Sea:26 回想編② 桜の風が吹く前に |春の気配も、深い海のように、まだ誰にも触れられない
澄海ちゃんと過ごす時間が増えた。
それだけで、世界が少しずつ違って見えるようになった。
たとえば、帰り道にふと海を眺めたり、図書室で「深海」とか「巻き貝」の本を探したり。
家でも、テレビに魚が映ると、名前を確かめたくなる自分がいる。
以前は、誰にも気を使わせないよう、そっと息をひそめて生きていたのに。
いまは「澄海ちゃんと話したい」ってだけで、朝がほんの少し楽しみになる。
観察ノートの中身も、知らないうちに変わっていた。
前は「誰が何回笑った」とか、「グループの力関係」とか、感情を入れない観察だけ。
でも今は──
「今日の澄海ちゃん」「拾ったもの」「見ていた雲」「言っていたこと」
そういう“ただの記録”が、どんどん増えていた。
(これ、もう観察じゃない……)
そう思って、少しだけ恥ずかしくなる。でも、それも悪くない。
だけど、時々ふと不安になる。
(澄海ちゃん、どうして私なんかと仲良くしてくれるんだろう)
澄海ちゃんといると楽しい。
でも、関われば関わるほど、「こんな私じゃだめなんじゃないか」って気持ちがひょいと顔を出す。
目を合わせるタイミングも、話し始める間も、笑い方だって、きっとズレてる。
鏡を見れば、目はきついし、髪はまとまらないし、服もヨレてる。
(こんな私、澄海ちゃんみたいな子の隣にいていいのかな……)
自分を責めるたび、ノートを閉じてしまう。
──でも。
そんな気持ちに呑まれそうになると、思い出す。
あの日、図書室で澄海ちゃんが見せてくれた本。
「すみれちゃん、知ってる? 深海には“水なのに水じゃない水”があるんだよ」
「……え?」
「ほんとだよ。“塩分濃度”が違いすぎて、境界線みたいになってて──
上から別の水が“どぼん”と沈んでる。見た目は同じなのに、混じらないんだって」
「水の中に……水?」
「そう、もう一つの世界。しかも、そこには変なクラゲとかナマコとかが住んでるんだよ!」
──自分の中にも、“分厚い層”がある気がした。
人には見せない、混じらない場所。でも、澄海ちゃんは「それ面白いね!」って笑ってくれる。
(だったら……もう少し、このままでいよう)
私はペンを取って書く。
“今日の澄海ちゃん:水の中に水がある。すみれちゃんの中にも、たぶんある。”
書き終えたとき、なぜか笑顔になれた。
*
翌日のことだった。
「ねえ、すみれちゃんって、すごく可愛いよね」
突然、澄海ちゃんがそういった。
……え?
脳が数秒ほど固まる。
①聞き間違い?
②後ろに別の“すみれちゃん”?
③宇宙電波の干渉?
④澄海ちゃん、なんかにやられた?
「見た目だけじゃないよ。雰囲気とか。いつも見てて思うの」
「いやいやいや、なに言ってるの……」
口から思わず出た。
「澄海ちゃん、変な貝とか触った?」
「え?」
「イソギンチャクとか、光るクラゲとか、猛毒系」
「なにそれ、どういう心配!?」
「だって可愛い海の生き物って、たまに毒あるじゃん。澄海ちゃん、センサーやられてるのかと思って」
「やだ〜、すみれちゃん、そういうとこも好き!」
「照れてないよ。これは科学的懸念だもん。」
「はいはい、“科学的懸念”ね。手はちゃんと洗ってるから大丈夫!」
「そういう問題じゃないんだけど……」
……………本当に、やめてほしい。
なにせ、目の前にいるこの子こそ。
私の親友。もとい、変な生き物代表でありながら──
この学校で、随一の美少女なのだから。
私が“可愛い”なんて言われるのは、人生の設計ミスに等しい。
澄海ちゃんは言動のクセが強すぎるせいで、
もはや“面白い子”とか“変わった子”の枠に押し込まれていたけど、
顔面だけで言ったら、完全に別次元の生命体だった。
それこそ伝説にも事欠かないのに
思い出すだけでも─
・廊下で笑っただけで三人が振り返り、二人がぶつかり、一人が保健室送り
・音楽室で歌った声が、校舎裏の猫を三匹集めた
・学年にひとりだけいる“学ランのボタンを渡されたことがある小学生”としてPTAに噂される
しかも、「金髪の年上彼氏がいる」という謎の都市伝説まであった。
しかもその彼氏、**“長身・声が優しい・紅茶が似合う”**という、
あまりに乙女ゲームじみたスペック付き。
「いや、それはさすがに脳内彼氏すぎる」と、
クラスの会話を聞きながしていたけど……
最近はなんだか、ちょっと信じそうな自分がいるのも怖い。
*
そんなある日、クラスで奇妙なウワサが広がった。
「“可愛いは正義”で地味子を美少女にする人がいるらしい」
「○組のあの子、いきなり垢抜けてた」
「“美のカリスマ”って呼ばれてるって!」
でも私は、自分には関係ない話だと思っていた。
地味子どころか“地味の本尊”な自分が、何か変わるなんて想像もしなかった。
──数日後。
昼休みが終わって、教室がざわざわしている。
私は、次の時間のノートを机に出しながら、ぼんやり窓の外を見ていた。
そのとき、突然──
「すみれちゃん、今日の放課後あけといてね!」
「……え?」
ノートのページをめくる手が、不意に止まる。
「絶対ね! ほんとに、今日! 忘れちゃダメだよ!」
私が何か言い返すより早く、澄海ちゃんは机のそばにちょこんと腰かけて、
にこにこしながらこっちを見ている。
「な、なに? どうしたの?」
「用事とかないよね? もしあったらダメだよ? ぜったい今日がいいから!」
「……別にないけど……どこか行くの?」
「ヒミツだよ〜」
また、あの指で“しー”ってするお決まりのポーズ。
「な、なんかヒントは?」
「うーん、今日がいちばんいい日! だから今日! 放課後に昇降口で待ってるから!」
もう、まったく人の話を聞いてない。
「そんなこと言われても……え、なんかの罰ゲーム? 私、なんかやった……?」
「やってないよ! うふふ、楽しみにしててね!」
私がぽかんとしているうちに、チャイムが鳴って、
澄海ちゃんはすぐ前を向いてしまった。
(……なんなの、ほんと)
なんだか振り回されてばかりだけど、
でも、どうしようもなくワクワクしている自分もいた。
授業のノートの端に、小さく「?」を書きながら、
私はその時間が来るのを、密かに待つことにした。
放課後、手を引かれて連れていかれたのは、住宅街の奥の古い一軒家。
「ここ……ふつうの家だよね?」
「しーっ、見た目は家だけど“秘密の場所”なの」
「その説明がいちばん怖いんだけど……」
インターホンを押す間もなく、玄関がガチャリと開く。
──ウサギだった。
いや、着ぐるみ。大きな頭、笑ってない目、無言でキビキビ動く。
「……しゃべらないんだ」
うなずくウサギ。無言のまま、私の手をとり、すたすたと廊下を進んでいく。
(えっ……、これホラーゲームじゃないよね……?)
私は目で「大丈夫?」と澄海ちゃんに助けを求めたが、
彼女はケロッとした顔で、ウインクを返してきた。
──これだから澄海ちゃんといると、油断できない。
着ぐるみに連れられ、通されたのは──
まるで別世界みたいに白くて、明るくて、ちょっとだけ良い香りのする部屋だった。
*
鏡の前にいたのは、まるでモデル雑誌から抜け出したような大人の女性だった。
長い髪。シャープな目元。真っ黒なエプロン。
その姿を見た瞬間、「ひっ」と小さく息を呑んでしまう。
どこか近寄りがたいオーラ。まるで別世界の住人みたいだ。
(一体、誰……? なんでここにこんな人が……?)
彼女は、私と目が合うと、すこし眉を上げて言った。
「えー……また、やぼったい子連れてきたわね」
すかさず、ウサギの着ぐるみが後ろからポカポカと抗議。
ぬいぐるみの手で先輩の背中を、無言でぺしぺし叩き続ける。
「はいはい、分かってるわよ。アンタが選んだなら原石なんでしょう?
……それにしても、最近アンタのほうがノリノリな気がして、なんか癪なのよね」
そのやりとりが妙に漫才みたいで、緊張がちょっとだけほぐれた。
彼女は少しあきれたように、私を見つめ直す。
「それで、きみ。何も聞かされてない顔してるけど……
私、美容師の見習いやっててね。モデル役で髪をカットさせてもらうことがあるんだけど、
嫌なら今、断ってくれて大丈夫よ?無理やりはしないから」
私は澄海ちゃんのほうを見た。
澄海ちゃんはウインクで「大丈夫だよ!」のサイン。
隣のウサギも、なんとなく同じ顔をしてる気がする。
こんな状況、普通なら逃げ出したくなるのに。
でも、澄海ちゃんといると、なぜか不安より「やってみようかな」って気持ちが勝った。
私は小さく「お願いします」とうなずいた。
椅子に座って、鏡の中の自分と向き合う。
ハサミの音、櫛が髪をとかすリズム、
お姉さんの指先が耳の後ろをそっとすり抜けていく感触。
緊張と、期待と、ちょっとした怖さが混ざり合って、
じっとしているだけなのに、心臓がどきどきした。
ふと、お姉さんが声をかけてくれる。
「髪、ちょっとだけ軽くするからね。……あ、痛かったらすぐ言ってよ?」
「……はい」
鏡の中で、少しずつ変わっていく自分。
髪が落ちるたび、なんだか“余計なもの”が
少しずつ消えていくような、不思議な気持ちになった。
「へえ……これは驚いた」
カットが終わったお姉さんが、鏡ごしにじっと私を見つめる。
ハサミを置くその手つきまで、どこか誇らしげだった。
「もとの素材、すごくいいじゃない。半年前に来た子より上かもね……ウサギ、どう思う?」
うさぎの着ぐるみが、ドヤ顔でグッと親指を立てる。
鏡の中の私は──見慣れたはずの自分じゃなかった。
長かった前髪は、目の上でふんわり切りそろえられて、
ずっと隠していた眉も、優しいアーチに整えられていた。
頬にかかっていた髪は軽やかに梳かれ、
顔全体が明るく見える。
髪色はそのままなのに、光を受けて、
ほんのり柔らかく輝いていた。
「なんだか、目が大きく見えるよ」と澄海ちゃんが後ろで声をあげる。
「でしょ? 前髪が重いと、どうしても表情が暗く見えちゃうの。
本当は、すごくかわいい目元なのにね」とお姉さん。
私は少し恥ずかしくて、思わず目をそらす。
「せっかくだから、服もいろいろ合わせてみなよ」とお姉さん。
ウサギが、服の入った袋をゴソゴソ引っぱり出してきて、
「これも、これも!」とやたらサイズがぴったりな服ばかり。
フリルのついた白いブラウス、淡いピンクのカーディガン、
明るい色のスカートに、リボンのついたヘアゴム。
ひとつひとつ試着するたびに、
鏡の中の自分がどんどん“知らない誰か”になっていく。
「……これ、本当に私……?」
そっと指先で、鏡の自分に触れてみる。
目元がぱっと明るくなって、表情も少しだけ優しくなった気がした。
「隠れてただけで、最初から“ある”ものなのよ」
お姉さんが、そうぽつりと言う。
本当は、ずっとここにあった“私の顔”。
それに初めて出会えたような、不思議な気持ちだった。
なんだか、ちょっとだけ泣きそうになる。
帰り際、ウサギが新しい服が詰まった袋を手渡してくれた。
タグには、色あせた名前のシール。
袋を開けると、ほんのり甘い香りが漂う。
(たぶん、誰かのお下がり。でも、不思議と嫌じゃなかった)
服の裾を指でつまみながら、
“新しい私”を胸の奥に、そっとしまい込む。
*
家に帰って玄関を開けると、声が小さくなった。
“変わった自分”が“変わってほしくない家”に帰るのが、少し怖かった。
台所の伯母が「髪、切ったの?」とだけ振り返らずに言う。
「……うん」
「ふーん。まぁ、さっぱりしていいんじゃない」
それきり。褒められも怒られもせず、家の空気に静かに溶けていった。
(やっぱり、この家には似合わない)
部屋で袋を開けると、ピンクのスカート、水色リボンのブラウス、ラベンダー色のカーディガン。
(たぶん、あのウサギのものなのかな……)
胸の奥がほんの少しだけあたたかくなる。
クローゼットの奥から小さな布袋を取り出して、
服の端をちいさく切り、そっとしまった。
“誰にも気づかれなくていい。でも、私が気づいてる”
それが、とても大事なことに思えた。
鏡をのぞく。
少し軽くなった髪。明るくなった目元。
(……澄海ちゃん、すごいな)
自分に小さく微笑んだ。
*
その日から、また世界が変わった。
風の吹き方、光の色、海の音まで、どこか新しくなったみたいで。
朝が、ほんの少しだけ明るい。
私も、教室のドアにそっと手をかけるのが、もう怖くなくなった。
教室に入ると、空気がふっと変わる。
「あれ……誰?」
「え、新しい子?」
「髪……めっちゃキレイじゃない?」
ざわっと波が立つ。
(私です……!)
本当は、そう言いたい。でも恥ずかしくて、目を伏せたまま自分の席へ。
となりの男子がぼそっと話しかける。
「……髪、切った?」
「……うん」
「……なんか……似合ってる……と思う。いや、よく分かんないけど」
「なにそれ」
目を合わせないまま、机に肘をついて教科書を閉じる彼。
(みんな、なんかおかしい)
そんなことを思っていると、
「すみれちゃーん! おはよー!」
澄海ちゃんが、まるで朝の光みたいに現れる。
「わー、やっぱり超似合ってる! 今日の風ともぴったりだし、目元が今朝の空みたい!」
「ちょ、やめて……その褒め方も変だよ……。天気とコーディネートする人間、他にいないよ…」
「でしょ〜? わたしずっと、“この学校でいちばん可愛いのはすみれちゃん”だと思ってたんだよね〜!」
「もう、話聞いてない……」
クラス中がざわつく。でも、不思議と、もう怖くなかった。
(この子、本当にブレないな……でもちょっとだけ、うれしい)
昼休み。
廊下で女子グループに声をかけられる。
「ねえ、すみれちゃん。もしかして“美のカリスマ”に何かしてもらった?」
「……え?」
「ほら、いるじゃん。可愛いは正義って言いながら地味子を変身させる謎の人」
「都市伝説じゃ……」
「○組の子も、服の趣味変わったし、なんかウサギとか言ってたよ」
──ウサギ。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳内に、
でかい頭と笑ってない目の“あれ”がぼふっと浮かんだ。
そして、あのときの無言の手さばき。
抗議のぺしぺし。優しくないけど、優しかった不思議な圧力。
(いや……まさか、ね)
あれが“美のカリスマ”の正体だとしたら、
この世界はわりと、本気でヤバい気もした。
私は苦笑いを浮かべて言った。
「うーん……ちょっと雰囲気かえてみたくて……」
「なんだそっかー!」
「でも本当に垢抜けたよね〜」
以前よりも、“なじめない”感じがなくなっている自分に気づく。
そうして、教室で「美のカリスマ」伝説に火がついたあの日から、
ふたりの時間も、季節の中で静かにかたちを変えていった。
最初は、突然注目を浴びて戸惑っていたけれど、
澄海ちゃんと一緒にいると、みんなのざわめきもすぐに日常の音になった。
やがて、春の潮風が過ぎて、夏がきた。
放課後の砂浜を裸足で駆け回り、
潮溜まりのヤドカリやカニの巣穴を夢中で探した。
「この子は“ピコ太郎”!」「あっちは“バタ子さん”!」
変な名前をつけて、砂の上で小さなレースをした日もある。
夕暮れには、波打ち際に星の形を描いた。
波がそれを崩しても、
「明日もまた作ろうね」と澄海ちゃんが笑った。
秋には、運動会の練習帰りに「どんぐり選手権」をしたり、
落ち葉の中に隠れたカマキリをふたりで見つけて大騒ぎした。
図書室では、深海生物の本を並べて、
「秋の海には“エチゼンクラゲ”がやってくるんだって」と
澄海ちゃんが教えてくれた。
秋の空は高く、金木犀の香りと、
なんとなく切ない空気がふたりを包んでいた。
そして、冬がきた白い息を吐きながら、ふたりで港の灯台まで歩いた。
浜辺で霜柱を踏みしめる音に笑い合い、
クリスマス前には、小さな貝殻を拾い集めて「冬の贈り物ごっこ」もした。
ふたりで迎えた初めてのクリスマス。
「教室でケーキパーティーしよう!」と小さなお菓子を持ち寄った。
澄海ちゃんは、キラキラの銀紙に包まれたチョコをくれて、
「これ、海の宝石みたいでしょ?」と、うれしそうに笑っていた。
年が明けて、
「すみれちゃん、初詣って行ったことある?」と誘われた。
神社の石段をふたりでのぼり、
おみくじを引いて、
「大吉だ!」と手を取り合って喜んだ。
寒い帰り道、
「来年も、また一緒に来ようね」と約束をした。
すみれは、その瞬間ふと、
「友だちとこんなふうに季節を過ごすの、はじめてだ」と思った。
心がぽっと温かくなって、
世界の色が少しだけ明るく見えた。
寒い朝は、教室の窓ガラスに指で魚の絵を描き合った。
──そして、春。
海の風はやわらかくなり、教室にも桜の花びらが舞い込む。
ふたりで新しいノートを用意して、
「今年は“海辺の野草図鑑”をつくろう!」と澄海ちゃんが目を輝かせていた。
私は、あたりまえのように、
こんな毎日がこれからもずっと続くものだと思っていた。
けれど──
「また春がきたら」
そう信じていた“春の時間”を、
ふたりでちゃんと過ごすことは、できなかった。
期待していた春は、静かに、私たちを置いて過ぎていった。
季節がめぐるように、思い出もきらきらと心の中を流れていく。
でも、その流れの先で──
私たちの“あたりまえ”は、ふいに終わってしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます