Sea:27 回想編③ さよならの海で |悲しみは、やがて優しさになる──潮の満ち引きのように
ある日の放課後、ふたりで校庭の隅にしゃがみこんで、
意味もなく、石を並べていた。
風がすこし強くて、植え込みの影は落ち葉が集まっていた。
澄海ちゃんは落ちていた小さな貝殻を拾いながら、ぽつりと言った。
「ねえ、すみれちゃん。“ベニクラゲ”って知ってる?」
「なにそれ、クラゲ?」
「うん。でもね、“死なない”の。“若返る”って言われててさ。
歳をとってもまた赤ちゃんみたいな状態に戻って、やり直すんだって」
「え……そんなのアリ?」
「あるんだって。でもさ、それってちょっとずるいよね」
「うん、なんか……ずるい」
ふたりで笑う。
でも、澄海ちゃんはそのあと、空を見上げながら言った。
「でもさ、“終わりがない”って、ほんとうに幸せなのかな」
「……」
「わたしはね、ちゃんと終わりがあるほうが、きれいな気がする」
「どういうこと?」
「だって、サンゴもさ、死ぬと白くなるでしょ。
あれ、悲しいけど、きれいでもあるんだよね。
もう長くないって知ってるからこそ、ちゃんと目に焼きつくのかも」
私は並べかけた石をひとつ動かして、
言葉の代わりに、“私もそう思うかもしれない”って形にした。
その石は、ほんの少しだけ、ハートのかたちに似ていた。
「……もし、私が急にいなくなってもさ」
「なにそれ…こわいよ」
「ちがうちがう。たとえばの話」
澄海ちゃんは笑って、ひざを抱えた。
「でも、なんかね、思ったんだ。
“今がちゃんと楽しかった”って、ちゃんと誰かに伝えておきたいの」
「……ふーん。なんかまじめだね、今日の澄海ちゃん」
「えへへ。たまにはね」
風がまた吹いた。
澄海ちゃんの髪がなびいて、光にとけたみたいにゆれた。
私は、並べた石たちをそっと見つめながら、
そのまま、もうすこしだけ一緒にいたいと思った。
この時は、この時間が終わることなんて
私は考えたこともなかった。
*
冬が終わって、春が間近な時だった。
「ねぇ、今度の日曜さ、ちょっと早起きできる?」
「なんで?」
「ひみつ。すみれちゃんが起きてたら、見せたいものがあるの」
「また海でしょ」
「ふふ、当たり。でも今日とはちょっと違うんだ、また明日連絡するね!」
──それが、最後の会話になった。
*
翌朝。
澄海ちゃんからの連絡はなかった。
そのまま日曜日が過ぎて、
月曜日が来たけど、学校に澄海ちゃんの姿はなかった。
次の日も、その次の日も。
三日目の朝、先生が静かに告げる。
「……澄海さんが、海岸での事故に巻き込まれたそうです。ご家族が確認されました。とても残念な結果でした」
頭が真っ白になった。
耳に届くのに、意味がわからなかった。
放課後、ひとりで海へ向かう。
堤防の先に、小さな人だかりがあった。
警察と話している青年がひとり。
すごく整った顔立ちで、背筋がまっすぐで、
そして──やけに明るい金髪だった。
夕陽に照らされて、髪が光って見える。
その姿を、私はただぼんやりと見ていた。
そういえば、クラスで“澄海ちゃんには金髪の彼氏がいる”って
誰かが噂していたっけ。
今はもう、よく思い出せないけれど。
あの人が、もしかして……
いや、もう…どうでもいいかな──
金色の髪が、
遠ざかる波といっしょに、静かに揺れていた。
*
そのまま何日も、何も考えられないまま過ぎた。
澄海ちゃんの机は、誰も触らず、
私も、ただ毎朝、その席を見つめるだけ。
その日、担任の先生が私に声をかけてくれた。
「すみれさん、ちょっと……」
放課後、教室の片隅で、先生が大きな紙袋をそっと差し出す。
「澄海さんのご家族が、今日、荷物を受け取りに来られるの。
もし、どうしても何か伝えたいことや、持たせてあげたいものがあったら、最後にひと目だけ……と思って」
紙袋の中には、ランドセルや教科書と一緒に、澄海ちゃんがいつも机の中に入れていたノートが入っていた。
私は、胸がきゅっとなる。
どうして、私──?
思わず声に出してしまった。
「……どうして、私なんですか?」
先生は少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「それはね、月島さん──
澄海さんとあなたは、お互いに特別な友だちだからよ」
静かな教室に、先生の声が沁みこんでいく。
「澄海さんはね、転校してきた日のあと、すぐに先生のところに来て、
“月島さんって、どんな子なんですか?”って何度も何度も聞いてきたの」
私は、思わず顔を上げた。
「先生も驚いたわ。教師がこんなこと言ってはいけないのかもしれないけれど、ほら……あの子は、すこし変わってるじゃない。海のことしか頭にないのかなってくらいで、人当たりは良いのだけれど、あんまり友達と遊んでいる事もなくて。
浮いている感じがしていて……
でも本人は全然気にしていないようで、どこか“自分だけの世界”にいるみたいだったの」
先生は、そっと笑って続ける。
「先生も、正直、澄海さんのことを少し心配してた。
お友だちの話なんて、ぜんぜん聞いたことがなかったから。
何を考えてるのか、分からないなぁって思う日もあったんだよ」
先生は少しだけ、懐かしむように目を細めて言葉を続けた。
「でもね、月島さんが転校してきてから、澄海さん……本当に、楽しそうだったのよ」
「あなたのことを“月島さんって、どんな子なんですか?”って何度も聞いてきたし、
“どうやったら仲良くなれるかな”って、あんなふうに誰かのことを気にしていたのは初めてだった。
先生も、その変化に、ちょっとびっくりしたくらいなの」
「それに、月島さんのご家庭のこともね──
お母さんが入院していること、“どうしたら月島さんが元気を出してくれるかな”って、
何度も先生のところへ相談に来てくれていたの」
「“どんな話をしたら、少しでも笑ってくれるかな”って。
本当に一生懸命だった。先生も、どう声をかけていいかわからないとき、
逆に澄海さんから相談されて、はっとすることがあったくらい」
先生の声が、ぽつりと落ち着いて、でもどこかあたたかい。
「月島さん──
澄海さんは、あなたのことが大好きだったんだよ。
きっと、“はじめてのお友だち”だったんだと思う」
「そしてね、ふたりで過ごすうちに、月島さんもだんだん明るくなって……
教室で笑っている顔を見たとき、先生は本当にうれしかった。
他の子たちも、ふたりが一緒にいるのを“当たり前”に思うようになっていた。
でも先生には分かったの、
あなたたちふたりの時間が、どれほどお互いを支え合っていたのか」
先生は、紙袋から“観察ノート”をそっと取り出して、私の前に差し出した。
「……よかったら、最後に澄海さんの“好きだったもの”を見てあげて。
きっと月島さんに見てほしいって思っているはずだから」
私は、胸の奥があたたかくなるのを感じながら、
震える手でノートを受け取った。
その瞬間、
心のどこかで長いあいだ凍っていた場所に、小さな灯りがともったような気がした。
(私だけじゃなかったんだ──)
澄海ちゃんにとっても、
この日々は本当に大切なものだったんだ。
そう思えただけで、不思議と少し、息がしやすくなった。
誰にも見られていないと思っていた自分の寂しさも、
どうやっても届かないと思っていた気持ちも、
ちゃんと誰かが、
そっと見守ってくれていた。
ほんのわずかだけ、
涙がこぼれそうになった。
澄海ちゃんが大事にしていた観察ノートを、そっと開いた。
ページは、貝や雲や音の記録でいっぱい。
最後のページにだけ、ぽつりと走り書き。
「明日、朝の音を録る。波の音と、風の音と、もしかしたら……あれが、聞こえるかも」
小さな文字で、こう続いていた。
「センセーに借りた録音機。たぶんこれならいける。……あ、“センセー”なんて呼んだらまた怒られちゃうかな?(笑)」
(海辺で見かけた、あの人……センセーだったのかな)
澄海ちゃんが“見せたかったもの”。
最後の記録が、ノートの隅っこに残されていた。
*
夕暮れの浜辺。
ふたりで並べた石のあの場所に、私はひとり立ち尽くしていた。
足元の砂に、何気なく目を落とす。
小さな巻き貝。
しかも、左巻き。
しゃがんで、それを拾い上げる。
ひんやりとした感触。
(あの子が話してくれた、巻き貝。“右巻きが多いけど、左巻きの子もいる。変わってても、生きてるんだよ”──)
指先で貝をなぞると、あの日の声が蘇る。
「ぶっぶー! はい、ざんねーん!」
それだけじゃない。
「たったの3%だって。人間が分かってるのは、海の中の、ほんの3%だけ」
「“近くにある未知”って、すごくない?」
──あの時、私は初めて“知らないもの”にわくわくした。
澄海ちゃんがいたから。
「じゃあ……人魚がいても、おかしくない?」
「ぜんぜん、おかしくない! クラゲのドレス着た王女さまが、海底で舞踏会してるかもだし」
「ネッシーが、月の光で歌い出すとか」
「深海の岩の下に、クラゲ型宇宙人の研究所があるかもよ?」
「ホタテの貝開けたら、“ようこそ”って手紙が入ってるとか……」
思い出すたび、涙が止まらなくなる。
「……澄海ちゃん……なんでいなくなっちゃったの……」
声が崩れた。
「もっと……もっと、海の話したかったのに……!」
「ねえ、97%の謎、私……いっしょに調べたかったんだよ……!」
「左巻きの貝、ほら……私、見つけちゃったよ……!」
ひざが、勝手に崩れる。
涙が、止まらない。
「私、ちゃんと……“となり”にいたのに……!」
「さよならって、言ってないのに……!」
「言わせてくれなかったのに……っ……!」
浜辺に、私の泣き声が混じって、波にさらわれていく。
潮の音は、優しかった。
でも、それでも、澄海ちゃんは帰ってこない。
──澄海ちゃん。
今でも、となりにいてほしいよ。
風が貝殻を転がして、
それが夕陽の名残の光を、そっと反射していた。
*
──そして、物語は終わった。
夕暮れの浜辺。
静かな波音。
さっきまで話していたはずなのに、今はみんな、ただ黙って座っていた。
すみれ先生は、ほんの少しだけ遠くを見つめるように目を閉じていた。
その横顔には、さっき語っていた少女の面影が重なって見える。
誰からともなく──
鼻をすする音がした。
ケンタが、目をゴシゴシこすっていた。
「な、なんか……めちゃくちゃ、ズルいよ先生……」
いつも明るいケンタの声が、どこか小さく震えていた。
ミオは手のひらを握りしめて、涙を我慢している。
目の奥が赤くなって、唇をかんでいた。
「月島先生……私もすごく悲しい……」
かすれた声でそう呟く。
ハルキは、黙ったまま先生を見ている。
普段は表情を崩さないハルキも、今だけは目が潤んでいた。
「……“近くにある未知”か……」
ポツリとハルキがつぶやく。
「うん……」とミオがうなずく。
先生はゆっくりと息を吐いて、みんなの方を見た。
「ごめんね、重い話になっちゃったわね」
けれど、その声はいつもの、
やさしくて──でもどこか、強くてあたたかい先生の声だった。
「先生……」
ミオが、思わず声をかける。
すみれ先生は、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう、最後まで聞いてくれて」
しばらく沈黙が続いた。
波音だけが、全員の心をそっと撫でる。
そのとき、ケンタがぽつりと言った。
「……先生。もし、澄海ちゃんが今もここにいたらさ、
どんなこと、したかった?」
すみれ先生は、ふっと空を仰いだ。
「そうね……本当は、まだまだ一緒に“未知”を探したかったかな。
海の秘密も、自分のことも──もっと、たくさん知りたかった」
「だからね……」
先生は、海のほうへ視線を向ける。
「別れのきっかけになったのも海だけど、
わたしは、澄海ちゃんに会えたから──
“わからないもの”を怖がるんじゃなくて、
“わからないまま”を楽しめるようになりたいって
海の研究者を目指すことにしたんだ。」
「そして、いつしかわたしと同じように
“わからないまま”を楽しめるような
そんな気持ちを伝えたくなって教師になることにしたの」
先生の言葉が、夕焼け色の空に溶けていく。
「そんな話、泣くに決まってるじゃん……」
先生がもう一度、笑う。
すみれ先生は、そんな子どもたちの姿を、静かに見つめていた。
──そして
3人に気づかれないように
背後の岩場に視線を向ける。
誰も気づいていなかったけれど──
その岩陰には、いつのまにか
教授が戻ってきていた。
彼はそっと視線を浜辺に送っていた。
頬には、いつもよりわずかに赤みが差していた。
それが、風のせいなのか──それとも、
言葉にならない何かを、胸の奥にしまい込んでいたせいなのかは、
誰にもわからなかった。
やがて、彼は何も言わず、ゆっくりと背を向けて歩き出した。
波の音が、その足音をそっと包んで──
やがて、何事もなかったかのように、また静かな浜辺が戻ってきた。
次の更新予定
毎日 21:00 予定は変更される可能性があります
3%の海 蒼波 澪 @aonami_rei
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