Sea:07 潮の満ち引きと月のひみつ|引かれて、揺れて、惹かれて
「ねえ、今日の海……音、大きくない?」
ケンタが窓の外を見ながら言った。
雨上がりの午後。風もないのに、ラボの前の海はざわついていた。
「たしかに……静かだけど、響いてくる感じ」
ミオが、そっと目を閉じる。
「それ、潮の音だよ」
ハルキが顔を上げた。
「たぶん今、満ち潮のピーク」
「は? なんでわかるの?」
ケンタがきょとんとする。
「この前、教授に教えてもらったんだよ。
波のリズムがゆっくりしてるときは、海がふくらんでるとき――つまり満ち潮って」
「……まじかよ。そんなの、音でわかるのか?」
「うん。波の音がゆったりしてて、でも重たい。引き潮のときは、逆に音がざらつく」
ミオが窓辺に近づいて、静かに波の音に耳を傾けた。
「……ホントだ。なんか……聞こえる。深い音」
* * *
「“遠くにあるものほど、じわっと効いてくる”。人生って、そういうもんだよ」
紅茶の香りと一緒に現れたのは、いつものようにレンズが曇った汐ノ宮教授だった。
白衣のポケットからはティーバッグの紐がぶら下がっている。
「潮の満ち引きは、月の引力の力なんだ。
地球の反対側の海まで動かすほどの、すごいやつさ」
「えっ、マジで? あんな空に浮かんでるやつが?」
「うん、事実だよ。
最初にそれを理論で説明したのは、ニュートン。りんごの人だよ」
「引力ってやつか!」
「そう。1687年、ニュートンは万有引力と一緒に、“月が海を引っぱってる”って説明したんだ。それから300年以上、ずっと観測され続けてる」
「……やべえ、そんなの知らんかった。
うちの家族全員に自慢できるぞ、これ」
教授は笑ってうなずく。
「でも、それだけじゃない。
月はね、地球にとって“見えない守り神”みたいな存在なんだよ」
* * *
「たとえば、地球の“自転軸”っていうのがあるだろ?
地球はちょっと傾いて回ってる。で、それを安定させてるのが月なんだ」
「え、それが崩れたら……?」
「季節がめちゃくちゃになってたかもしれない。
ある年は春が数日で終わり、ある年は夏に雪が降る。
生き物がまともに生きられなかったかもしれないって言われてるよ」
ミオが小さく「こわ……」とつぶやいた。
「それにね、昔の地球の1日は、たった6時間だったって説もある」
「6時間!? 寝て起きたらもう次の日やん!」
ケンタが椅子から転げ落ちそうになる。
「でも、月の引力が地球の回転にブレーキをかけて、少しずつゆっくりになって……
今の24時間になったんだ」
「……月、すげえ」
「そう。夜にそっと輝いてるだけの存在じゃない。
地球のリズムを支えてくれてる“静かな主役”なんだよ」
* * *
「でも……海の底まで、月の引力って届くの?」
ハルキが聞いた。
教授は少しだけ目を細めて言った。
「実はね、大学院のときに、潮の変化と海底の“揺れ”を同時に観測してたんだ。
そしたら、月の満ち欠けと、微細な海底の変化が一致する瞬間があってね」
「え、それって地震とかの……?」
「そこまではまだ科学的に証明されてない。
でも、僕は“海の呼吸”だと思ってる。
月に合わせて、海の底で何かが――静かに、でも確かに揺れてる」
そのとき。
ミオが、さんごちゃんの瓶に目をやる。
中で眠る小さなサンゴが、ふわりと光を灯した。
「……ねえ、さんごちゃん。
あなたも、何か感じてるの?」
瓶の中の光が、波のように揺れた。
「うわ……また光った」
ケンタが声をひそめる。
「ミオの声に、反応してるみたい……」
ハルキが、そっと言った。
* * *
「潮の音って、“海の気持ち”みたいだよね」
ミオが、ぽつりと口を開く。
「満ちたり引いたりして、でも見た目にはわからない。
月に引かれて、でも表情には出さなくて。
なんだか、“心”みたい」
さんごちゃんの光が、また揺れる。
「教授……潮と地震って、関係あるんですか?」
「科学としては、まだ未解明の領域だけどね。
でも実際、大地震の直前に“大潮”が来る事例は少なくない。
地球全体が、月に引っぱられて、何かが共鳴してる可能性はあると思う」
「じゃあ……やっぱり、つながってるんだ」
「僕は、そう信じてる。
まだ“わかってない”ことが、いっぱいあるからね。
海って、そういう場所なんだよ」
ミオが、ぽつりとつぶやく。
「……“見えない力ほど、強く働く”ってことか」
「恋とかも、そうかもな」
ケンタが笑う。
「わけもなく気になったり、近づいたらドキッとしたり。あれって、月のせいじゃない?」
「それはただの思春期だと思う」
ハルキがすぐさまツッコミを入れる。
教授がくすっと笑いながら、紅茶をすすった。
「“月に吠える”って言葉、知ってるかい?」
「オオカミのやつでしょ?」
「本当は、“誰にも届かない想いを空にぶつける”って意味もあるんだよ。
誰にも見えないけど、誰かに届いてほしい……そんな気持ち、誰にでもあるだろう?」
* * *
その夜。
ミオは月の光が差し込むベランダに出て、しずく型のブレスレットをそっと握った。
「ねえ、さんごちゃん。
海の声って、まだ誰にも届いてないのかな」
瓶の中のサンゴが、かすかに光った。
風が吹き抜けて、潮の音が、足元を優しく通りすぎていく。
海の底では、
今もきっと、誰にも見えない“呼吸”が、
静かに、静かに――響いている。
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