Sea:13 透明な血と、炭火の匂い|小さな光を抱えて帰る日。
海のあそびラボに、にぎやかな声が響いた。
「ジャジャーン!!!」
クーラーボックスを抱えて、ケンタがドヤ顔で登場した。
「親戚のおじさんがイカ釣りまくったからって、くれたんだ!
今日はイカパーティだああああ!!!!!」
ハルキも目を丸くする。
「うおお……マジで?」
クーラーボックスのふたを開けると、
ぎっしりと詰まった新鮮なイカたちがぬらりと光った。
ミオはちょっと引き気味に笑った。
「これ……何匹あるの……?」
「数えたら負けだ!」
ケンタが親指を立てる。
そこへ、ふわっと現れたのは汐ノ宮教授。
「おやおや、楽しそうだね。……よし、手伝おうか」
教授はさっそくエプロンを装着すると、
手際よくイカを捌き始めた。
包丁を構える動きに無駄がなく、
シュパッ、シュパッと、軽やかにイカの身が裂けていく。
ミオとケンタが「すげー!」と拍手している隣で──
ハルキが、ぼそりとつぶやいた。
「……よく、あんなにメガネ曇ってんのに捌けるな」
ミオがぷっと吹き出す。
ケンタも、「それな!!!」とツボに入り、
笑いながら腹を抱えた。
教授は、まったく気にした様子もなく、
曇ったメガネ越しに、次のイカをスパスパと華麗に捌き続けていた。
「……なんか、逆にすごい」
ハルキがぽつりと呟いたのに、
ミオとケンタはさらに笑い転げた。
教授がガスコンロと浜焼きセットを準備しはじめたところで──
「ふふっ、じゃあ、わたしもっ!」
ミオがひょいとエプロンを手に取り、
小さな体でキビキビと動き出した。
「教授っ!冷蔵庫の中のもの使っていい??」
「お?ミオちゃん?良いけども……
焼きそばと調味料くらいしか──」
教授の言葉を最後まで聞かないうちに、
ミオはフライパンに火を入れていた。
カンカン、とリズミカルな音が響く。
その合間、
ミオは教授が捌いたばかりのイカに、
包丁で細かく切れ目を入れはじめた。
「なにしてんだ、ミオ?」
ケンタが不思議そうにのぞきこむ。
「ちょっとだけ、コツだよー」
ミオはいたずらっぽく笑いながら、
イカの表面にさらさらと小さな傷をつけていく。
それから、取り出した調味料を、
イカにぱぱっと絡める。
バター、醤油、そして──ほんのひとさじのみりん。
手際よく、
でもなんだか楽しそうにミオは動いていた。
ハルキがぽつりとつぶやく。
「……プロかよ」
ケンタも苦笑いするしかなかった。
バターがじわりと溶け出し、
炭火の香りと混ざりながら、ラボに食欲をそそる匂いが広がった。
まずは「イカのバター醤油炒め」。
きつね色に焼き上がったイカが、ジュウジュウと音を立てて跳ねる。
次に、炭火コンロでじっくりと「イカの丸焼き」。
表面にほどよい焼き目がつき、
甘い香りがふわりと空間を満たした。
さらに、茹でた焼きそばにイカをたっぷり混ぜ、
「イカ焼きそば」まで完成させた。
「ミオもすげええええ!!!!!」
ケンタが叫ぶ。
「料理番長……!」
ハルキがぽつりとつぶやく。
教授も目を見張った。
「ミオちゃん、すごいね!」
ミオはにっこり笑った。
「お母さんのお手伝いで、よくやるの!
お姉ちゃんと一緒に!」
ラボの空気は、炭火とバターと焼きイカの香りでいっぱいになり、
まるで夏祭りの屋台みたいだった。
教授も思わず、焼きたてのイカをひとつつまんで頬張る。
「うまっ」
その素直な声に、ミオはちょっと誇らしげに笑った。
わいわいと皿に盛られたイカ料理を囲み、
子どもたちはわちゃわちゃと食べ始めた。
ケンタがイカ焼きをかじりながら、叫ぶ。
「これ、優勝だろ!!!」
「味覚チャンピオンだな」
ハルキも真顔でうなずく。
ミオはそんなふたりを見て笑いながら、
ふと手元のノートを取り出した。
「そういえば……イカって、ちゃんと調べたことないなぁ」
興味の火が、ぽっと灯った。
ミオは立ち上がり、
ラボの一角にある図鑑棚へと向かった。
背伸びして分厚い図鑑を引き出し、
ぱらぱらとページをめくる。
──そこで、手が止まった。
《酸素を運ぶヘモシアニンにより、血液は青色を呈する。》
イカの体内図の横に、小さな説明文が添えられていた。
「……あれ?」
ミオが眉をひそめる。
「イカの血って、青い……?」
ケンタがのぞき込む。
「うそだろ!? さっき教授が捌いてたとき、
そんなの見えなかったぞ!?」
ハルキも眉をひそめる。
「っていうか、血自体、あんまり出てなかったような……」
ミオ、ケンタ、ハルキ。
三人は顔を見合わせたまま、
ぽかんと固まった。
「どうしたの?」
タブレットを片手に、汐ノ宮教授が、
いつもの柔らかい笑みを浮かべて近づいてきた。
図鑑を見つめていたミオたちは、顔を上げた。
「ねえ教授、イカの血って……本当に青いの?」
ミオの問いかけに、教授は軽く頷いた。
「うん、本当に青いよ」
ミオたちは、わぁっと声を上げる。
でも教授は、続けた。
「ただ──
実は肉眼で見るのは、けっこう難しいんだ」
ミオたちの目が、ぱちぱちと瞬く。
「イカやタコの血は、“ヘモシアニン”っていう銅を含んだ成分で、
酸素を運んでいるんだ。
でもね、血管は細いし、色もすごく淡いから、
普通に見たら透明に近く見えちゃう」
「スーパーのイカとか、捌いたばかりのイカも──
もう酸素を運ぶ必要がなくなってるから、
青い血は、ほとんど見えないんだよ」
「……なるほど」
ハルキが納得したようにうなずく。
ケンタは、イカ焼きそばを口に運びながら呟いた。
「そりゃ見えねぇわけだ……」
ミオも、図鑑のページをそっとなでた。
(それでも、確かに──この体のなかに、青い血が流れていたんだ)
そんな空気を感じ取ったかのように、
教授はタブレットを操作した。
「じゃあ、これを見せてあげようか」
画面に映し出されたのは、
水槽の中をゆったり泳ぐ、透明なイカの映像だった。
ミオたちは、夢中で画面をのぞき込む。
透き通った体のなかを、
かすかに青白い筋が走っている。
それが、イカの命を支える、酸素の道だった。
「わあ……」
ミオが思わず息を呑む。
「……ほんとに青い……」
ハルキがぽつりと言った。
ケンタも顔を近づける。
「これ……血、なのか……すげぇ……」
画面のなかで、
イカが水槽のなかをゆったりと泳いでいた。
やがて、誰かの手によって、
そっと水槽の外へ取り出される。
イカは少しだけ体をくねらせ──
そして、静かに動きを止めた。
そこから映像は、
静かに、けれど確かに時間を進めた。
ほんの少しずつ、
青白く光っていた筋が──
透明に、溶けるように、消えていく。
ミオたちは、
息をのむようにして、その変化を見つめていた。
教授が、やさしく言った。
「生きている間だけ、
命の色は、そこにあるんだよ」
「……さて」
タブレットをパタンと閉じる。
「お腹もいっぱいだし、いい映像も見たし──」
「そろそろ、ラボでも“小さな実験”してみようか」
ミオたちが、一斉に顔を輝かせた。
「やりたいやりたいやりたいっ!!!」
「実験!! 超やりたい!!!」
「ぼくも……ちょっと興味ある……!」
教授は軽く笑って、
棚のほうを指さした。
「ちょっと準備するから、
少し待っててね」
ミオたちは、わくわくしながら、
試験台のそばにぺたんと座り込んだ。
ケンタが背中を伸ばして、ふぅ〜と息をつく。
「それにしてもさ……今日すごかったな。ミオの料理、ガチだったぞ」
「うん。バター醤油のやつ、ヤバかった」
ハルキが真顔でうなずく。
「ふふん、ありがと」
ミオがちょっと得意そうに笑った。
「でもさ、途中でなんかしてたよな? 包丁でイカ突いてたっていうか……あれ何してたの?」
ハルキが思い出したように聞くと、
ケンタも「あ、それ気になってた!」と身を乗り出す。
ミオは、ちょっと照れた顔で答えた。
「イカってさ、火を通しすぎると固くなるから、
焼く前に細かく切れ目入れておくと、柔らかくなるんだって。
あと、バターの前にちょっとだけみりんで下味つけたら、
甘みと香ばしさが出るって──お姉ちゃんが教えてくれたの」
「……料理番長じゃん」
ハルキがぽつりと言う。
「なんだそれ、すごいな……」
ケンタが感心しつつ、でも悔しそうにつぶやく。
「オレ、昨日レンチン失敗してごはんカチカチになったわ……」
ミオとハルキが笑い転げた。
その笑い声のなか、
教授が器具の準備を終えて戻ってきた。
「さあ、始めようか。
目に見えない“命の色”、
ちょっとだけ覗いてみよう」
「「「はーい!!」」」
ラボの空気が、
またわくわくの温度に包まれた。
実験は、銅の成分を含んだ液体と、酸素に反応する試薬を組み合わせるものだった。
無色だった溶液が、
数滴の変化で、じわりと青みを帯びていく。
「……おおっ」
ケンタが身を乗り出す。
「これが……命の色?」
ミオがそっとつぶやく。
教授がうなずいた。
「イカも、タコも──
銅で酸素を運んでる。
その色の変化を、こうして“まね”することはできるんだ」
「じゃあ、他にも青い血の生き物っているの?」
ミオが質問する。
すると、ケンタが手を上げた。
「オレ知ってる! カブトガニ!!
この前水族館の人が言ってた!」
教授がうれしそうに目を細めた。
「よく知ってるね。そう、カブトガニの血も青いんだ。
それも、ただ青いだけじゃなくて──
細菌の毒素を見分ける力がある。
医療の現場では、その血でワクチンの安全性をチェックするんだよ」
「なにそれ、ヒーローやん」
ケンタが感動して目を輝かせる。
「めちゃくちゃ献血してるじゃん」
ハルキが冷静につぶやく。
教授はくすりと笑って、
タブレットを操作し、別の映像を出した。
「そして、こちらがオオグソクムシ」
画面に映ったのは、巨大なダンゴムシのような生物だった。
「深海に住んでいて、
なんと、五年間、何も食べずに生き延びた記録があるんだ」
「無理だろ!?」
ケンタが即ツッコむ。
「オレ、五時間で死ぬ……」
ミオが笑いながらうなだれる。
「給食前は三時間でキツイ」
ハルキが真顔で言って、
三人は爆笑した。
ラボには、
春の光と、炭火の香り、
そして笑い声が、ふわりと広がっていった。
片づけがひと段落ついたころ。
ラボの冷蔵庫を開けながら、教授がぽつりと言った。
「そういえば、今日はイカ尽くしだったねぇ」
「……じつは、僕からも、ちょっとした“イカのお裾分け”があるんだ」
「えっ!? まだあんの!?」
ケンタが目をまんまるくする。
「冷凍庫にね、ホタルイカを少しだけストックしておいたんだ。
こないだ、学生時代の後輩が送ってくれてね。
“食べきれないので、教授に押しつけます”って手紙つきで届いたんだよ」
ミオたちが笑う。
「せっかくだから、みんなにもお土産で持っていってもらおうかなって。
今日もいっぱい学んだし、よく食べたし──
ちょっとだけ、光るイカの思い出も残して帰ってくれたら嬉しいなって」
「……ホタルイカって、ほんとに光るの?」
ミオが聞く。
教授はうなずいた。
「うん。
深海で、自分の身を守るために──
青く光る小さな命だよ。
また季節が来たら、みんなで実験してみよう」
「……教授、それ最高」
「それな」
ハルキが小さくうなずく。
ミオは、渡されたお裾分けの袋を両手で大事そうに抱えて、
にっこり笑った。
──今日もまた、海の秘密を知った。
そして、小さな光も、持ち帰ることができた。
それだけで、なんだか少し、大人になれた気がした。
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