蒼き夢の軌跡(サッカー)
Yu
日本編
第1話「雨の記憶」──2019年 春
小学5年(10歳)。直江 蓮(なおえ れん)が“ひとりボールを蹴っていた”あの日
グラウンドには、誰もいなかった。
放課後のチャイムが鳴ってから、もう三十分は経っていたはずだ。灰色の空から降り続く雨は、すでに地面をぬかるみに変え、白線もあいまいになっている。
それでも、ひとりの少年だけが、そこにいた。
「……もう一回」
細く、低い声が風に溶ける。
小学五年生の蓮は、濡れたユニフォームのまま、泥だらけのサッカーボールをゆっくりと前に押し出した。
助走なしで、軽く右足を振る。
ボールはスピンをかけられ、ふわりと浮いてから、ゴールマウスの右上へ吸い込まれた。
誰も見ていない。けれど、その精度は、まるでプロのようだった。
「試合と同じようには、ならないな」
いつもは通るはずのパスが、相手に引っかかる。自分の視野が狭かったのか、それとも……。
独り言のように、悔しげに笑う。
彼が蹴り続けているのは、ただの技術ではない。
「なぜ入らなかったのか」「なぜ通らなかったのか」
答えを見つけるために、雨の中で考え、繰り返す。誰に教えられたわけでもない。ただ、それが彼にとって当たり前だった。
その様子を、遠くから傘を差して見ていた人物がいた。
Jリーグ某クラブの下部組織、U-12の監督・松島だった。
「……こいつだな」
松島の脳裏に、かつての失われた才能たちの姿が浮かんだ。
傘の縁から伝う雨粒が、ぽとりと地面に落ちた。
松島は思った。テクニックでもフィジカルでもない。
“自分の頭で問い続ける選手”。この国に最も必要で、最も稀少な存在。
その片鱗が、今まさに、ここにいた。
それから数日後。
放課後の教室で、蓮は一通の封筒を受け取った。封には見慣れないロゴマークと、“セレクションのご案内”という文字。
差出人は、Jリーグクラブ「横浜レイバンズ」下部組織U-12セレクション事務局。
「なんだ、これ……」
彼がそのチーム名を知ったのは、つい最近だった。J1に所属し、育成に定評がある名門クラブ。あの日の雨のグラウンドにいた男の名前も、そこに記されていた
「アカデミーコーチ・松島浩一」。
母は少し戸惑いながらも、
「行ってみたら? 受けるだけタダなんでしょ」
と笑った。
父は、黙って頷くだけだった。
数週間後、横浜レイバンズU-12セレクション会場。
横浜レイバンズのエンブレムが掲げられた人工芝のグラウンド。
ベンチ脇には控え選手の名簿と、コーチ陣の鋭い視線。
スタンドには親たちの視線が交錯していた。
全国から集まった100人近い少年たちの視線が交差する。
「名前は?」「どこチーム?」「あれ、あいつって有名な大会出てた子だよな?」
緊張と期待と、見えないプライドが渦巻いていた。
蓮はその輪の少し外で、静かに靴紐を結び直していた。
「みんな、自分より大きいな……」とか、「……まあ、やるだけやってみよう」
と小さくつぶやく
試合形式のセレクションが始まると、会場の空気が一変した。
速い。上手い。声も出ている。
だが蓮は、最初の5分間、ほとんど走らなかった。パスも出さず、ボールも持たない。ただ、周囲の動きに目を凝らし、何かを見ていた。
「おい、あいつ何してんだ?」
ざわつく保護者。だが松島は、ベンチで腕を組みながら目を細めていた。
6分目、ボールが蓮の足元に転がる。
その瞬間。彼のスイッチが入った。
1タッチ目で相手の重心をずらし、2タッチ目で空いているサイドへロングスルーパス。
受け手は驚きながらも走り込み、ゴール。
味方の数歩先を読む判断力と、そのために“最初の5分間”を使った蓮のプレーに、会場は静まり返った。
「あのパス……今の、あいつ狙ってたのか?」
「何であそこにスペースがあるってわかったんだよ……」
「……こいつ、何者だ」
一部の少年たちは思った。
身体が特別大きいわけでも、足が速いわけでもない。けれど、蓮がピッチにいるだけで、ゲームの流れが変わっていた。
試合後、松島は蓮に声をかけた。
「君、名前は?」
「蓮です」
「今日、何を考えてた?」
「……この人たちが、どう動くのかを見てました」
松島は満足げに笑う。
「よし。合格だ。……君みたいな選手を、ずっと探してた」
蓮の物語は、あの日の“雨の記憶”とともに、動き始めた。
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