Sea:22 海の香りと、ひとつまみの記憶|あれは、腐っているけど、大切な香り。
「あ、今日の潮風──ちょっと甘い感じする!」
ミオが窓を開けると、海から吹き込んだ風が、ラボの空気を一瞬で塗り替えた。
「……え? 潮風に味ってあったっけ?」
ケンタの声が、見事な“フライングツッコミ”で室内に響く。
「あるよ。……たぶんね」
ミオはにやりと笑って、鼻をくんくん。
風の向こうに、なにか“秘密の気配”でも嗅ぎ取ろうとするような仕草だった。
「ちょっと干したワカメの匂いっていうか……海苔の袋を開けたときの……うーん、おなかすく感じ?」
「……それ、ただの海藻じゃん」
冷静なハルキの一言に、ミオが「ふふん」と笑って返す。
「でもさ、潮の香りって、“魚のスープの匂い”って、お母さん言ってたよ?」
「えぇぇぇぇ……」
ケンタとミオ、ほぼハモって顔をしかめた。
しばらく続いた“匂い談義”は、唐突に新しい方向へ。
「じゃあさ、“好きな匂い”ランキング決めよーぜ!」
ケンタが提案すると、なぜか全員ノリノリになる。
「炊きたての白ごはん、雨の日の図書室、あと……おばあちゃんちの押入れ!」
「それもう“記憶のにおい”じゃん」
「お風呂掃除したあとの洗剤の匂いが好きな人、意外といる説!」
「ケンタ、それ毎回言ってる」
にぎやかな声が、ガラス窓越しに外の海まで届いていきそうなころ──
そのとき、ラボの奥から、白衣の気配が近づいてきた。
汐ノ宮教授だった。
カップから立ちのぼる紅茶の湯気が、白衣の前をほわっと通り過ぎる。
その香りが、ほんの一瞬だけ空気を変えた気がした。
「おやおや、朝から楽しそうだね」
まるで最初から会話を聞いていたかのように、教授の声はすっと会話に溶けこんだ。
「おはようございまーす!」
ミオたちが一斉に頭を下げる。
教授は、窓から流れこむ潮風に顔を向け、ふと目を細める。
「……うん。今日も、いい磯の香りがする」
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……まあ、腐ってるんだけどね」
「え、ええええ!?」
「いきなりそんなこと言わないでよ!」
ケンタがずっこけ、ハルキが「……なるほど」と難しい顔で考えこみ──
そして、ミオは。
ぷくっと頬をふくらませて、むっすり腕を組んだ。
「それ、ちょっと納得いかないんだけど」
風の中にあった“きらきらした感じ”は、ミオの中ではずっと宝物だったからだ。
「海の匂いって、もっとこう……“元気をくれる香り”って感じしない?」
そのまっすぐな疑問が、この日のラボに“もうひとつの謎”を呼びこんだ。
──風は、何かを連れてくる。
この日も、それはたぶん例外じゃなかった。
「正確にはね──」
教授が、ホワイトボードの前に歩いていき、さらさらとマーカーを走らせた。
浮かびあがったのは、どこか強そうな響きをもつ名前。
ジメチルスルフィド(DMS)
「……じめちる……なんとか?」
ケンタが眉をひそめる。
「ジメチルスルフィド。略して、DMS。
海の中で、植物プランクトンや海藻が動物プランクトンに食べられると──
その過程で“DMSP”という成分が出て、それが“DMS”に変わるんだ」
「つまり、食べられて、消化されて……出てくるってこと?」
「うん、言い方を選ばなければ、そう」
「おなら!?」
ケンタの叫びに、ミオとハルキが同時に振り返る。
「ちょっ……!」
「それは硫化水素だよ。ちょっと違う」
ハルキの冷静な訂正が即座に飛び、ケンタがむせる。
「知識で殴られた……!」
教授はふふっと笑って、マグネットで貼った図解シートを指さした。
「このDMS、ただ“くさい”だけじゃない。
実は、地球規模で見ると、すっごく重要なはたらきをしてるんだ」
その言葉に、子どもたちの目が少しずつ変わっていく。
──いつものパターンだ。
最初はツッコミだらけの“にぎやかモード”でも、教授の“ちょっと不思議な海の話”が始まると、この3人は、ちゃんと“知るモード”に入る。
私たちにとっては、この時間の教授は
なんだかちょっとかっこよかった。
教授は、紅茶のカップを机に置きながら、ひとつずつ指を折って語り始めた。
「たとえば、ひとつめ──
このDMSはね、“空の上で雲をつくる”んだよ」
「え!? 雲って、水蒸気じゃないの?」
「もちろん。でも、水蒸気が集まるには“核”になるものが必要でね。
DMSはその“核”のひとつになれる。つまり──“くさいけど、雲を呼ぶ”ってわけ」
「……くさい雲……」
ケンタがボソッとつぶやき、ラボにちょっと笑いが広がった。
教授はにっこりしながら、ふたつめの指を立てる。
「それから──ペンギンやクジラは、このDMSのにおいを“地図”みたいに使ってるんだ」
「えっ、においで!?」
「そう。魚の群れがいる場所って、DMSの濃度が高くなるからね。
彼らは“目”より“鼻”で、海の情報をキャッチしてるんだよ。
言ってみれば、“嗅覚ナビゲーション”さ」
「鼻で進むとか、なんかカッコいい……」
ミオがぽつりと呟いた。
教授は三本目の指を立てて、少し真顔になる。
「そして──このDMS、もしかしたら“地球の気温”にも影響してるかもしれない」
「え、どういうこと?」
「DMSが増えると、雲ができやすくなるでしょ?
雲が多いと、太陽の光が地表に届きにくくなる。
つまり──DMSが多いと、地球が“少し冷える”かもしれないって言われてる」
「くささで、気候制御……?」
ケンタの顔がだんだん混乱してきた。
「そして、最後に──これがまた意外なんだけどね」
教授は、ゆっくりと四本目の指を立てた。
「このDMS、実は“うま味”のトリックにも使われてるんだよ」
「え? うま味?」
「そう。ホタテや干物なんかの“磯の香り”には、この成分が含まれてる。
人間の脳は、このにおいを“おいしい”と勘違いするようにできているんだ。
……腐ってるのに、ね」
「だまされてる……!」
ケンタがそっと、机に突っ伏した。
「“くさいは正義”──とは、言わないけど」
教授は紅茶のカップを手に取り、少し目を細めた。
「世界って、時々“変なもの”が大事な役割をしてたりする。
それを知るだけで、いつもの風景が、ほんの少しだけ面白くなるんだよ」
潮風が、またふわりと吹き抜けた。
けれど、
同じ風なのに──どこか“意味”が変わって感じたのは、きっと気のせいじゃなかった。
「……それじゃあ、試してみようか」
教授が手を叩いた。
いつもの“実験する気だな”の合図だった。
「えっ、今から!?」
「匂い、って……どうやって実験するの?」
「うん。DMSそのものはすぐには出せないけど、似た成分のサンプルならあるよ」
教授が引き出しから取り出したのは、小さな試薬瓶がいくつか並んだトレイ。
ラベルには、読みづらい化学式のような文字がずらりと並んでいる。
「この中にね、“海の匂い”の元になってる成分がいくつかあるんだ。
それぞれ少しずつ違うけど──嗅いでみれば、わかると思うよ」
「それ、“嗅覚実験”ってやつじゃん……!」
ケンタがなぜかテンションを上げる。
「ただし、鼻を近づけすぎないこと。そして──変な声は出さないように。」
「なんで!?」
「研究者の集中力は、最初のリアクションにかかってるからね」
「それ、ただのフェイント防止じゃん!」
──というわけで、実験開始。
瓶のふたを開けた瞬間、ふわりと漂う“潮っぽさ”。
「うわ、これ……干物……?」
「こっちは、ちょっとワカメっぽい……」
「うん、たしかに“海”って感じする……けど、なんか複雑」
ミオが、瓶のひとつに顔を近づけたとき、ふと動きを止めた。
「……あ。これ、知ってる」
「え?」
「……このにおい、前に港で嗅いだことある。
朝早くて、ちょっと寒くて、でも、すっごくワクワクしてた」
彼女の声は、少しだけ遠くを見ていた。
「……においって、記憶の鍵になるって、本当なんだね」
それを聞いた教授は、そっと紅茶をひとくち。
「そう。“匂い”は、脳の“感情の記憶”に直結してるからね。
懐かしさや安心感を呼び起こすこともあるし、逆に嫌な思い出がよみがえることもある」
「じゃあ、“くさい”って感じるのも──気分次第?」
「そうかもしれない。
匂いそのものより、それを嗅いだときの気持ちのほうが、ずっと強く、長く残ることもあるよ」
「……変なの」
ミオは、瓶のふたをそっと閉じた。
「腐ってるのに、ちょっと安心するっていうか……
……なんか、止まってない感じがするんだよね。
風みたいに、まだどこかで続いてる感じっていうか」
教授は目を細めて、ゆっくりうなずいた。
「いい感覚だと思うよ。
“くさい=ダメ”なんて、誰も決めてない。
そこにある理由を知ることで、嫌いだったものが“愛おしく”なることもあるんだ」
「……ふーん」
ミオは、鼻先に手をかざして、残った匂いをひとふき。
「やっぱり、あたしこの匂い──けっこう好きかも」
──そう言って笑ったミオの目は、
さっきまでより少しだけ、海の風に似ていた。
ラボの窓の外では、潮の香りが少しずつ変わり始めていた。
空気に含まれる成分が変わるのか、
それとも自分たちの感じ方が変わるのか。
たぶん──その両方なんだろう。
「よし、じゃあ今日のまとめ」
「潮の香りは、海の“生命活動のしるし”だ。
見えないけれど、ちゃんとそこにある。
それを“くさい”と感じるか、“好き”と感じるかは、きみたちの心しだい、ってことだね」
「つまり、“感じたもん勝ち”ってことだな!」
ケンタがどや顔で言うと、ミオが笑いながら返した。
「それ、“言ったもん勝ち”の間違いじゃない?」
「え、違ったっけ!? ことわざだと思ったのに!」
「“匂いも味のうち”って言葉はあるけどね。ケンタのはただの迷言」
ハルキが冷静にフォローを切り捨て、ケンタが「うわーん!」と崩れ落ちる。
教授は、それを見て小さく笑った。
「ま、でもそれも間違いじゃない。
感じたことに、正解はないからね」
「……じゃあ教授。DMSってさ、どこに行けば本物が嗅げるの?」
ミオがふと真面目な顔で聞いた。
「うん。やっぱり港かな。朝早く、漁の船が戻ってくる時間。
あとは、潮が引いた直後の磯とか。
そういう“命が動いた痕跡”が、DMSを運んでくるんだよ」
教授がにっこりと笑った。
外では、さっきよりも強い風が吹いた。
磯の香りと、まだ知らない何かの気配が、ラボの中にふっと入り込む。
窓の外の海は、今日も変わらず広がっていた。
でも、ほんの少しだけ。
その“匂い”が、ちがって感じられるような気がした。
──きっと、これもひとつの“観察”なんだろう。
潮の風は、まだやまない。
今日も、明日も。
きっと、何かを運びながら。
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