Sea:09 ウミガメはGPSがいらない|見えない地図と“帰る力”

「また迷ったのか?」


夜の浜辺。懐中電灯の光が砂を照らし、波の音だけが確かな道標のように響いている。


ミオとハルキ、それに汐ノ宮(しおのみや)先生の三人は、浜辺の観察からの帰り道、少しばかり迷っていた。


「“迷うが道”ってやつか……」と、ハルキがぼそっと言う。


「ことわざ? それ」


「うん、うちの国語の先生がよく言ってた。迷ったからって全部がムダじゃないって意味だってさ」


「ふふ、いいねそれ」


ミオは、海のにおいが混ざった風に髪を揺らしながら、目を細めた。少し先を歩く汐ノ宮先生は、ポケットから小さな羅針盤を取り出してくるくると回していた。


「ウミガメは迷わないんだよ」


「いきなり何の話ですか、先生」


「いやさっきさ、あの産卵を見たろ? あのウミガメ、生まれた浜に戻ってきてたんだよ」


「え!? ここに?」


「そう。何千キロも泳いで、帰ってくる。何年もかけてだ。GPSも地図もスマホもなしでな」


「うそでしょ。どうやって?」


先生は足を止めて、静かに砂の上に地球の絵を描いた。


「“地磁気”を覚えてるんだよ。地球が持ってる、目には見えない磁石の力。それが場所ごとに微妙に違ってる。それを、生まれたときに体が記憶してるんだ」


「磁石って……方位磁針とかの、あの?」


「そう。実験もされてるよ。人工的に違う磁場を再現した水槽にウミガメを入れたら、実際にその方向に泳ぎだしたっていうデータもある」


ミオが目を見開いた。


「まるで、地球に組み込まれた“見えない地図”みたい」


「体内GPSってやつか……」ハルキがつぶやく。


先生はニヤリと笑った。


「それを人間が知ったのは、ずっとあとだ。最初に磁石が見つかったのは、紀元前の中国だ。漢の時代、天然の磁石“磁鉄鉱”が発見され、そこから『司南(しなん)』っていう、今で言うコンパスの原型ができた」


「それって、最初から“北を指す”って分かってたんですか?」


「いや、全然。みんな『なんか変な石がある』って程度だよ。そこからイスラム商人たちを経由して、ヨーロッパに伝わって――」


「航海の時代ですね?」


「そう。だけどね、当時の人たちも“なぜ針が北を向くか”までは分かってなかった。『空に浮かぶ星の力だ』とか『北極に巨大な磁石山がある』とか、いろんな説があった」


「めちゃくちゃファンタジー……」


「それを変えたのが、1600年にイギリスの医者、ウィリアム・ギルバートが出した『De Magnete(磁石論)』。彼が“地球そのものが巨大な磁石だ”って仮説を立てた。地球儀みたいな模型――“テルレラ”ってやつで磁針の動きを再現して証明してみせた」


「医者がそんなことを?」


「昔の学者は何でも屋だったんだよ。彼の研究が、地磁気の概念のはじまりだ」


ミオが海を見ながら、ぽつりとつぶやいた。


「人間は“迷って”、その力を見つけたんですね」


「そう。迷ったからこそ、考えた。考えたからこそ、見つけた」


「でもウミガメは、ずっと前から、それを“感じてた”んだ」


「うん。彼らには、何かを“知っている”ってより、“忘れない”って感覚に近い気がする」


潮の音が静かに耳に届く。


ハルキが笑った。


「でも俺、小学校のときデパートで迷子になったけど、全然“地磁気”感じられなかったな」


「それはね、きっとお菓子コーナーの“甘気”の方に引き寄せられてたんだよ」


「どんな磁力だよ!」


三人が笑う。


「でも、“帰れる場所”があるって、いいですね」


「そうだな。だからこそ、人は旅に出られる」


先生が言った。


「磁場は目に見えない。でも、そこにある。

 潮の音も、見えないけど、そこにある。

 “帰れる”って思えることは、もしかしたら“信じてる”ってことなんだ」


ミオが小さくうなずいた。


「信じてるから、迷っても大丈夫。……そんな気がします」


三人の足跡は、波に消えながらも、確かに未来へと続いていた。

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