第5話 流体力学を応用した株式投資

 証券市場の動きを先読みしようとする挑戦は、はるか昔、それこそ株式市場が成立した1600年から続けられてきた。


 挑戦が数百年にもわたって続けられてきたという時点で、すでにそれは達成不可能である、という証明でもあろう。


 金融市場やその他の分野で、ある時点の価格は過去の価格に依存せず、将来に向かっては確率的に変動してしまうこと、すなわち、過去データから将来の値動きを予測することはできない、という事実の発見はフランスの数学者、ルイ・バシュリエまで遡ることができよう。


 1900年、ルイ・バシュリエは「投機の理論」というタイトルで博士論文をまとめた。当時金融市場はカジノのような賭博場とも考えられていたが、バシュリエは確率論に則って価格の動きを離散式ブラウン運動の数式で書き表すことに成功したのだった。


 物理学におけるブラウン運動は、液体や気体中に浮遊する微粒子が、不規則に運動する現象である。バシュリエに先立って1827年、ロバート・ブラウンが、水の浸透圧で破裂した花粉から水中に流出し浮遊した微粒子を、顕微鏡下で観察中に発見し、論文「植物の花粉に含まれている微粒子について」で発表した。


 この現象は長い間原因が不明のままであったが、1905年、アインシュタインにより、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引き起こされているという論文が発表された。この論文により当時不確かだった原子および分子の存在が、実験的に証明出来る可能性が示された。後にこれは実験的に検証され、原子や分子が確かに実在することが確認された。


 このブラウン運動を先読みのできない不規則な値動きにあてはめたのがバシュリエだった。「投機の理論」の中で、株価が過去に捉われない確率過程を描くことを数式で示した。


「ここにコインがある。このコインを投げて、たまたま表が連続して8回出た。さあ、次のコイン投げでどちらに賭ける?」


「裏。表裏の確率が半々で、すでに8回が表なら次こそは裏になるだろ」


「外れ。過去データにかかわらず、表裏の確率は半々だ。だから過去に何が出ていようと、次のコイン投げでも表裏は同じ確率。」


 未来の状態が現在の状態のみで決定され、過去の状態とは無関係であるという性質はマルコフ性と呼ばれ、マルコフ性を持つ確率過程をマルコフ過程と呼ぶ。コイン投げも同じで、過去連続して何が出ていようとそれは次のコイン投げに影響しない。だから表が連続して出ていようと、次に裏が出る確率が上がることはない。


 上がるか下がるか、上がるとしてどれくらい上がるのか、下がるとしてどれくらい下がるのか、という株価の値動きもコイン投げと同じく過去データが意味をなさないマルコフ過程であり、その連続であるから、マルコフ連鎖と呼ばれることもある。


 じゃあ、いっそ将来の株価をマルコフ連鎖の確率式で書き表すことはできないか。


 数値としては先読み不明であっても、ある確率式の範囲内であることは表現することができる。


 不規則な値動きはブラウン運動の公式で表現すればよい。


 そうして出来上がったのが、オプション価格を表現するブラック=ショールズ方程式だ。当時まだ新しかった確率微分方程式の理論を組み合わせることで、オプション評価が可能となり、1973年、学術誌で公開された。


 金融工学の実用性を一気に高め、現在でもオプション価格の算出にはブラック=ショールズ方程式が用いられている。


 しかし一方で、株価の値動きそのものはいまだに書き表す確率過程方程式が存在しない。いや、水中の微粒子と同じ不規則な値動きが擬制されているだけに過ぎない。確率でいえば、期待リターンを中心とした正規分布の山で、1標準偏差のリスク範囲では67%収まる、あるいは2標準偏差の範囲では99%収まる、というみなし方はあるがそれは株価の値動きではない。


 実際の株式市場はどうだ? ここ連日で上昇基調にある銘柄の多くは、やはり今日も上昇傾向である。株価が軟調な銘柄はやはりその後の数日間、軟調なままだ。現代の金融工学では、株価の値動きはマルコフ過程であり、過去の動きは将来の値動きに影響しない、という前提で構成されているがそれは嘘ではないだろうか。


 市場の値動きには粘性のようなものがあって、市場参加者の投資行動は瞬間的には変化しないのではないか。実際、個々の株価の値動きは完全なマルコフ過程ではなく、一定程度は過去の値動き、「モメンタム」に影響されることが多い。


 株式市場はまるで海のうねりのようだ。


 少しだけ粘性のある海をイメージして欲しい。気圧差の影響で潮位の高いところ、低いところがあって、高気圧の海から低気圧の海へ海水が流れる。


 株式市場の資金移動にも似たところがあって、何らかの理由である銘柄群が売られ、別の銘柄群が買われる。別に市場全体の資金量が増減するわけではなく、時間の経過とともに資金移動で上昇する銘柄と下落する銘柄が存在することになる。


 粘性のある流体力学方程式を使えば、流体の単位質量あたりに作用する外力場、すなわち株価を押し上げる1ドルあたりの力の大きさを測ることができるのではないか。


 その発想に至ったとき、向井は震えが止まらなかった。


 そうだ、密度場は市場参加者の厚さ、応力場は直近取引額をあてはめて、ニュートン力学の粘性には取引コストと市場参加者の頑固さを擬制してみよう。


 株価の確率範囲が正規分布に従うとして、その中での値動きのベクトルの大きさはニュートン力学の運動方程式、ナビエ・ストークス方程式で書き表すことができるはずだ。ナビエ・ストークス方程式は流体の運動を記述する2階非線型偏微分方程式で、いわば個々の株価の押し上げ力を算出する数式になる。


 向井は数日間、放課後もPC室に籠って数式のチューニングとあてはめに勤しんだ。


 過去の値動きが将来の値動きに影響しない、なんてのは嘘だ。


 株価の動きには粘性がある。


 株価ごとに異なる押し上げ力、ベクトルを算出できれば、弱い銘柄を空売りして、強い銘柄を目一杯購入するだけだ。


 市場参加者の頑固さ、行動経済学でいうアンカリングを数値化するのは難しかったが、過去データからの逆算で定数を得ることに成功した。


 そしてニュートン流体力学のアイデアが浮かんでから3か月がたった。


 向井は小遣いの大半にあたる金額をネット証券に注ぎ込み、実際に投資をすることにした。


 TOPIXに含まれる2000銘柄をすべて対象としてスクリーニングにかけた結果、圧倒的に株価押し上げ力(加速度)が強かったのが、コーポレーション株式会社だった。


 何をしている企業かは分からなかったが、株価は数週間前に下落から底打ちし、今は反発基調にあった。


「全額行ってみるか。自分を信じて」


 その時向井の頭の中では、ゆずが「栄光の架け橋」を大熱唱していた。


 決して平らな道ではなかった。何度も何度もあきらめかけた。たどり着いた今がある。だからもう迷わず進めばいい。


 なんというか、圧倒的な達成感が向井を支配していた。


 小遣い全額で、コーポレーション株式会社の株式を購入した。


 翌日。


 コーポレーション株式会社は、悪質な粉飾決算が明らかになった。

 まもなく上場廃止となって売買が停止された後、破産して解散した。


 向井はすべてを失った。


「藤宮、すまん、頼む、おれのケツを貸すから1万円くれないか」


「いやだよ、いらないよ」


 -完-

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私立・桜志館高校(男子校) 志高紘帆 @britishgent

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