Sea:21 ぬめりは、命です。 |ふざけてたつもりが、本当にすごかった海藻の底力。
昼休みの教室──配膳台には、今日も“給食部隊”がずらりと並ぶ。
ミオはエプロン姿で味噌汁をよそう係。
隣ではケンタが、ご飯をこぼさないように真剣な顔でしゃもじを握っていた。
「よっしゃ、今日のメインは──サバの味噌煮!」
ケンタが元気よく宣言した。
「副菜は、ひじきとアカモクの酢の物。味噌汁にはワカメと豆腐」
ハルキが、淡々と読み上げる。
「うわ……地味ラインナップ……」
ケンタが渋い顔をする一方で、ミオはふわりと微笑んだ。
「でも、“和食!”って感じで、好きかも」
教室の前では、月島先生が
「はい、列を崩さないでくださーい」と声をかけながら、お皿を手際よく整えていた。
配膳が終わり、席についた全員が「いただきます!」
カチャカチャと食器の音が一斉に響く。
「うわっ、サバ味濃い〜! うまっ!」
ケンタが箸を止めて、目を見開いた。
「ご飯が進むね」
ハルキが、静かにおかわりの気配を漂わせる。
「この味噌汁のワカメ、やたら自己主張してくるんだけど……」
ミオがそっと口元を覆う。
「っていうか、副菜のひじきとアカモクさ……」
ケンタが小鉢をつついて眉をひそめた。
「完全に、ぬめぬめ三兄弟じゃん。黒い、ぬるい、ねばい」
「おかずを擬音で表現する時代、来たか」
ハルキがさらりと返す。
「アカモクって、“もけもけ”してそうじゃない? 名前的に」
ミオがぽつりと言うと、ケンタが爆笑した。
「もけもけ族か……ネバネバ言語で意思疎通するやつら……」
──そのときだった。
「でもね、みんな」
背後から、やさしい声がふわりと届いた。
月島先生が空の食缶を片づけながら、ふとこちらを見ていた。
「その“ぬるぬる”たちがね──
実は、地球の命を支えてるんですよ」
一同、ぴたりと箸が止まる。
「……命、守ってる?」
ミオがぽつりとつぶやいた。
「地味だけど、すごい。目立たないけど、大事。
──それが、海藻なの」
その声は、給食の喧騒のなかで妙にくっきりと響いた。
まるで一瞬、空気が静かになったかのように。
この小学校では、日替わりで先生が給食グループに同席するルールがある。
今日は月島先生がミオたちのテーブルに座った。
「……命、守ってるって、どういうことですか?」
ミオが改めて聞く。
「そうですね……」
先生は湯気の立つ味噌汁を一口すすり、やわらかく微笑んだ。
「たとえば──ワカメやアカモク。
あの子たちがいなかったら……私たち、息もできないんです」
「それ、先生ジョーダン抜きで……?」
ケンタが眉を上げた。
「抜きですよ」
先生はくすっと笑い、ワカメをつまんで見せた。
「海には光合成をする生き物がたくさんいます。海藻もそのひとつ。
実は地球の酸素の半分以上は、そういう“海の生き物”が作っているんです」
「うそっ……半分!?」
ミオが素で驚く。
「火もつかなくなるよ。酸素なきゃ燃えないし」
ハルキが真顔でつぶやいた。
「人間って……ギリギリで生きてるんだな……」
ケンタが青ざめる。
先生はアカモクを一口つまんで言った。
「でもね、地味で見えないものほど、大切なことってあるんですよ」
その言葉は、ぬるぬる三兄弟よりもずっと強く胸に残った。
──やっぱり、綺麗な先生だなあ。
ミオはふと先生の横顔を見る。
その瞬間、ワカメをつまんだ指先が、かすかに震えたように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、“ぬめりのような違和感”は心に残ったままだった。
「……先生も、昔は海でぬめぬめしてたんですかね」
ケンタのふざけた一言に、どっと笑いが起こる。
でもミオだけは気づいた。
先生の目が、笑っていなかったことに。
(やっぱり、なにか隠してる──?)
「そういえば先生、アカモクとワカメって混ぜてもおいしいんですか?」
ミオが尋ねると、先生はスプーンを置いて、少し目を細めた。
「ええ、よく合いますよ。うちでもよく出すんです。──あっ、……実家で、ですけどね」
「いま、“うちでも”って……」
ケンタがニヤリ。
「つまり、彼氏の家……?」
ハルキが静かに爆弾を落とす。
「ち、違いますよ!?」
月島先生が少し慌てたように笑って否定したけれど、
そのテンポが、どこか“演技っぽく”聞こえた。
(うちって、どっちの“うち”なの……!?)
胸に貼り付いたぬめりのような疑惑は、
そのまま、放課後まで落ちていかなかった。
──そして、物語はまだ続いていく。
「……じゃあ先生、海藻がなかったら、どうなるんですか?」
ミオの素直な問いに、月島先生はにこりと笑ってスプーンを置いた。
「それじゃあ、“海藻ってすごい!”講座、はじめちゃおうかしら?」
先生は手をひらひらさせながら、まるで朝の情報番組みたいに言った。
「では、その1! 海藻は、地球の呼吸器なんです!」
「さっきも言ったけどね──地球の酸素の半分以上は、海の中の光合成生物が作ってるの」
「半分以上……ってマジなの……?」ケンタが絶望の表情でのけぞる。
「マジです。そしてね、その中心にいるのが、実は“目に見えない藻類”や、“海藻”たち」
「じゃあさ、ワカメって……地球の空気清浄機……?」
「うん。静かに、でも確かに、“命の空気”をつくってるの。森が陸の肺なら、海藻たちは“海の森の肺”ね」
そのたとえに、ミオの目がすっと見開かれた。
ケンタも「……肺って、そんな大事なやつなのか、ワカメ……」とぽつり。
ハルキは味噌汁を見つめながら、ただ小さく「……納得」とつぶやいた。
湯気の向こうでふわふわと揺れるワカメが、まるで海のなかで呼吸しているように見えた。
その言葉に、ミオたちはしばし黙ったまま、味噌汁の湯気越しに浮かぶワカメをじっと見つめた。
「……そんなすごいやつだったのか、ワカメ……」とケンタがぽつりとつぶやき、
「思ってたより、ずっと大きな存在だったんだね」とミオが静かに言った。
ワカメのぬめりが、なぜか、誇らしく見えてきた。
ミオは湯気の向こうに浮かぶワカメを、そっと見つめた。
「そんな顔してるように見えないけどね……」ケンタがワカメを持ち上げ、じっと見つめる。
「でも、すごいよな。たぶんそのうち、宇宙にも持ってかれるね、ワカメ」
「じゃあ、次! その2! 海藻は、生き物たちの“命の基地”です」
先生はご飯の最後のひと粒を口に運びながら続けた。
「たとえば──ホンダワラっていう海藻の森には、メバルやアジの赤ちゃんが隠れているの。大きな魚から逃げるためにね」
「うわ、それちょっとロマンある」ハルキが目を細める。
ミオは思わず海の景色を想像して、遠くを見つめた。
──小さな魚たちが、ゆらゆら揺れる海藻の森の中で、必死に生き延びようとしている姿が浮かぶ。
「……いいな、そういうの」ミオがぽつりとつぶやいた。
「他にもね、アオサやウミトラノオっていう海藻には、ハゼやメダカが卵を産みつけたりするの」
「つまり、“海の保育所”と“ゆりかご”が、海藻ってことか……」ミオがまとめた。
「うん。ぬめりの下に、命があるの」
「そして──その3! 実は“ぬめり”から、食卓も、医療も、はじまってるんです!」
「えっ、ぬめりで!? それって、食べてる魚とかにも?」ケンタが半信半疑で聞き返す。
「うん。海藻の表面には“珪藻”や“バクテリア”がびっしりいてね、それを小さなエビやカイアシが食べて、それをまた魚が食べて……それが回り回って、わたしたちのごはんに届くの」
「じゃあ、お寿司だけじゃなくて──焼き魚も、干物も、学校の給食も?」
「ぜんぶ、ぬめりの恩恵を受けてるのよ」
「ぬめり、すげえ……」ケンタがしみじみとつぶやいた。
「医療ってのは……?」ハルキが首を傾げる。
「アルギン酸っていう成分、聞いたことある?」
「……あ、なんかゼリーっぽいやつ?」
「そうそう。あれは海藻から取れるの。湿布やカプセル、お菓子、歯磨き粉、いろんなところで使われてる」
「ぬるぬる、万能……」
「まさにゴールドラッシュ」ハルキがぽつりとつぶやく。
「なにそれ?」ケンタが身を乗り出す。
「ゴールドラッシュ。昔、アメリカで金が見つかって、
人々が殺到して掘りまくった時代のこと。“資源とチャンス”が集中してる状態って意味で使われるんだよ」
「ふふ……ミオさんは、ほんとによく勉強してますね」
給食が終わり、片づけが始まるころ。
ミオは、ずっと気になっていたことを聞いた。
「先生って……教授のこと、昔から知ってるんですか?」
その瞬間、空気が──ぴたり、と止まった気がした。
「なんか、仲が良いというか……昔からの知り合いのような……」
「この前も、教授が月島先生の下の名前、呼びかけてたし……」
「紅茶じゃなくて、ハーブティー飲んでたのも……」
「──おい、ミオ」
ハルキが低い声で止めた。
「っ、ごめんなさい……勝手に、失礼なことを……」
ケンタもハルキも黙り込む。
ミオは、そっと先生を見上げた。
月島先生は、やわらかく笑っていた。
「そうですねぇ……知っている、というか……」
先生は、ほんの少し微笑んだ。
「昔、お世話になっていた人なんです。研究のことも、海のことも、たくさん教えてもらいました」
──その言い方には、“今でも大切にしている”という響きが、どこか残っていた。
続けるようにして、視線を少しだけ落とし、ゆっくりと上げ直す。
「いまはもう、“先生”ですからね。ミオさんたちにとっても──わたしにとっても」
その言葉のあと、ミオは一瞬、胸の奥にざわめくものを感じた。
まるで、月島先生の声が“今は”という言葉にすがっているように聞こえたからだ。
──“昔は違った”、そんな意味が、そこに隠れているような気がした。
その言葉には、ほんの小さな間があった。
言葉の区切りが妙に丁寧で、整いすぎている気がした。
まるで、言葉の端々に、“語らない何か”を包み隠しているかのように。
そしてその声の奥には──遠くを見つめるような一瞬のまなざしがあった。
“先生”であることに線を引こうとするその姿は、どこか、過去に置いてきた誰かを意識しているようでもあった。
(……え、じゃあやっぱり……)
ミオは言葉にならない驚きを胸に抱えながら、その余韻を静かに見送った。
「はいっ、それじゃあ──」
月島先生は明るい声で立ち上がる。
「そろそろ、お盆を返しに行きましょうか!」
でも誰も、すぐには立ち上がれなかった。
ミオの胸に、ぬめりのようなざわめきが残っていた。
──先生は、なにかをごまかした。気がする。
けれど、やさしさで塗り固められたその姿が、少しだけ寂しそうにも見えた。
放課後。ミオはラボに立ち寄っていた。
「さんごちゃん、今日も静かだね」
ガラス瓶の中、白い雫のようなサンゴのかけら。
“SH-03”のラベルが貼られたそれは、
何も語らず、ただそこにあった。
でも、ミオは知っている。
このサンゴは、時々──ふわりと光ることがある。
まるで、誰かの気持ちにだけ、そっと反応するように。
そのとき、
ミオの手が、ほんの少しだけ温かくなった。
瓶の奥で、さんごちゃんが。
ほんの一瞬だけ、かすかに、かすかに──
青白く、光ったような気がした。
「……聞こえた?」
ミオはそうつぶやき、目を閉じた。
教室では語られなかった“なにか”が、
今日もまた、静かに──
ラボの空気の中に、沈んでいく。
──そして物語は、まだ続いていく。
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