Sea:08 海底に湖があるって本当?|サンダルはどこへ消えた
波打ち際で、ケンタの声が響いた。
「うわーっ、ない!サンダルがない!俺の右足だけハダシ生活だーっ!」
バシャバシャと海を駆け回るケンタを見ながら、ミオは小さく笑った。
ハルキは呆れたように砂浜に腰を下ろす。
「またかよ。毎年サンダル流されてるの、学習しないのお前くらいだぞ」
「流されたんじゃないって!これはきっと――海に飲まれたんだよ!」
「それを流されたって言うんだよ、バカ」
軽いやりとりのなかで、ミオはふと、海の先を見つめた。
夏の光が反射して、どこまでも青く、どこまでも続いていく。
「ねえ、知ってる?海の中にも、湖みたいな場所があるんだって」
「……は?」とハルキとケンタが同時に振り返る。
「海の中に湖?海って、ぜんぶ海じゃないの?」
「でも本当にあるんだって。“ブラインプール”っていう、海底にできた塩の湖」
ハルキがスマホを取り出し、さっそく検索し始めた。
ケンタはというと、片足だけのサンダルで器用に跳ねながらミオの隣に座る。
「海の底に湖って……どういうこと?浮かばないっていうか、想像できないんだけど」
* * *
「おっ、面白い話してるね」
砂浜に涼しげな声が響く。いつものように、白衣をまくり上げて素足の教授が歩いてきた。
丸メガネは今日も見事に曇っている。
「それはね、“ブラインプール”と呼ばれる場所だよ。直訳すると“塩水の池”。海底の中にできる塩の湖なんだ」
「ほんとに湖なの?水の中に、また水があるのっておかしくない?」
「正確には“海水よりも塩分濃度が異常に高い水のかたまり”でね。
密度が高すぎて、通常の海水と混ざらず、境界がくっきり分かれてる。まるで湖面みたいに見えることもある」
「そんなの、見たことない!」
「見るのは難しいよ。深海だからね。でも、ダイバーが“水の中に落ちていく”映像はある。見てごらん」
教授がスマホを取り出し、1本の動画を再生する。
画面には、深海で浮遊していたダイバーが、透明な膜のようなものに触れた瞬間――
ずぶずぶと“落ちていく”ように沈んでいく光景が映っていた。
「うわ……水の中なのに、さらに沈んでいく…!」
「これが、ブラインプールの境界だよ。科学的には“塩分躍層”、あるいは“ハロクライン”と呼ばれている。
でもね、この中に入るのは簡単じゃない。あそこは――猛毒なんだ」
* * *
「毒…!?」
ミオが思わず声を上げた。
「その中にはね、“硫化水素”っていう毒ガスが大量に含まれている。腐った卵みたいなにおいのするやつだよ。
普通の生物は、そんな場所じゃ生きられない。酸素もほとんどないしね」
「えっ、でもダイバー入ってたじゃん!?」ケンタが叫ぶ。
「もちろん、あれは特殊な装備を使って慎重に調査している。
まるで宇宙服みたいなスーツで、空気も完全に管理してる。
それに“飽和潜水”っていう技術を使って、深海の圧力にも対応しているんだ」
「う、宇宙服!?」3人は揃って目を丸くした。
「それでも人が入れないときは、**ROV(ロボット型ダイバー)**を使う。
小さな潜水艦みたいなもので、遠隔操作でサンプルを集めたり映像を撮ったりするんだ」
「海の中って、宇宙みたいなもんなんだな…」とハルキがポツリ。
教授は、ちょっとだけ目を細めて言った。
「そう。だからNASAもね、ここを“地球で宇宙に一番近い場所”って呼んでるんだよ」
そのときだった。ミオの手元の瓶――
さんごちゃんが、ふわりと青白く光を灯した。
「……っ!」
ミオは思わず瓶を見つめる。教授もそれに気づき、目を細めた。
「さんごちゃん…どうしたの?」
「まるで…思い出したみたいな顔してる」
「顔してないけどな」とハルキが冷静に突っ込んだが、ミオは瓶の中の光をじっと見つめていた。
ふと、ミオがつぶやいた。
「この景色…たぶん、初めて見るのに。
でも……なぜか、胸がギュッとする。
まるで――忘れてた何かを、思い出しそうな気がして」
誰も、言葉を返さなかった。
風の音と、波の音だけが、静かに耳をくすぐった。
* * *
「でも、でもさ!」
ケンタが急に手を挙げた。
「俺の右サンダル、波にさらわれてどっか行っちゃったけどさ…
今ごろ、左サンダルを探して旅してるんじゃないかなって思うんだよ」
「えっ…なんでそうなる?」
「だって、片方だけじゃ寂しいだろ?
ずっと一緒だったのに、バラバラにされたらさ、探しに行くのが相棒ってもんじゃん!」
「お前のサンダル、意思持ってたのか…」
「うん、だからたぶん、どこかで“あ、違うわ”って気づいて――戻ってくるんだよ!」
「すごいよ…ここまでロマン語れるの、サンダルに対してだけだよ…」
* * *
その日の午後、海岸のゴミ拾いをしていたボランティアのおじいさんが、
「これ、片っぽだけだったけど落ちてたよ」と差し出してきたのは、ケンタの右のサンダルだった。
「やっぱり!相棒を見つけられなくて、戻ってきたんだな…!」
「なんだよその、帰省みたいなテンションは」
「よし、おかえり相棒。今度は絶対、二人一緒だぞ」
ハルキ:「ただのビーチサンダルな」
ミオは小さく笑いながら、もう一度瓶を覗いた。
さんごちゃんは、もう光っていなかった。
でも、あの光の記憶は、ミオの中に確かに残っていた。
海の中には、まだ知らない“湖”がある。
見えない“結界”があり、生命の秘密があり、誰かの記憶が沈んでいる。
いつかまた、そこへたどり着ける気がした。
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