Sea:16 音でつながる、海のサイン|耳じゃなく、心で聞く世界。
遠足で潮干狩りを終えたばかりの子どもたちは、まだどこか、砂浜のにおいをまとっている。
展示水槽の前に集まったミオ、ケンタ、ハルキ。
潮干狩りの感想をわいわいと語りながら、ホタテの水槽をのぞき込んでいた。
「ねえ、やっぱホタテの目ってすごかったよね!」
ミオが指をさして言う。
「100個も目があったら、オレ、絶対テストでカンニングしないわ」
ケンタが両手を広げておどける。
「……それ、使い方間違ってる」
ハルキが小さく突っ込んだ。
ミオは笑いながら水槽に目を戻す。
「でもさ、光が見えるってだけでもすごいのに……他にも、変な能力持ってる生き物って、いるのかな?」
「うん、絶対いるよ!」
ケンタがノリノリで答える。
ハルキがちらりと、奥でカップを傾ける教授を見た。
「……たぶん、知ってると思う」
その視線に気づいて、ミオもそっと声をかける。
「ねえ教授、なんか他にも、すごい生き物いる?」
そのとき。
ふっと湯気が立ちのぼるカップを置き、
汐ノ宮教授が、白衣のままゆっくりこちらへ歩いてきた。
(あれ?)
ミオは、ほんのり漂う香りに首をかしげる。
いつもなら、アールグレイのさわやかな匂いがするはずなのに──
今日に限って、違った。
草のような、花のような──やわらかな香り。
知らないけれど、どこか懐かしい匂い。
「……ハーブティー?」
ミオがぽつりとつぶやくと、教授がカップを持ち上げ、軽く笑った。
「ん。今日はちょっと、ね」
「どうしたの?」
「別に。なんでもないよ」
ふっと微笑んで、カップを傾ける教授。
その仕草に、普段とは違う、わずかな“隙間”が見えた気がした。
(……なんだろう)
ミオは、胸の奥に小さな違和感をしまい込む。
何も聞かずに、ただ、忘れずに覚えておく。
──外では、潮騒が静かに鳴っていた。
そんな空気を振り払うように、教授が声を弾ませた。
「──じゃあ、クイズだ」
「えっ、また急に!」
ケンタがびくっとする。
教授はにやりと笑う。
「光を集める生き物がいるなら……音を集める生き物も、いるでしょーか?」
ミオとケンタとハルキは、一斉に顔を見合わせる。
「えっ、音!?」「耳ないのに?」「マジで?」
「もう……教授!またもったいぶって!……いるんだよね?」
ミオが口を尖らせて、ちょっと不安げに見上げる。
教授はおかしそうに笑いながら、窓の外の青い海を見た。
「いるよ。音を感じて、仲間と生きる。
光でも、音でも、必要なのは──“世界とつながる”ためなんだ」
潮の香りを含んだ春風が、またふわりと吹き込んできた。
ミオは、教授の言葉と、知らないハーブの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、
まだ知らない海の不思議へと、心を向けた。
「音って、耳とかじゃないの?」
ケンタが首をかしげる。
「魚に耳……なんか変な感じ」
ミオも小さく笑う。
教授は、手元のカップをテーブルに置きながら、ゆっくりと話し始めた。
「魚にはね、人間みたいな耳はない。だけど──音を“感じる”力は、ちゃんと持ってるんだ」
「感じる……?」
教授は指を立てて、ラボの壁を軽く“コンコン”と叩いた。
すると、展示水槽の中の小さな魚たちが、びくりと身をよじった。
「魚たちは、音そのものを聞いてるんじゃない。
音が生み出す、水の振動や流れの変化を“肌で感じる”んだ」
「肌で感じる……」
ミオがぽつりとつぶやいた。
教授は微笑みながら、展示台の下から浅い透明なタライを引き出した。
「──じゃあ、ちょっと、実験してみようか」
ミオたちは、わっとタライに集まった。
タライには、すでに静かに水が張られている。
教授は、小さな棒を手に取り、水面をコンッと叩いた。
その瞬間、水面に置いてあった紙片が、ぽんっと跳ねるように揺れた。
「わっ!」
「すっごい、広がった!」
ミオとケンタが目を丸くする。
「今度は弱く叩いてみよう」
教授がそっと水面を叩くと、
今度は、静かに、細かな波紋がピリピリと広がった。
「わ……音の強さで、伝わり方も違うんだ……!」
ミオがぐっと顔を近づけた。
教授は、波紋を見つめながら、やさしく言った。
「水の中では、音は空気の4〜5倍の速さで伝わる。
だから、ほんの小さな変化でも、すぐに仲間に伝わるんだ」
ハルキが、じっと水面を見つめたまま、静かに言った。
「……音って、目に見えないサインみたいだね」
教授はうなずいた。
「うん。
そして魚たちは──耳がなくても、そのサインを全身で感じ取ることができるんだ」
ミオが首をかしげる。
「でも、それだけで仲間とか、敵とか、わかるの?」
教授はにっこり笑った。
「いいところに気づいたね」
教授はスケッチボードを取り出し、魚の体に沿った線をさらさらと描いた。
「魚の体には、こうして“小さな穴”が並んでる。
これが、**側線(そくせん)**っていう、目に見えない耳みたいなセンサーだ」
ケンタがぐっと顔を近づける。
「センサー?」
「そう。
水の流れや振動を、直接体で感じ取る。
でもね──側線は、“感じるだけ”なんだ」
教授は、そっと指を立てて続けた。
「魚たちは、振動の違和感を感じ取ることはできる。
でも、それだけじゃ、仲間か敵かは判断できない」
「えっ、じゃあどうすんの?」
ケンタが身を乗り出す。
教授は、展示水槽を見ながら言った。
「──目も使うんだよ。
群れの仲間は、みんな同じリズムで動いている。
そこに変な動き、バラバラな流れを作るやつがいたら──目と体の両方で、すぐに気づくんだ」
ミオが目を丸くした。
「振動で感じて、目で確かめる……」
「うん」
教授はにっこり微笑んだ。
「だからこそ、海の中で、言葉もないのに。
──一緒に、世界を読んで、動いてる」
ハルキがぽつりとつぶやく。
「……体全部で、世界を読んでるんだ」
ミオは、水面に広がる小さな波紋を見つめながら、心に刻むようにうなずいた。
教授は、ふっと顔を上げ、続ける。
「──イワシたちも、そうして生きている」
ミオたちの視線が集まる。
「数万匹のイワシたちは、体の側線で振動を感じ、
目で仲間の動きを読み取りながら──まるでひとつの生き物みたいに動く」
「秘密基地みたいだな!」
ケンタが笑う。
教授も少し笑ってから、静かに続けた。
「でも──群れていても、絶対に安全ってわけじゃない」
教授は、展示棚に置かれたベイトボールの模型を指差す。
「敵に囲まれると、イワシたちはぎゅっと丸くなって、“ベイトボール”を作る。
でもそこに、サメやイルカ、海鳥たちが──三方向から一斉に襲いかかる」
ミオは、胸がぎゅっとなるのを感じた。
「……いろんな魚に狙われるなんて怖いね」
「うん。それでも
怖くても、不安でも──
群れなきゃ、生きられないから」
教授は、少し表情をやわらげた。
「イワシっていう名前もね、“弱し”からきてると言われてる。
少しの衝撃でも、群れ全体が崩れることもあるくらい、繊細な生き物なんだ」
「海の中で生きる……めっちゃたいへんだな……」
ケンタが小声でつぶやく。
教授は、タライの波紋を見つめながら、やさしく言った。
「だからこそ──
一緒にいるんだ。
怖くても、弱くても。
それでも、つながって、支えあって、世界を生き抜こうとする」
ミオは、小さな声でつぶやいた。
「……怖くても、手を離さないんだ」
教授は、そっと微笑んだ。
「“和を以て貴しとなす”。
争うより、助け合うほうが、ずっと強い。
小さな命たちは、それを、命がけで教えてくれているんだよ」
潮騒の音が、窓の外から、静かに流れ込んできた。
──水面に広がる小さな波のように。
今日も、誰かが、誰かと、つながっている。
────────────
潮の香りを乗せた春風が、静かにラボを抜けていく。
タライに広がった波紋も、もうゆっくりと消えていた。
ミオはノートを広げ、今日の学びを書き留める。
《今日のノート》
魚には耳がないけど、側線というセンサーで水の振動を感じる。
音だけじゃなく、目で仲間を見分け、群れを守る。
つながることで、弱くても生き抜いている。
(感じること、信じること、手を伸ばすこと──
それが、生きるってことなんだ)
ペンを置いたミオは、そっと顔を上げた。
誰もいないラボの隅。
棚の上のガラス瓶「SH-03」。
その中の、小さな白いサンゴが──
ふわりと、青白く光った。
誰も見ていない場所で、
誰にも気づかれない静かな場所で。
小さな命も、大きな海も。
今日も、どこかで──
そっと、つながっている。
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