Sea:23 - 後編 返事の浜|返事をしてしまったら?

午後のラボには、妙に“全員が揃っていた”。


……もちろん、ちゃんと“居残り掃除”のあとである。



ケンタはぞうきん片手に「俺、牛乳だけだったのに……!」とぼやき、

ハルキは「共犯だろ」と呆れ顔で返し、

ミオはひと言、「……しかたないでしょ」と済ました顔。


月島先生も、プリントを手伝いながら「……こうなるって分かってたでしょ」とぼそり。


如月先生はというと──


「で? 今回の牛乳と……この前はなんだ? なつみかん?」

「あと、ゼリーもちょっと……」

「加算されていくのかよ」


そんな、いつもと変わらない日常の空気の中に、

ひとつだけ、“変な話”が混ざっていたのは数時間前だ。



禊を終えた私たちは、如月先生、月島先生と共に

例の噂について意見を聞くために、海の遊びラボへやってきた。


しかし教授は、席を外しているようで、戻ってくるまで

お茶をすることにしたのだ。


「……でね、だから“呼び子”って名前がもうアウトなんだってば!」


月島先生は机に突っ伏しながら、ぷるぷる震えていた。

その手元には、小さなメモ用紙──“返事の浜/影の返事”と、細かく書き込まれた文字が並んでいた。


「先生、それ……」

ミオが指差すと、月島先生は手でメモを隠しながら首を振る。


「こ、これは……えっと……自習教材の準備で……!」

わざとらしい言い訳に、ケンタが「怪しい……」と小声でつぶやいた。


 


「湯呑み、3つじゃ足りないな」

如月先生はそんな空気の中でも、まるで“それが仕事”かのように湯呑みを並べていく。

誰よりも自然な手つきで、ラボのカップ棚から“いつものやつ”を取り出していた。


 

イメージが薄いけど……思ったよりも如月先生もラボにくること多いのかな……

ポツリとそう思ったあと、如月先生は教授の席のほうに、そっと目をやった。


そのとき、ちょうどラボの奥からドアが開く。


 


「おや、潮風が“噂話”を運んできたのかな」


──汐ノ宮教授だった。


 


白衣に紅茶の香り、ボサボサの髪に曇った丸メガネ。

それは、見慣れたはずの“いつもの教授”だったけれど。


なぜだか今日は、いつもより少しだけ──話す前の“間”が長く感じられた。




「……知ってたんですか」

ミオが、目を丸くして言う。


教授は微笑んで頷いた。




“返事の浜”──地元ではそう呼ばれているね」

教授はホワイトボードの前に立ち、ゆっくりペンを取り出した。


「でも実際は、数年前にもう調べ終わってる」


 


ペンが走る。


《テトロドトキシン(TTX)》

《麻痺性貝毒(PSP)》


「ある年の夏、しおざきの浜で、5人の人が倒れた。

いずれも、波打ち際で──しかも“声を出していなかった”」


「……でも、“返事をしたら消える”って話じゃなかった?」

ハルキがぽつりと聞く。


「違うよ。返事をしたくても──“声が出せなかった”だけなんだ」


教授は紅茶にひとくち口をつけると、図鑑を開いて見せた。


「ヒョウモンダコ。体長10cm。カラフルで可愛い。でも……」


図鑑のページに載っていたその姿に、ケンタが「うわ、これ知ってる!」と声を上げる。


「見た目は可愛い。でも唾液に、“フグ毒”と同じテトロドトキシンを持ってる。

噛まれても痛くないまま、30分以内に“呼吸が止まる”可能性もある」


 


月島先生が、紅茶を両手で抱えたまま、言葉をなくしていた。


「……じゃあ、あの“声が出ない”って……」


「うん。“声が奪われた”わけじゃない。

“動かせなかった”だけ──毒で」


 


教授は、別の資料をボードに貼る。


「もう一つは、麻痺性貝毒。これは見た目じゃわからない。

貝がプランクトンを食べて蓄積した毒で、加熱しても消えない」


「じゃあ、気づかないうちに食べたら……?」


「発症は早ければ30分以内。

“口のしびれ→舌の麻痺→呼吸困難”──そして、重度だと死に至る」


 


ケンタが、お菓子の袋をそっと置いた。


ミオは、腕を組んだまま静かにうなずいている。


ハルキは、ノートに何かを書き込んでいた。

「声を止める毒が……ふたつ、重なった」と。


 


教授は、ボードの下にこう書いた。


『声を奪う毒が、重なった』


「5人目が倒れたとき、ようやく調査が動いた。

ヒョウモンダコと、麻痺性貝毒。ふたつの成分が検出されて──“祟り”ではないことが、ようやく分かったんだ」


 


「……でも、どちらにしたって、怖い話ですね」

ミオは、身を抱きしめてそういった。

 


教授は、そっと頷いた。


「科学は、“なぜ”を解き明かすけれど、

“怖い”という感情そのものは、そう簡単に消えない。

──むしろ、“知ってるからこそ”怖くなることもある」



教授は、ホワイトボードにペンを置き、一息ついた。


「……科学は、“なぜ”を解き明かしても、

“こわい”という感情までは、そう簡単に消せないから」


ラボに沈黙が降りる。


──教授は、紅茶を一口飲んで、再びペンを手に取った。


 


「……じゃあ、今日はせっかくだから、もう少しだけ。

世界中の“本当にヤバい海の毒”も、紹介しておこうか」


 


ケンタが、ごくりと喉を鳴らす音がした。

ハルキとミオは無言で頷いた。


 


ホワイトボードには、新しい見出し。


《世界の海で恐れられる、危険な海洋毒トップ5》


 


教授は、静かに語りはじめた。


 



【第1位】パリトキシン(Palytoxin)

「サンゴやイソギンチャクの仲間“パリトア属”が持つ毒。

ほんの微量で心臓や神経に作用し、最悪の場合は数時間で死亡する。

水槽掃除で吸い込んだだけで倒れた例もある──世界最強クラスの毒だ」


 


──月島先生が、息をひそめた。


 



【第2位】サキシトキシン(Saxitoxin)

「さっき話した麻痺性貝毒の主成分。

プランクトンが作る毒で、貝や魚を通じて人に届く。

加熱でも消えず、しかも“即効性”。──日本でも、毎年のように発生している」


 



【第3位】テトロドトキシン(TTX)

「フグや、ヒョウモンダコが持つ毒。

神経をブロックして、呼吸を止める。

しかも──“意識があるまま動けなくなる”ことがある。

つまり、自分が死んでいくのを、わかってるまま見送るような状態になる」


 


ケンタが、横で震えた。


 



【第4位】シガトキシン(Ciguatoxin)

「これは少し特殊でね。

熱帯の魚に蓄積する毒なんだけど……中毒になると、“感覚が反転”することがある。

たとえば──冷たい水が熱く感じたり、金属の味が口に残ったり。

症状が何週間も続くこともあるんだ」


 



【第5位】ドモイ酸(Domoic Acid)

「カナダや北米の貝で見つかった、記憶喪失性貝毒。

脳にダメージを与えて、記憶を失わせる。

……名前を呼ばれても、思い出せなくなるような毒だよ」


 


誰も、声を出さなかった。


 


教授は、チョークを静かに置いた。


 


「海の毒は、熱しても、煮ても、焼いても、無害にならない。

しかも、色も匂いもない。味も──普通のままだ。

だから、“美味しいまま命を奪う”」


 


ホワイトボードの横に、新たな見出しが生まれる。


《海の毒は、なぜ“別格”なのか》


 


「自然界の毒にはいろいろある。たとえば──」

• ヘビの毒:血を溶かす“出血毒”や、神経を止める“神経毒”

• キノコの毒:肝臓や腎臓にじわじわダメージを与える“遅効性毒”

• トリカブトなどの植物毒:心臓に作用する“アルカロイド系”


 


「でも、“海の毒”だけが持つ、決定的な違いがある」


 


ミオが、そっと問いかける。


「……何が、違うんですか?」


 


教授は指を一本立てた。


「“熱でも壊れないこと”。

そして──“見えない・気づかない・止められないこと”」


 


ホワイトボードのすみに、教授がさらりと図を描いていく。


 


「陸の毒の多くは、熱に弱い。加熱すれば毒性が下がる。

でも海の毒は違う。“加熱無効”──火にかけても、残る」


 


「見た目や匂いでも、気づけない。

しかも、美味しいまま、あとから効く。

体に入ったときには、もう手遅れ──ということもある」


 


「そして、最後の違い。──“解毒剤がない”。

フグ毒にも、貝毒にも、サンゴの毒にも──多くは血清がない。

できることは、ただ呼吸を保ち、“時間”をかせぐことだけ」


 


教授は、最後にこう書き添えた。


『知らない毒』と『知っている毒』──

こわいのは、どっちだと思う?


 


誰も、すぐには答えなかった。


ケンタは、月島先生の影に半分だけ隠れて、つぶやいた。


「……全部、危険に対して違うが見えないのがやばいよ……」


 


教授は、静かに一言を加えた。


 


「“安心して食べたもの”が、“音もなく命を奪う”ことがある。

しかも、防ぐ手段は、“知っているかどうか”にかかってる」


 


「──だから、“知ること”が、生き残る唯一の方法なんだよ」







静けさのなかで、ハルキが言った。


「……でもさ、教授」


「ん?」


「なんで今また、その噂が広まったの?

何年も前に調べ終わってるなら、今ごろ“返事の浜”が出てくるのおかしくない?」


 


教授は、わずかに紅茶の香りを吸い込んだ。


「……潮の流れは、変わり続けるからね。

たまたま、最近の干潮で──“あの岩場”がまた顔を出したのかもしれないよ」


 


それだけ言って、窓の外に視線を向けた。


 


その横顔を、ミオは静かに見つめていた。

そして、あることに気づいた。

 


「──教授の靴……ちょっとだけ濡れてる」

教授の紅茶のカップが、ほんのわずかに揺れたように見えた。






後日──


海のあそびラボ。夕方。
片づけをしていた子どもたちの背後で、据え置きのテレビが何気なく流れていた。


『……本日、小学校近くの浜でヒョウモンダコを捕獲』
『研究機関と自治体の連携で早期対応。幸い、人への被害はありませんでした』


「えっ……これ、しおざきの浜じゃん」
ケンタが目を丸くする。


ハルキが首をかしげる。


ミオは、テレビの奥に映った白衣の人影を見て、静かに言った。

「……まさか、ね」


画面の奥。白衣の男性が、
ほんの一瞬だけ、うっすらと笑っているように──見えた気がした。


そのとき、ラボの隅。
ガラス瓶の中に置かれた白いサンゴのかけらが、ふわりと青白く光った。

仕掛けも電源もない、ただの化石のようなそれが──
まるで“何かに共鳴したように”。

ミオは、瓶にそっと視線を向けた。

サンゴは、何も言わない。

けれど、あの光が“偶然じゃない”ことだけは、なぜか、わかっていた。

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