 隣の部屋は空室で、誰も住んでいない。



「なんだろうね?」


 彼女の声がした気がして、振り返る。

 けれど、そこにはやはり誰もいなかった。


 誰だったんだよ。

 俺は、誰の何に触れたんだ……?




《了》



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星来 香文子 @eru_melon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ