Sea:24 カニと秘密と、夕暮れの影 |“見た目”じゃわからないこと、海にも、人にも。
海のあそびラボには、いつもと変わらぬ夕方の光が差し込んでいた。
──けれど、どこか違う気がした。
ここ最近は、給食回や潮干狩り遠足など、にぎやかなイベントが続いていたからかもしれない。
子どもたちも先生たちも、まるで“海とふれあうお祭り”のように毎日を楽しんでいた。
でも、そんなにぎやかさのすき間に、ふと現れる“静けさ”がある。
このラボには、そういう空気が似合っていた。
放課後、ミオ、ハルキ、ケンタの三人は、いつものようにそのラボを訪れていた。
といっても、今日はちょっと様子が違った。
「教授、いないのか……?」
ラボのドアを開けたケンタが、いつものようにズカズカと入りながら首をひねった。 がらんとした室内には、いつもの紅茶の香りも、誰かが椅子を動かす音もない。
「この時間帯に教授がいないの、珍しいね。いつもなら紅茶のにおいがするのに」
ハルキが静かに周囲を見渡しながら言った。
ミオはほんのすこしだけ、不安にも似た感情で眉をひそめた。
……まぁ、教授がいないだけで、なぜか“事件のにおい”を感じるのは、日頃の不思議な雰囲気のせいである。
「……なんか、先生と教授がふたりで出かけてたらどうする?」
ハルキのぽつりとした一言に、ケンタが即座に飛びついた。
「えっ、不倫……?」
まるで、昨日までそこに貼ってあったシールが急にはがれた、みたいな顔で。
「え、ないないない! あの教授だよ!? わりと人として尊敬してるから、やめて!」
ミオは両手をぶんぶん振って否定する。なんかもう、否定しきれない空気が逆にこわい。
「この前さ、教授が月島先生のこと“すみれ”って呼んでたの、聞いた? 呼んだあとで一瞬“やば”って顔して、すぐ“月島先生”って言い直してたんだよね。……あれは正直、怪しいと思う」
ハルキが眼鏡を指で直しながら、淡々とした口調で告げる。
「……そのあと、教授がハーブティー飲んでたのも謎だしな」
これはもう、状況証拠が積み重なっている。
「浮かれちゃってたんだよ……センセー、今日もステキだった……みたいな」
ケンタがにやにやと両手を胸に当てて揺れはじめる。
「だーかーら! 教授に限ってそんなわけ……って、ああもう! 確かに怪しい気がしてきたじゃん!」
ミオがついに叫ぶと、三人で顔を見合わせて、どっと吹き出した。
笑ってしまえば、なんだって怖くなくなる。
──そんなことを思いながら、ミオはふと、ひとりのことを思い出していた。
“もう一人、いたんだ”。
潮干狩りのとき、教授がふと遠くを見つめながらつぶやいたこと。 「昔な……三人で、よく一緒にいたんだ」 その“もう一人”が誰なのか、気になっていた。
今日、教授がいない理由と──なにか関係があるのかもしれない。
そんな予感が、心のどこかで泡のように浮かんでいた。
ミオは首をかしげながら、展示棚の方へ目を向けた。
「せっかくだし、見てみようか」
彼女の言葉にうなずき、三人は棚の奥へと歩を進めた。
そこには、透明な水槽の横に、古びた図鑑や、丁寧に描かれた手描きの解説メモ、標本が整然と並んでいた。
静かな部屋に、ページをめくる音がやさしく響く。
「これ見て」ミオがそっと手に取ったのは、一冊の分厚いノートだった。
表紙には『潮間帯における生物の適応特性』と書かれている。まるで魔法の書みたいなタイトル。
ページを開くと、びっしりとスケッチや書き込みが並び、生き物たちの秘密が図解とともに現れる。
「これ……教授が描いたのかな」ハルキがページを指でなぞるように見つめる。
すると、ケンタが思い出したように別のページを指差した。
「うわっ、これ! タラバガニ……って、え? ヤドカリの仲間!?」
「……うそでしょ」 ミオが思わず覗き込む。
「ほら、“タラバガニは十脚目ヤドカリ下目に属する”って書いてある。脚のつき方とか、生態的にもカニじゃないんだって」 ハルキがさらりと読み上げた。
「いやいやいやいや、ちょっと待って? タラバガニってさ、“カニの王様”って思ってたよ? 高級食材ランキング常連だし!」
「正月にしか食べられない系。あと、“焼きタラバ”ってだけでテンション2段階は上がる」 ケンタが力説する。
「それが……ヤドカリ?」 ミオの声が少し遠くなる。
「そもそも“カニ”って名乗ってるのに、違うってどういうことなの……?」
「カニっていうのは、脚の形とか、お腹の巻き具合で分類されてるらしいよ」ハルキが続ける。
「だから、見た目が似てても構造が違えば“似て非なるもの”になる」
「それ詐欺じゃん……」 ケンタががっくり肩を落とす。
「ちなみに“花咲ガニ”もヤドカリの仲間だって」ハルキが追い打ちをかけた。
「え、ちょ、やめて! 私の好きなやつまで!!」 ミオが頭を抱えた。
「カニ味噌とか、甲羅焼きとか、あの濃厚な風味はもう信じていいの……?」
「風味は風味。でも分類はヤドカリ」ハルキが淡々と告げる。
「……わたし、今まで“カニが好き”って言ってたけど、ぜんぶヤドカリだったのかもしれない」
「ミオ、それは“好きな人に実は彼女いた”ぐらいのショックだな」ケンタがそっと背中を叩いた。
「うん……でももう、私は“ヤドカリ推し”ってことで納得することにする……」 ミオが遠い目をしたままつぶやいた。
「いいんじゃない? ヤドカリって地味だけど、意外と重要なポジションにいるし」 ハルキがページを閉じながら静かに言った。
「じゃあ、ロブスターは? あれはカニ?」 ミオがふと思い出したように尋ねる。
「ロブスターは“エビの仲間”。分類としては、イセエビとかと近いほうだよ」
「えっ、じゃあエビ界の王様なの? カニ王じゃないの?」 ケンタが混乱する。
「あとね、ヤシガニって知ってる? あれもヤドカリの仲間なんだけど、背中に貝殻背負ってないんだ」 ハルキが続ける。
「それって、もう“殻を捨てたヤドカリ”じゃん! 覚醒したの!?」 ケンタの想像力が爆発した。
「……海の世界、分類ってこんなにカオスだったんだ……」 ミオがぽつりと呟く。
「見た目に騙されちゃいけないってことだね」 ハルキの言葉に、ミオとケンタはそろってうなずいた。
「……で、正真正銘の“カニ”って、どれなの?」 ミオが首をかしげながら尋ねた。
「たとえば、ズワイガニとかワタリガニ、あと毛ガニ。あれは本物の“カニ”」 ハルキは手元の図鑑を開いて見せた。
「脚のつき方が“カニ”特有の形をしていて、お腹がペタッと平たくて、巻いてない。だから“短尾下目”っていうグループに入ってるんだ」
「短尾……あ、たしかにお腹、ぺたんこかも」ミオが指でスケッチをなぞった。
「逆に、タラバガニとか花咲ガニは“ヤドカリの仲間”だから、“異尾下目”っていう方に入ってる。こっちはお腹が巻いてて、左右の脚のバランスも違う」
「だから、ズワイガニは“カニ代表”で、タラバガニは“見た目がカニっぽいヤドカリ代表”ってことか……」ケンタがまとめる。
「そうなるね。でも味は……まあ、どっちも美味しいからね」 ハルキが少し笑った。
「味も違うの?」 ミオが身を乗り出す。
「うん、ちょっと違う。ズワイガニとか毛ガニは、身が繊細で甘みがある感じ。いわゆる“カニの甘み”っていうのはそっちの方」
「で、タラバガニは?」
「身が太くて繊維がしっかりしてる。ぷりっとしてて、“肉っぽい”感じかな。食べごたえ重視」
「なるほど……タラバは“筋肉系ヤドカリ”って感じなんだね」 ケンタが妙なまとめをして、ミオがふふっと笑った。
「つまり、見た目と中身と味は、また別の話ってことか……」 ミオは腕を組んでうーんとうなったが、最終的にこう締めくくった。
「よし、私はこれからもカニとヤドカリ、両方推していく!」
「推し増しじゃん」 ケンタが笑いながら言った。
「……あ、栗毛ガニは?」 ミオがふと思い出したように聞いた。
「お、いいとこ突くね」ハルキが反応する。
「分類的には毛ガニと同じ“本物のカニ”らしい?毛が多くて小ぶりだけど、味はしっかり濃い。北海道ではけっこう人気があるんだ」
「通好み系……!」ミオが目を輝かせる。
「カニ味噌が特においしいって聞いたことある。ちょっと渋めだけど、知ってると“おっ”って言われるカニ」
「じゃあ私は、栗毛ガニ推しも追加で!」
「だから推し増しってば!」 ケンタが爆笑しながらツッコんだ。
そんなやりとりのあと。
ふと、ミオの目がラボの奥の棚に並ぶ小さな瓶へと向いた。
そこには、“SH-03”のラベルが貼られたガラス瓶が置かれている。 白くて雫のような、海のかけら。
「さんごちゃん……」 ミオは小さな声でつぶやいた。
──そのときだった。
瓶の奥で、さんごちゃんが。 ほんの一瞬だけ、かすかに、かすかに── 青白く、光ったような気がした。
──そして、その夜へと、物語は進んでいく。
そのあと、三人はラボを出た。 いつのまにか外は夕暮れで、茜色の空が窓の隙間からのぞいていた。
「結局、教授どこ行ってたんだろうね」 ミオが言うと、ケンタが肩をすくめる。
「ほんとだよ。教授のいないラボって、なんか“主なし水族館”って感じだった」
「まあ、たまには静かなのも悪くないけどね」ハルキが言った。
三人は帰り道を歩きはじめる。
そして、そのとき。 海沿いの歩道に出たミオが、ふと足を止めた。
「あれ……?」
波打ち際に目を向けると、砂浜の奥にふたりの人影が見えた。
──教授と、月島先生だった。
夕焼けの光のなかで、ふたりは並んで座っていた。 風が髪を揺らし、距離は遠いのに、どこか親密さを感じさせる。
「……なんか、見ちゃいけない気がする」 ミオは思わずつぶやいた。
「おーっと……これはまさか……」 ケンタがわざとらしく声をひそめる。
「もう、ケンタ……」
ミオは首を振りつつも、目を離せなかった。
(教授……月島先生……あの二人には、何かある)
それはたぶん、ミオにとって“あってほしくない何か”だった。
ミオの足が、知らず知らずのうちに砂浜へ向かっていた。
もし、このまま何も知らずに帰ったら、 夜中に布団の中でひとり、勝手に変な妄想でモヤモヤして、 翌朝には「もう教授の紅茶は信用できない!」みたいなテンションになる気がした。
「ちょ、ミオ!? 行くの?」
「ちょっと待てって、おい」
ケンタとハルキの声が後ろから追ってくるが、ミオは止まらなかった。
ただ、なんというか──なかったことにしては、いけない気がした。
ふたりの背中が、夕陽に照らされて、影のように細く長く伸びていた。
そのあいだに流れる沈黙が、逆に言葉以上のものを語っているようで。
教授の肩が、ふと揺れた。月島先生が、小さくうなずいたように見える。
──うなずき方が妙にやさしい。
そして、教授のあの穏やかな表情。
どう見ても“深刻な学術的議論の途中”ではなかった。
(これって……)
「ねぇ! 教授!」 ミオの声が、思ったよりも大きく浜辺に響いた。
ふたりが同時に振り返る。その表情に、一瞬だけ何か──強張りのようなものが浮かんだ気がした。
「……先生たち、こんなとこで、何してるんですかっ!」 ケンタが後ろから追いつき、若干の動揺を隠しきれない声で続けた。
月島先生が少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。
「ちょっと……昔話を、していただけよ」
「そんな、意味深に並んで夕陽見ながら……まるで……」
ケンタのセリフを、教授が咳払いで遮る。
「──あー、それは誤解だぞ」
言いながらも、どこか動揺しているように見えた。いや、見えた気がしただけかもしれない。
「……誤解なら、ちゃんと説明してください」
ミオの声には、少しだけ怒気も混じっていた。
怖かったのだ。
──何かが、終わってしまうような気がして。
たとえば、教授が“好きな先生に紅茶を淹れてあげる”のが、 そのまま“今夜あたり急展開するロマンスの伏線”だったらどうしよう。
──その場合、あのカップとソーサーは“愛の器”ということになる。
そんな想像が、ミオの中で爆速で育っていった。
教授と先生は、しばし顔を見合わせる。
教授がふっと息をついて、立ち上がった。
「……ちょっと、ひとまわりしてくる。潮の音、最近ちゃんと聞いてなかったからな」
その言葉は、なんだかとても教授らしくて、ミオたちはぽかんとしたまま見送った。
手を振った教授の背中は、夕陽にすっと溶け込んでいった。
残された沈黙を、波の音がそっと埋めた。
月島先生は、小さく笑ってから、ミオたちに向き直った。
「ごめんね。ちょっと驚かせちゃったよね」
そして、やわらかく微笑んだ。
「先生から……お話、してもいいかな」
「……もう、あれから──十六年になるのね」
先生の目が、夕焼けの彼方に向いていた。
「当時、私は小学四年生だったの」
夕焼けの海が、静かに彼女たちを包み込みながら、次の物語の扉を、そっと開こうとしていた。
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