第5話
初めて受けた依頼は一人暮らしの男性のビッグワンルームだった。広さは二十畳くらいあったように思う。
家主はスタイリッシュな眼鏡の男性で平田さんと親しそうだった。ウキウキハウスクリーニングのヘビーユーザーらしく、掃除が終わったあと顔を合わせて開口一番に「新顔だ」と呟かれた。
顔を背けたくなるような汚部屋というわけでもなく、雑然としてはいるが男の一人暮らしにしては十分綺麗で整えられた身なりからも懐に余裕があるように思えた。
「人間か。珍しいな」
「はい、今月からお世話になってて」
「キャラ濃いのばっかだから大変だろうな。はいこれ」
「え、なんですか」
「チップ」
制服の胸ポケットに突っ込まれたのを広げると一万円札だった。目を見張る俺に男性はふっと静かに笑う。
「初々しいな」
太陽でも見るように眇めて「またよろしく頼むよ」と言った姿がハンサムだった。
「チップもらっちゃったんですけど」
「お前バカ申告すなそんなもん」
「ダメなんですか」
「ダメっつーか…純粋だなー。そこまでピュアだと自分が哀しくなるよ」
平田さんはラーメンを啜りながら箸をさして言った。バイト終わり、例のラーメン屋に2人で来た。マスターは平田さんから渡された無料チケットを受け取ると何も言わずにいつも通りのラーメンを用意してくれるようになった。
「うわ、雨降りそうだな」
「ほんとですね。傘持って来といてよかった」
「ちーちゃん大丈夫かなー」
平田さんはラーメン屋を出て重い雲に覆われた空を見上げながら言った。杉原ちさとは今日仕事に出ている。
「あの子気圧に弱くてさ。特に曇りの日は頭痛?とか酷いみたいなのよ」
「あー…うちの叔母さんもよく頭痛くなるって言ってますね」
「女性に多いみたいよねー。傘も持ってないし」
あれから杉原ちさとはウキウキハウスクリーニングですれ違っても完全無視で、学校では接触する機会がないので一度も話していない。俺がバイトを始めたことに未だに嫌悪感をむき出しで平田さんも困っている。
「どこの地区でしたっけ。俺傘届けますよ」
「え?どこまでお人好しなの君は」
「しばらく話せてないし、そんな危険な地区じゃなければ」
「今日は四十地区で張り込みだから大丈夫だと思うよ。いやー助かるよ」
平田さんから渡されたビニール傘を持って四十地区へ歩いて移動する。危険区域に当たり前のように出入りするようになっても俺の毎日はほとんど変わらない。
家では律子叔母さんと生活をし、学校に行って勉強をして、仲のいい友達と過ごす。その帰りに掃除のバイトをして家に帰り、また繰り返す。
適合能力の高さに我ながら驚いている。
今日杉原ちさとは浮気現場の証拠を撮影するために四十地区で張り込みをしているらしい。景観にラブホテルが増えた。
平田さんから教えてもらった杉原ちさとの携帯電話に電話をかけるとすぐに出た。
『誰』
「風月隼人です」
『なんで番号知ってんの、キモ』
「平田さんに教えてもらって。仕事終わりそう?雨降りそうだからって傘渡されたんだ」
『いらない。』
返事をする前にぶちっと切られてしまった。どうにもこうにも距離は詰められそうにない。
諦めて帰ろうかと思った矢先、雨が降り出した。灰色の空が広がっている。今年の梅雨は早い。
ワイシャツの肩の部分が濡れ始めたので平田さんから渡されたビニール傘を差そうと空に向け開いたのと同時に、銃声が響いた。
あの日の記憶が蘇る。杉原ちさとがなんの躊躇いもなく引き金を引いた姿が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
銃声の方へ走ると、同じ学校の制服に見慣れた胡桃色のショートヘアの後ろ姿があった。背中が思った以上に小さい。華奢だと思った。
杉原ちさとの前には腕から血を流す人狼の女性と、その姿を見て腰を抜かす人間の男の姿があった。恐らく今日の仕事のターゲットに違いない。
「杉原さん!」
駆け寄ると杉原ちさとはハッとして振り返り、俺だと認識した途端に短い舌打ちをしてため息を吐いた。
「そんな気軽にこんな公の場所で拳銃使っちゃダメでしょ、女の人大丈夫なの?」
「大樹くんみたいなこと言わないでよ、殺してない。何しに来たの?」
「傘届けに来たんだって言ったじゃん。」
頭から指の先まで雨に濡れる杉原ちさとに傘を傾けると何か言いたげに俺の目をじっと見た。ワイシャツが濡れて黒いキャミソールが透けている。
「いる?」
「キモ。いらない」
リュックからタオルを取りだして渡そうとすると杉原ちさとは食い気味に拒否した。
「た、助けてくれ!殺される!」
腕から血を流す人狼の女性が身を捩って呻き声をあげると、アスファルトに尻もちをついていた人間の男が俺の足にしがみついた。その拍子によろけて傘が手から滑り落ちた。
「大丈夫ですか?」
「警察!警察を呼んでくれ!」
「そいつ奥さんとこの女の他にまだ別の囲ってたんだって。そしたらこっちの女が感情的になって暴れだしたから、凶暴化する前に撃った」
「なるほど…じゃないけど。ダメでしょ普通に、これハンカチ使ってください返さなくていいので」
「う、…あり、がとうございます…」
「暴れたの警察にバレたら厄介ですよね。しかも人間といてってなったら不利ですし。こっちも黙ってるので、銃で撃たれたこと黙っててもらえますか?」
「ふふ、ふざけんな!こっちは殺されかけたんだぞ!」
「殺されかけたじゃなくてこれから殺されるんだよ」
杉原ちさとが再び拳銃を構えてチャキ、と引き金を引いた。
「ちょちょちょ!俺まで巻き添えくらいそうな距離で構えないで危ないからまじで!一回しまってそれ!」
「大丈夫、外さないから」
「いやいやいやそういう問題じゃなくて!」
「頼む!やめてくれ、っう、」
パニックを起こす人間の男の腹に杉原ちさとは蹴りを入れると蔑んだ冷たい目で見下ろした。
「こんなやつ生きてても迷惑なだけじゃん。殺して何が悪いの?」
杉原ちさとは俺の目を真っ直ぐに見て心から不思議そうに、子供が疑問を投げかけるように問う。髪の先まで濡れて頬に水滴が伝う。
正しいことをしているはずなのに。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
彼女のことが気になるのは、きっとその陰が濃いからだ。彼女がどんな風に生きてきてこんなにも命を軽く考えるようになったのか、なぜこんなに冷たい目をしているのかが知りたい。
「杉原さんが誰かを傷つけるとこ、俺は見たくない」
杉原ちさとは眉間に皺を寄せて拳銃を握りしめたあと、少し間を置いて構えた腕を下ろした。
「私に撃たれたこと言ったら二人まとめて殺す。見逃してあげるから、今日あったことは忘れて」
そうして不倫カップルは傷の手当をするのかなんなのか、楽しむはずだった行先のホテルに入って行った。
杉原ちさとはすぐにカメラを構えて写真と動画の両方を証拠として残した。衝動的な行動に出たけれど本来の目的は不倫の証拠を掴むことだ。結果としてこうでなくては、杉原ちさとの仕事は失敗に終わる。仕事に関してはぬかりがない。
俺は自分の折りたたみ傘を出して差したあと、アスファルトに投げ出された傘を拾い再度杉原ちさとに差し出した。
「帰ろうよ」
杉原ちさとは顔を上げ、ゆっくり瞬きをしたあと傘を受け取った。
黙って歩きながらウキウキハウスクリーニングに戻ると、平田さんはバスタオルを持って事務所から飛び出した。
「おかえりちーちゃん!風邪引いちゃうよーちゃんと拭きな」
「痛い、平気だってば」
「はい隼人もね。お迎えご苦労さん」
平田さんは散歩帰りの犬のようにバスタオルで拭き、杉原ちさとはうざったそうに首を振った。
バスタオルと髪の毛の隙間から見えた耳が赤くて、辿っていった先の杉原ちさとの柔らかな笑みに釘付けになった。あんなに冷たい目をしていた女の子と同一人物には思えなかった。
すぐにその表情はバスタオルに埋もれて見えなくなり、それでも写真に切り取られたかのように頭の中にずっと浮かんでいた。
杉原ちさともあんなふうに笑うのか。
心の中で気づかないうちに呟いていた。
「隼人、今日うちカレーなんだけど飯食ってく?」
「え、いいんですか」
「家の人平気なんであれば」
「友達ん家で食べるって言えば問題ないです」
「手伝う」
「まず着替えてきなさい」
律子おばさんに連絡を入れて平田さんと杉原ちさとと事務所を出て、住まいのある二階に上がった。怪我をしたときに駆け下りた階段が記憶に新しい。
真ん中の部屋はリビングとして利用されていて広かった。
平田さんはキッチンに立ちいかつい見た目に反したフリルのついたエプロンを身につけた。吹き出しそうになったのをこらえていると、スウェットに着替えた杉原ちさとがやってきた。
俺の目を見て何か言いたげだったけれど今回は舌打ちはされなかった。
「俺もなんか手伝います」
「ああいいよ座ってな客人なんだから」
「ただいまーチーズ買ってきたよ〜。あ!風ちゃんじゃんどうしたの?」
紗奈さんが前と同じように歌うようにリビングに入ってきてソファにカーディガンをかけた。フローラルの女性らしい香水の匂いがする。
風ちゃんとは俺の事らしい。
「こんばんは。ご飯誘ってもらって」
「そうなんだ!着替えてくるね〜」
「紗奈も手伝って」
「はいはーい」
ソファに座って、オープンキッチンに立つ平田さんと杉原ちさとを眺める。普段キッチンに立つことは少ないのか、杉原ちさとが不慣れな手つきで平田さんの切る野菜を鍋に入れたり分けたりしている。
「ちーちゃんまた痩せたんじゃない?ご飯ちゃんと食べないと駄目だよ〜」
「紗奈みたいに牛になったら困る」
「ひど!脂肪あったら男の子は喜ぶよ?ねえ風ちゃん」
「ええ…俺に振られても困ります」
「思春期にセクハラすんな、オメーはちゃちゃっとサラダ作りやがれ!」
「分かってるってー」
三人で並ぶ姿を見て不思議な気持ちになる。家には律子叔母さんしかいなくて、一人のときのほうが多いけれどれっきとした血縁があって仲もいい。血の繋がりのない仕事仲間の三人はとても家族には見えない。でも、言葉の掛け合いの流れ方や手つき、移動の際の避け方でそれぞれの存在がそれぞれの生活に馴染んでいるのがよく分かる。
自分と律子叔母さんにはない「慣れ」がそこにはある。
「いただきまーす」
「紗奈さん、その量食べられるんですか?」
「うんそうだよ。デブだなって思ったでしょー」
「いや、細いのにどこに入ってくのかなって」
「やっだ聞いたー?好きになっちゃいそう」
「紗奈は手かかるからやめといた方がいいぞ」
「なにそれーちーちゃんならいいってこと?」
「こっちが無理」
杉原ちさとはものすごい量のチーズをカレーにかけながらノールックで拒否。ここまでくると清々しい。
細い手首と指先で、大きなスプーンを掬って食べる仕草を眺めた。一口が小さい。
「ダメダメ。ちーちゃんはウチの大事な娘っ子だからね」
「子供扱いしないで」
「子供扱いじゃなくてレディファースト」
「結局私貶されてるよねー?」
見間違いじゃない。杉原ちさとの冷たい目が、平田さんに向けられるときだけ少し優しくなる。紗奈さんに向けられるものも俺に対するような嫌悪感はないけれど、温度感はさほど変わらない。目だけじゃない。言葉尻も柔らかくなるし、髪を触る仕草も多くなる。それは毎回平田さんが杉原ちさと目を見つめ返したときだ。
友達にも恋人がいるけれど、杉原ちさとのように明確な恋をしている表情を見たのは初めてだった。
「隼人も、チーズとかタバスコとか色々あるよ」
「あ、大丈夫です。俺味濃いの苦手で。このままでまろやかで美味しいです」
「そりゃよかった」
その日他の面子は集まらなかった。しょっちゅう一緒に食事をするのはここの三人だけらしい。杉原ちさとも食べたり食べなかったりで、基本は平田さんと紗奈さんがリビングにいることが多いと寂しそうに紗奈さんは言った。
「どう?ちーちゃんちゃんと仕事してた?」
雨脚が強くなって平田さんが車で送ってくれることになった。後部座席に乗せられなくて良かったと安心する。
脳裏にアスファルトに転がる男女が過ったけれど、杉原ちさとが撮ってきた不倫の証拠はきちんと平田さんに提出された。言うべきか迷うことは、一旦言わないでおいたほうが今後の選択肢を減らさずに済む。
「はい。杉原さんって表の仕事もするんですか」
「するよー。明日も入ってるし。ヘルプ出る?暇だったら」
「嫌がられますよ」
「いいのよ、コミュニケーション取る練習。お互いにね」
「俺もですか」
「そう。不器用すぎるのも器用すぎるのもよくないのよ。何事もほどほどに」
軽いハンドル捌きで平田さんは誰に言うでもなく呟くように言った。俺にもあてはまっている事が意外だった。
「おかえりー。何食べてきたの?」
「カレー。はちみつ入れると美味しいんだね」
「みたいだねー。今度やってみよっか?」
「そうだね」
律子叔母さんはソファでテレビを眺めていた。俺の嘘を疑うことなく信じ込んでいる。
これがもし平田さんと杉原ちさとだったなら、すぐにバレていたと思った。
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