牢商は死なず、ただ答えるのみ

マレブル

プロローグ

慶応四年四月十一日。江戸城無血開城。

乾いた春風が江戸の空に吹き抜ける。

桜は散り始め、時代は音もなく終わりを迎えようとしていた。

血を流すことなく、火一つ上がらぬ。

将軍家は城を明け渡した。—誉れある決断だった。 ―

だが、すべてが終わったわけではない。

「城の地下に、何かある。」

新政府軍の折田才蔵は、城内の図面を睨んでいた。

かつて幕府の天領を統括していた勘定所の資料に「天守直下、不可侵。」との記しを見つけた。

「掘るぞ。金でも文でも、あるに越したことはない。」

天守台の裏手、地に蓋していた大きな木板を外すと、地下へ続く石づくりの階段が現れた。

かなり深いらしく、松明で照らしても最下までは見ることができない。

築城のならいにしたがうならば、囚人や罪人を放り込んでおく土牢といったところである。

「俺が先に降りよう。」

折田が手燭を手に、狭い石段を一歩一歩降りてゆく。

冷たい石階段を一段ずつ降りながら、ひょっとすれば、まだ兵が息をひそめて隠れているかもしれぬ。と折田は思った。

―先に兵卒を立てるべきだったか。―

しかし、恐れていた闇討ちはなく、下までたどり着くと巨大な格子状の木枠が現れた。

すべてが黒く塗られ、周囲の石壁に突き刺さっている格子枠は、いかにも頑強で「何者も打ち破ること能わず」という圧を感じる。

同じく頑強そうな黒光りする錠前を見て、―これは―と折田は考えた。

「徳川は天守の地下にとんでもない金を隠していると聞く。江戸城を落とし、新政府はその埋蔵金で新しい国づくりを進める。」

上官たちから何度も耳にした”うわさ”である。


この強固な牢は内側のものを出さないためでなく、外側からの侵入者を防ぐためのものではないのか。

冷たい空気が頬を打ち、深く沈んだ地底の匂いが立ち込める。

錠前をやっとのことで破り、踏み込んだ空間は異常に広かった。

ただの蔵や牢ではない。

白い漆喰で塗り固められており、どこから明かりを取り入れているのか、地下深くと思えぬほど明るい。部屋の様式は時代のいずれとも合致しない。

石畳はまるで寺院のように整い、天井は高く、奇妙な文様が壁のあちこちに刻まれていた。まるで高貴なお方、もしくは神を迎えるかのようなしつらえである。

「これは…。」

そのとき、視界の奥で何かが動いた。

松明の火が照らし出したその先に—正座する男。―

「誰だ…?」

折田の声が、静寂に吸い込まれていく。

白い衣を纏い、長い髪を後ろに束ねた男だった。

年齢は見たところ四十前後。

牢に囚われているとは思えぬほどに肌艶がよく、先ほどまで客としてもてなしを受けていたかのように身ぎれいである。

見るからに壮健な男、ゆっくりと開いたその眼差しには底知れぬ老熟が宿っていた。


男は静かに「ついに。」と言った。

「…おまえは誰だ?なぜここに…。」

「問うな。わたしは、誰でもない。」

男と折田の間には、白い紙飾りのついたしめ縄が揺らめく。

よく見るとしめ縄は空間全体に張り巡らされている。

構わず、男に近づこうとした折田は空気の膜のようなものを感じ、しめ縄の外へふわりと押し返された。

背後の兵たちも地下の空間へと降りてきた。

「将校、見つけましたか?」

「…見つけた、いや、埋蔵金ではないが。」

男はそれを聞くと、小さく首を横に振った。

「ここに金などない。わたしはここを出られぬ。外に出れば…。」

「徳川の世はもう終わったのだ。どこぞの罪人かは知らぬが、このような封印も地下牢も意味はない。」

折田が結界に手を伸ばし、しめ縄をぐいと引いた—

「やめろ!」男の声と同時に、閃光が走った。

一瞬、空間が軋み、ばりばりと何かが剥がれる音がした。


刹那、男の髪が抜け落ち、肌が痩せ細り、息が浅くなる。

ほんの数秒のうちに、男が老人へと姿を変えた。

「ま…て…まだ…。大御所さま…」

膝をつき、男は苦しげに手を伸ばす。

凛とした声も、いつの間にかしわがれている。

男の震える指先が、折田の裾に触れた瞬間—

砂が崩れるような音とともに、男の体が崩れ落ちていった。

皮膚が割れ、肉が消え、骨が風化し、ただの灰となる。

―沈黙。―

信じられぬといった表情で、背後の兵たちが思わず後ずさる。

その場に残されたのは、衣と、一冊の帳面だけだった。


折田はそれを拾い上げた。

革の表紙に、金泥で描かれた一文字—。

外国の言葉なのか、折田には読めない。

開いたページには、商家の名が並んでいた。

三井越後屋、大丸、豊島屋酒店、紀伊國屋…、

どれも、耳にしたことのある商家ばかり。

そのすべてに、奇妙な数式、設計図、能書き、精緻な地図が記されている。

ページをめくると最後の一枚に、こう記されていた。

—もし、これを開いた者が「信」を持つならば、次の世に知恵を継げ。

商いは、人を救う術である。我はただ、問いに応うのみ。

そして、小さく添えられていた。

「信なき商いは寝言である。」


折田は帳面をはたいて、先ほどまで男の姿だった「灰」を落とすと、部下に悟られぬように、懐にしまった。

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