窓辺の観測者
紫丁香花
序章
目を覚ましたとき、部屋には曖昧な光が差し込んでいた。春の終わりかけの午前は、どこか宙ぶらりんで、時間の実体を失わせる。壁にかかった時計が示す数字を見ても、現実感は湧かなかった。数値はたしかにそこにあるのに、それが今の「わたし」に繋がっていないような感覚——。
藤木は、枕元のスマートフォンが充電されていないことに気づいた。コードは差してあったのに、コンセントがゆるんでいたらしい。微細なズレが、日常を狂わせるのだ。
残り12パーセントの電池残量を見てから、ため息をひとつ。LINEの通知は三件。開かずに画面を閉じた。
ベッドから体を起こしながら、彼女は、ふと考える。
——たとえば、今感じている「軽い不運」は、はたして本当に不運なのだろうか。
そもそも「不運」という語は、何と比較してのものか。期待値と現実のズレを指すなら、その期待自体が妥当だったかどうかは誰が測る? 思考はそこから滑り出し、やがて加速度を増していく。
——自分の認知が歪んでいるのかもしれない、と思うことがある。
だが、何を基準に「歪んでいない」と言えるのか。それを誰が決めた? 大衆? 多数派? では、その「大衆の認知」とやらは、どうやって検証された? すべての人の頭の中を可視化し、平均値を取ったわけでもあるまいに。
それどころか、そもそもこの世界が現実である保証もない。極端な話、わたしはゲームの中のキャラクターかもしれず、自分で選んでいると思っている選択肢すら、すでに誰かの手によって用意されている「正解」に過ぎないのかもしれない。
そしてその思考がぐるぐると巡った果てに、いつも決まって、考えることそのものを放棄する。
思考を止めたその瞬間、部屋の静けさが再び意識に戻ってくる。冷蔵庫のかすかな駆動音、郵便受けの金属が揺れる音。何も変わらない朝。けれど、自分の中では、さっきまで宇宙を一巡していたような気すらする。
——結局のところ、わたしはわたしの小さな宇宙にしか住めないのだ。
29歳。未婚。パートナーなし。
世間的な「節目」のような年齢に足を踏み入れても、実感はない。ただ数字だけが、音もなく壁をすべるように更新されていく。昨日のわたしと、今日のわたしに、本質的な違いは見当たらない。
それでも、人間というのは日々を記号化し、数字に意味を与え、進んでいるふりをしながら、きっと同じ場所をぐるぐると巡っている。そんな気がする。
その「ぐるぐる」のなかで、藤木は今日も、小さな人間の言動を観察する。
たとえば、上司が椅子に腰かけるときに必ず右に重心をかけること。同期の小山が「わかります」と言うときに、ほんのわずかに視線を落とす癖。
それらは小さなノイズのようでいて、わたしにとっては信号でもある。社会という曖昧な空間の中で、誰かがふと見せる無意識のズレや、言葉にならない感性。そうしたものに、わたしは妙に惹かれてしまうのだ。
ただの興味か。逃避か。
あるいは、自分という存在の確かさを、他人の中に探しているのかもしれない。
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