Sea:25 回想編① 観察ノートのすきまから。|“自分なんて”と思ってたけど、本当はまだ97%も知らない自分と、世界。


──そのとき、風がふわりと吹いた。


波の音が静かに寄せては返し、砂浜の上の影をゆらす。


月島先生は、夕陽に染まる海の向こうを見つめながら、ぽつりと語り始めた。


「……もう、あれから十六年になるのね」


彼女の声は、波の音にまぎれるように小さくて、でも、しっかりと届いた。


「当時、私は小学四年生の時ですね。転校してきたばかりで、ぜんぜん馴染めなくて……。そんな私に、最初に声をかけてくれたのが――“澄海ちゃん(すみ)”でした」


ミオたちは言葉を挟まず、ただ静かに聞いていた。


「澄海ちゃんは、本当に変わった子でね。毎日、海に話しかけてて……砂浜に耳をつけて、音を聞いてたり」


「音……?」ケンタが思わずつぶやく。


月島先生は、ふっと笑ってうなずいた。


「“すみれちゃん、聞こえる? 海の声だよ!”って、よく言われてました。“え、波の音でしょ?”って私が答えても、澄海ちゃんは、本当に“うん、違うよ!”って言い切るんです。……今でも不思議なんですけど」



「そんな澄海ちゃんと、私の昔の話です。」



**




──自分で言うのもなんですが、私は、人と話すのが得意じゃなかったんです。


 


得意じゃないっていうか、できるだけ避けて生きてきた、というほうが正確かもしれません。


話さなくても世界は回るし、私が何を思ったって、何を言ったって、天気が晴れになることも、誰かが特別やさしくしてくれることもありませんでした。


 


感情を出せば、「空気を乱す」と言われ。


自分を主張すれば、「わがまま」と叱られた。


「静かにしなさい」「ちゃんとしてなさい」……

大人はだいたい、この二つの言葉だけで世界を動かしている気がします。


 


……お母さんは、もう話しかけてくれない。

正確には、“話しかけられない”まま、病院のベッドで眠っている。


 


事故の日。


父も、姉もいなくなった。


奇跡みたいに生き残ったお母さんも、ずっと目を開けないまま。


 


それ以来、私は親戚の家で暮らしていた。


血はつながっていても、ぬくもりはぜんぜんつながっていなかった。


 


与えられるのは衣食住だけ。


やさしい言葉も、頭をなでられる感覚も、記憶の中だけにあった。


 


“ちゃんとした子”でいれば、邪魔にはされない。


そう信じて、私は自分の感情を奥の奥にしまい込むようになった。


 


泣かない。怒らない。笑わない。


ただ、空気の一部になって生きていく。それが、私の生きる方法だった。


 



 


「月島すみれさんです。今日から、こちらのクラスに入ります」


先生の声が、どこかよそよそしくて。


ぱら、ぱら……と控えめな拍手。


目が合わないのは、この場の“仕様”みたいなもの。


 


「よろしくお願いします」


それだけ言って、すぐに席に座った。


 


すぐ近くの女の子が、気のない感じで囁いた。


 


「……ねえ、なんか地味じゃない? 目つきも暗いし……」


 


耳だけはやたら高性能。


でも、私は聞こえないふりのプロになっていた。


 


髪はぼさぼさ。前髪は目にかかって。


服は母が選んでくれた最後のもの。


眉も整えないし、リップも塗らない。


 


鏡は、私のことなんて、もう見てくれない。


 


「どうせ誰にも見られないし、誰かの視界に入ったって評価されるだけ」


だったら、最初から風景の一部でいる方がいい。


目立たず、波立たず。


波の一粒でいるように。


 



 


私の筆箱には、一冊のノートが入っていた。


表紙には、「観察」とだけ書いてある。


 


これは、日記じゃない。


 


「今日楽しかった」とか、「好きな人」とか、そういうのは一切書かない。


書くのは、“構造”と、“関係”と、“ルール”。


 


たとえば──


・班の中で一番早く箸を取るのは誰か

・笑ったタイミングがズレる子は誰か

・先生が話すとき、顔を伏せる子はどの席か


 


そんなふうに、人間の動きの「法則」を、無言で記録していく。


それが、私の“呼吸”みたいなものだった。


 


感情を出すより、構造を知る方が、よっぽど安心できた。


 



 


給食の時間、私はクラスの輪から離れて、自分の席に残った。


「今日は初日だから、無理に班に入らなくていいよ」と先生が言う。


私はその“配慮”に甘えて、静かにパンをかじる。


 


「てか、あの子、ずっと一人じゃない?」


「なんか……声、聞いた?」


 


また、耳に入ってしまう。


でも、私は動じない。


 


彼女たちの言葉にも、ちゃんと“ルール”がある。


“浮いてる子”を指差すことで、自分の居場所を確認しているだけ。


私はノートにこう書く。


 


・女子グループ:発言リーダー(カチューシャ装着)


・同調回数:3


・ターゲット確認行動:昼食時に増加傾向あり


 


書いていれば、私は“外”にいられる気がした。


書いている間は、“当事者”じゃないと思えた。


 


でも──


 


その安心が、ふわっと風みたいに吹き飛ばされる。


 


「……ねえ、すみれちゃんって、海とか行ったことある?」


隣の席から、春一番みたいな声。


 


「え?」


顔を上げると、三つ編みで、砂色の肌をした女の子が、にこっと笑っていた。


その笑顔は、どこか“太陽のかけら”みたいな明るさで。


 


「私、海が好きなんだ。すみれちゃんも、好き?」


唐突さが、ちょっとおかしくて、返事に困る。


 


「じゃあ、明日。放課後、一緒に行こっか!」


……話を聞いていたのか、聞いてなかったのか。


その子は、“決まりね!”とばかりに手を握りしめた。


 


「決まりだよ、すみれちゃん!」


そのとき、「すみれちゃん」と呼ばれたことに、私は妙にドキッとしてしまった。


 


名前で“呼ばれる”だけで、心が一度、跳ねた気がする。


 



 


澄海ちゃん――それは、ひとことで言えば、“キラキラ天真爛漫、ちょっとだけ宇宙人”な女の子だった。


 


教室の空気が、うっすら“観察対象”にしている感じがあったけど、


本人はそんなこと、まったく気にしていない。


 


むしろ、気にしていないどころか、


たまに机に突っ伏して「今日は波がご機嫌だから、勉強もはかどる気がする!」とか、意味不明なことを平気で言っていた。


 


「せんせー、今日の空、午後から風向き変わりますよ!」


「廊下にカタツムリいたんですけど、モップに踏まれたら可哀想だなあ……って思ってたら、授業遅刻しちゃいました!」


「この前のイカ、解剖したら“恋してるときの匂い”がするんですって! イカにも、恋とかあるんでしょうか?」


 


彼女の言葉は、だいたい誰にも返されない。


でも、それが気にならない。


むしろ、言葉の“キラキラ粒子”だけが空中にふわふわと残って、誰かの耳の奥で跳ねている。


 


澄海ちゃんの席は、私の斜め前。


毎日その天真爛漫な言動を“観察”していた。


 


ノートに書くには、あまりに“ノイズ”すぎて。


でも、そのノイズが、不思議と心に残った。


 



 


彼女はいつも、自由だった。


 


朝、髪が濡れている日があると思えば、


「道に落ちてたシャコの抜け殻が素敵で、しゃがんで見てたら、波にざっぶーん! もう、びっくりしたよ!」


と、満面の笑み。


 


雨の日でも、なぜかサンダルで登校。


筆箱の中には、標本のピンと、どこかで拾った貝殻のかけら。


 


「それ、なんで?」と聞かれても、


「うん、綺麗だったから。あとね、この子だけ“巻き方”が左なの。ちょっとレアで、超かわいくない?」


……本気でかわいいと思っているらしい。


誰かが何と言おうと、彼女の中では“発見”と“ときめき”がセットになっているらしい。


 



 


図工の時間になると、澄海ちゃんの“自由”は最高潮。


 


「お題は“春”です」と先生が言った日、


みんなが桜や蝶々やお花を描く中、


澄海ちゃんだけ、海底火山の大爆発と、そこに群れる深海生物を描いていた。


 


「これ、“バチスフィア”っていうの。世界で最初に深海に潜ったカプセル。丸くて、なんかおにぎりっぽい形してるけど、深海400メートルまで行ったんだよ。すごくない? おにぎりだよ?」


 


クラスの数人が「へー……」と生返事をするだけで、


すぐにみんな話題を変えた。


 


でも私は、“おにぎりの潜水艦”が頭から離れなかった。


 



 


澄海ちゃんは、誰にも似ていない。


輪に入らないけど、孤立もしていない。


 


誰かに合わせようともしないし、話を合わせてもらおうともしない。


なのに、彼女がしゃべると、教室の空気が少しだけ“新しい風”になる。


 


……それは、何かを「変える力」じゃなく、何かを「揺らす力」だった。


 


観察者の私から見ても、本当に不思議な在り方だった。


 



 


──そして、なにより。


澄海ちゃんは、私に話しかけてくれた。


 


それが、いちばん不思議だった。


 


私は誰にも期待しないように、誰のことも好きにならないように、


ただただ空気に溶けて生きてきたのに。


 


澄海ちゃんだけは、“すみれちゃん”と当たり前みたいに呼んでくれた。


 


その“当たり前”が、くすぐったくて、


気持ち悪くて、そして、たまらなくうれしかった。


 



 


放課後のチャイムが鳴って、私はランドセルを背負って歩き出す。


今日も澄海ちゃんは“勝手に約束”していた。


 


「明日、放課後、海行こ?」


 


私は、「うん」とも「行かない」とも言わなかった。


でも、なんとなく足はそっちに向かっていた。


 


道端のナズナをよけ、コンクリートの継ぎ目を踏まないようにして歩く。


 


そして、海が見えた。


 



 


波打ち際のすぐそばに、誰かがしゃがんでいた。


 


近づいてみると、やっぱり澄海ちゃんだった。


 


制服のまま、靴を脱いで、砂に足を埋めている。


 


手には、小さな巻き貝。


 


「おーい、すみれちゃーん!」


 


その声は、夕暮れの砂浜に、魔法みたいに響く。


 


「こっち来て! 貝、見つけたの!」


 


まるで、ずっと前から友だちだったみたいに、


キラキラした笑顔で手を振ってくれる。


 


後ろの方で、ケンタが「おおっ、なんかカニじゃなくて貝もいるんだな!」と妙に感心していた。


 



 


ふたりで並んで、貝を並べて座った。


 


正確には、貝を並べていたのは澄海ちゃんで、私は少し離れて座って、ただその様子を見ていただけ。


ケンタはちょっと離れたところで、砂山にカニの穴を作っていた。

(なぜか話の間、ずっと静かだった。珍しい。)


 


「これ、たぶんバイ貝の仲間だと思うなー。くるくる具合がいいでしょ」


 


くるくると指先で貝を回す、その仕草が妙に楽しそう。


 


「ねえ、すみれちゃんは、海って好き?」


 


私は黙ってしまう。


 


「じゃあ、嫌い?」


 


それでも全然気にしない。


 


「私ね、海って、本当に不思議だなーって思うの。見えてるようで見えてないし、近いのに遠いし」


 


「……」


 


「すみれちゃんは、自分のこと、どのくらいわかってると思う?」


 


思わず、顔を向けてしまった。


 


「私はね、2割もわかってないと思う! だって、朝起きたらもう眠いし、昨日好きだったものが今日はそうでもなかったり、紅茶飲んだだけで泣きそうになるときもあるし……理由なんて、どっかに転がってるのかも」


 


「……私は、たぶん“ぜんぶわかっちゃってる”気がする」


 


「え、すごい! 私もそれ、やってみたい!」


 


「どうせ変な顔だし、しゃべると変って言われるし、失敗しないようにしても、どこかでズレてるし……もうこういう子なんだって、決まってる気がする」


 


こんなふうに自分のことを話したのは、初めてだった。


 


でも、澄海ちゃんは笑わなかった。


 


「このくるくるね、今日のは本当にキレイなの!」


 


白くて細い、小さな巻き貝を、私の手にそっと乗せてくれる。


 


「耳、当ててみて!」


 


言われたとおりに、そっと耳にあてる。


 


──しゅううう……くぅ……ざざっ……ざ……


 


「……なんか、音がする」


 


「でしょでしょー!?」


 


「これ……海の音?」


 


「うん! でもね、本当は“そう聞こえるだけ”なんだって。貝の中の空気が共鳴して、海みたいな音に聞こえるの。でも、私は“海の声”ってことにしてる!」


 


彼女は、砂に指でくるくるとらせんを描いていた。


 


「それにね、この貝、中に入ると出てこられなくなるんだって。一度奥まで行くと、戻るには全部逆にくるくる回らないといけないんだってさー。小さい生き物とか、たまに閉じ込められちゃうこともあるらしいよ?」


 


「……こわ……」


 


「だからね、入る前にちゃんと考えなきゃダメなのかも! でも、考えても考えても、入っちゃうときは入っちゃうんだよね~。人生と一緒かも!」


 


「それに、この貝、右巻きなんだ。日本のはほとんど右巻き。でも、たまに左巻きがあるんだよ。めっちゃレアで、神様の使いって呼ばれたりするの!」


 


「ええ!? 巻き方向に、そんな意味が?」


 


「うん! だって、巻き方も、模様も、その子の“生きてきた記録”だもん。ケンカした跡とか、病気のときの跡とかも残るんだよ!」


 


「……なんか、かっこいいね」


 


「でしょ! 私ね、いつか左巻きの貝、見つけたいなって思ってるの」


 


「見つけたら、どうするの?」


 


「宝物にして、埋める!」


 


「埋めるの!?」


 


「うん! だって、あとで誰かが見つけてくれたら、“私の声が届いた”ってことになるでしょ? そういうの、すてきだと思わない?」


 


……あのときの私は、ただ笑うしかなかった。


 


でも今思えば、澄海ちゃんはもう、“伝えられないまま終わる痛さ”を、知ってたのかもしれない。


 


ケンタが「俺はカニの声も聞いてみたいな……」と、なぜか真剣に砂に耳を当てていた。


 

 



 


「そうだ! すみれちゃん、クイズ!」


 


「え?」


 


「海って、人間がどれくらいわかってると思う?」


 


「……7割くらい?」


 


「ぶっぶー! ざんねーん!」


 


澄海ちゃんは、にやっと笑う。


 


「**たったの3%**なんだって! 人間が分かってるのは、海の中のほんの3%だけ!」


 


「……そんなに?」


 


「そう! ほとんど“わかってない”! でもね、それがすっごくロマンだと思わない?」


 


「目の前にあるのに、ずーっと昔からそばにあるのに、全然わかってないの。宇宙は遠いけど、行けば見える。でも海は、近いのに、行っても見えない。“近くにある未知”って、めっちゃ素敵!」


 


ハルキが「なんか、すげぇ……」とぽつり。


 

ケンタは「3%!? おれのテストの点数より低いじゃん!」と、謎の自虐をかます。


 


澄海ちゃんは、「それがいいんだよ!」とキラキラした目でふたりに言い切る。


 


わたしの中で、なにかが、ぱちんと弾けた。


 


「じゃあ……人魚がいても、おかしくない?」


 


「全然おかしくない! クラゲのドレス着た王女さまが海底で舞踏会してるかもだし、ネッシーが夜になると月の光で歌い出すとか、深海の岩の下にクラゲ型宇宙人の研究所があるかも!」


 


「ホタテの貝開けたら、“ようこそ”って手紙が入ってるとか……」


 


「それ、もう書いてる!」


 


ふたりで、笑いがはじけた。


 


「すみれちゃんも、同じだよ」


 


澄海ちゃんは、キラキラの笑顔で言う。


 


「今の自分が全部じゃない。変かもしれないし、失敗したかもしれないけど──でも、まだ97%、わかってないだけ」


 


「……そんなの、ただの慰めでしょ」


 


「違うよ? これは、“発見”の話。“わからない”って、希望なんだよ!」


 


私は、何も言えなかった。


でも、その沈黙は、これまでの黙りとはまったく違っていた。


 


「あと、すみれちゃん、さっきの顔──ちょっとかわいかった!」


 


「……え!? や、やめてよ……」


 


「夢中になってる顔、私、すごく好き!」


 


「ちょ、やめて……」


 


私は慌てて顔をそむけた。


顔が、ぽっと熱くなる。


 


(かわいい……? 好き……? え?)


(なに今の言い方……?)


(いやいやいや、そういうのじゃ……)


 


頭の奥が、じんわり、温かくなった。


 


「……変なこと言わないでよ、澄海ちゃん」


 


「えー? なにが~?」


 


巻き貝をくるくる回す、その仕草まで、なんだか楽しそうで。


私は思わず、ふっと笑ってしまった。


 


ケンタが「先生、俺のことも3%くらいはわかってくれてるかな……」とぽそっとつぶやいたけど、

ハルキがすかさず「いや、お前は1%もわかんねーよ!」とツッコミを入れていた。


 


たぶん、もうすこしで、この子の隣では“観察者”でいられなくなる。


そんな気がした。


 



 


その夜、私は、久しぶりに机に向かった。


ランドセルの奥から、あのノートを取り出して、


表紙に書いた「観察」の文字を見つめる。


 


今までは、クラスの力関係とか、誰が誰に何回話しかけたかとか、


“感情を入れない記録”だけを書いていた。


 


でも今日は、少しだけ、迷った。


 


この気持ちも「観察」って言えるのかな、って。


 


でも、なんとなく──


 


私はノートの新しいページを開いて、ペンを走らせた。


 


 


澄海ちゃん:

今日、貝をくれた。

くるくるの奥から、音がした。

たぶん、海の声。

「まだ、わかってないだけ」って、言ってた。

海も、わたしも、3%しかわかってないらしい。

でも、残りの97%は、“わかるかもしれない”なんだって。

そういう考え方も、あるらしい。


 

あと……

あのとき、ちょっとだけ、うれしかった。たぶん。


 


「……観察、とはちょっと違うかもだけど」


 


つぶやいて、キャップをしめた。


 


ベッドに入っても、頭の中は、波音が残ってるみたいにざわざわしていた。


 


──貝のドレスを着た人魚姫。

──海の底に眠る王国。

──まだ知らない自分のなかの、自分。


 


眠る直前、ふと思った。


 


“観察ノート”って、もしかしたら“自分を観察するノート”でもあるのかもしれない。


 


そんなの、今まで考えたこともなかった。


 


でも、それなら──


これからの毎日も、ちょっとだけ、楽しみにしてもいいのかもしれない。


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