Sea:18 黒い海と、青い海──それぞれの物語。

ラボには、ほんのり潮の香りが漂っていた。


春の日差しが、ガラス越しにやわらかく差し込み、

床に小さな光の粒を作っている。


子どもたちは、思い思いにテーブルや床に座り込んで、

海の写真集を広げ、わいわいと盛り上がっていた。


そんな賑やかな空間に、

汐ノ宮教授が、湯気のたつ紅茶を片手にやってきた。


ラボに潮の香りを残したまま、

いつも通り紅茶に湯気をたたせて。


手にカップを持ちながら、

子どもたちの様子を静かに見守る。


(あ……いつもの香りがする)


ミオは、ふわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。

なんでもない、でも確かに、ここにある時間。



「見て見て! 沖縄の海、めっちゃ透明じゃん!」

ケンタが写真集を指さして叫んだ。


「わあ、ホントだ……海の底が見えるよ!」

ミオも顔を寄せる。


「エメラルドグリーン……これ、本物……?」

ハルキが小さくつぶやき、ページをめくる手を止めた。


青。

緑。

光を反射して、まるで宝石みたいにきらめく水面。


みんな、食い入るように見つめた。



ふと、ハルキが顔を上げた。


「……ねえ」


ミオとケンタが顔を向ける。


「うちらの海って、黒くない? ……汚れてるのかな」


その一言に、ラボの空気がふっと静まった。



「えっ……オレ、めっちゃ泳ぎながら海の水飲んでるんだけど……」


ケンタが真顔で言い出した。


「きったねえ……ってこと!? 汗」

「通りでしょっぱいと思ったんだよな……」


ぽかんとした空気のあと、

次の瞬間、ラボは大爆笑に包まれた。


「バカだな! 海水はもともとしょっぱいんだよ!」

「いや、でもケンタの飲み方は雑すぎるって!」

「それ飲み物じゃないから!!」


子どもたちの突っ込みと笑いが、

春のラボいっぱいに広がった。



そんな中、教授が穏やかな声で言った。


「違うんだよ」


子どもたちの笑い声が、すっと収まる。


教授は、テーブルにカップを置きながら、

ゆっくりと話し始めた。



教授は、少しだけカップを揺らして、

穏やかな声で語り出した。


「沖縄みたいな透明な海は、たしかにきれいだよね。

青く澄んで、まるで宝石みたいに見える」


子どもたちは、ふむふむと頷く。


「でも、海の“きれいさ”って、単に美しさだけじゃないんだ。

海には“栄養”というものがあって──

それが多いか少ないかで、そこに生きる命の形も変わってくる」


ミオが、少し首をかしげた。


「沖縄の周りには、黒潮っていう、とてもきれいな海流が流れている。

その水は澄んでいて、栄養はあまり多くないんだ。

だから、プランクトンも少なくて、海水が透明に見える」


「そのかわりに、カラフルで小さな魚たち──

グルクンやスズメダイ、チョウチョウウオみたいな魚が、

珊瑚礁の間を泳いでいる。

小さな命たちが、光の中できらきらしているんだ」


ケンタが「へぇー」と声をあげる。


「一方で、この町の海──

森や川からたっぷり栄養が流れ込む海は、

水は少し黒っぽく見えるけど、

その分、命がとても豊かなんだ」


「アサリ、ハマグリ、シジミ──

それから、アオリイカやサザエ、カキ。

これらは、沖縄のあたたかくて栄養が少ない海では、なかなか育たない」


「沖縄にもアオリイカはいるけど、

こっちみたいに立派な大きさにはなりにくい。

栄養たっぷりの、豊かな海だからこそ、

大きな貝やイカが育つんだ」


ミオが、はっとしたように顔を上げる。


「だから、君たちが潮干狩りで獲ったアサリも、

今日のお味噌汁のシジミも、

スーパーで見かけるカキも──

この海が育ててくれた命なんだよ」


教授は、紅茶に口をつけながら、

やわらかく微笑んだ。


「どちらが上で、どちらが下ということじゃない。

透明な海にも、生き物たちのきらめく世界がある。

栄養たっぷりの海にも、豊かな恵みの世界がある」


「海ってね、見た目だけじゃ、わからないんだ」



ラボには、静かな春の光が満ちていた。


潮の匂いを乗せた風が、そっとカーテンを揺らす。


ミオは、そっと窓の外を見上げた。


空は、どこまでも青く、高かった。


波間にきらめく光。

空と海が、境目もなく溶け合っている。



(……海と空、やっぱり、つながってるみたいだなぁ)


胸の奥が、ふわりと温かくなる。


沖縄の透明な海も、

伊豆のエメラルドグリーンも、

この町の黒く深い海も──


全部、同じ、海。


それぞれが、それぞれの場所で、

生きている。



子どもたちの笑い声を背中に、

汐ノ宮教授は、カップを軽く傾けた。


潮風に乗った紅茶の香りが、

やわらかく、ラボを包んでいる。


(ま、他にもいろんな色の海があるんだけどね)


(それは──また、いつか)


湯気の向こう、

まだ見ぬたくさんの海たちの気配が、

静かに、やさしく、漂っていた。

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