元お飾り聖女はなぜか腹黒宰相様に溺愛されています!?
雨宮羽那
プロローグ
その日は特別な1日というわけではなかった。
強いて言うなら、楽しみにしていた作家先生のラノベ新刊が発売される、というくらいで。
普通ではないブラック企業で働く一社員の、普通の一日が過ぎ行こうとしていた。そのはずだった。
◇◇◇◇◇◇
時刻は深夜を回り、午前3時。草木も寝静まった丑三つ時に、街を歩く人はほとんどいない。
眠気と過労でもつれる足を動かしどうにかマンション5階の自宅にたどり着くと、私は玄関にそのままぱたりと倒れた。
最後の気力を振り絞って帰ってきたが、もう歩けない……。
「つっ……かれたぁ……」
私の名前は、
地獄の初24連勤を終えたばかりでつらい……。
なーにが「労働基準法最大日数の24連勤は新入社員の登竜門!」(By上司)だよ。ふざけやがって。ただのブラック企業のやり口を上手い具合に誤魔化しただけでしょうが。
逃げられるうちに逃げなくては、と頭の片隅で考える。
死んだ魚のような目をして働いている先輩たちは24連勤どころか48連勤しているとの話なので、新人はまだマシなのかもしれないと思わされてしまうのがまたタチが悪い。
――やばい……さすがにこれはまずいかも。
一度横になると、一気に体調不良が襲ってくる。否、家に帰るまでは見て見ぬふりをしていただけだった。
くらりと目眩がして、起き上がれない。貧血だろうか。それとも、自宅にたどり着いた安心から気が抜けせいか。はたまた、朝からまともに食事をとっていないからだろうか……。気付かないふりをしていたが、もしや過労か……?
心当たりがありすぎて、原因がどれなのか判別しかねる。
私はなけなしの気力で、通勤カバンから1冊の本を取り出した。
――ああ、せめて皐月先生の新刊、少しでいいから読んで寝たい……。
私は大好きなラノベ作家・皐月はな先生の新刊『偽物聖女ですが王太子からの愛が重すぎて逃げたいです!』をぎゅっと握りしめる。
昼休みのわずかな時間、会社を抜け出して買ったものだ。
私は無類のラノベオタクであり、中学生の頃ラノベと出会ってからというもの、ラノベを読むことを生きがいとして生きてきた。
ないと死んじゃう。まじで。
そんな私のイチオシ作家は、女性向けの恋愛ファンタジー小説を中心に、商業、非商業問わず多くの作品を発表している皐月はな先生だ。
皐月先生は最近流行りのWeb小説投稿サイト出身の作家なのだが、今日発売(日付が変わっているからもう昨日か)したこの新刊はWebでは未発表の完全新作なのだ!
しかもタイトルから推察するに、聖女を主人公とした安定のファンタジー!
読みたい。とても、読みたい。ヨダレが出るほど、読みたい。
――でも、ああ……。もう無理……。
眠気、もあるのだが、なんだかそれとは違う感覚だ。
頭はガンガンするし、吐き気までしてきた。意識が遠のいていく……。
◇◇◇◇◇◇
「あらあらまあまあ。可哀想に」
どこからか鈴のなるような可憐な声が聞こえる。
可哀想に、と言ってはいるが、そこまで可哀想と思っているようには感じられない。
――だれ……?
私は重たいまぶたをゆっくりと開く。
するとそこは、上下左右、どこを見ても真っ白な空間だった。どこまでも純白が続く。
その真っ白の中に溶け込むようにして佇む、ホワイトブロンドの美女が1人。
――だれ……!?
「わたくしは女神の1
ハニアと名乗ったその女性は、確かに女神を自称できるくらい神々しい姿をしていた。
緩やかなホワイトブロンドの髪はうっすらと光っているように見える。
――ああ、これ夢だな。
こんな変な空間も、美しすぎる女性もなかなか現実ではお目にかかれないだろう。
夢なら納得だ。
私は床なのかも分からない白い空間にへたりこんだまま、ぼんやりとその女神様とやらを見つめた。
女神様は白く華奢な片手を頬に当て、ほうとため息をつく。
「それにしても、地球人というのは大層可哀想な生活をしてらっしゃいますのね……。わたくし思わずあなたに同情して、こんな世界の狭間に連れてきてしまいましたわ。もしかしたら、地球のあなたから魂を引き抜いてしまったかもしれません」
「はい……?」
今、さらりととんでもないことを言われた気がする。
魂を引き抜いてしまったかもしれない……?
「え……っと、あの。それは、殺された、ということで合ってます……?」
私、なんて物騒な夢を見てるんだ……!
女神様に殺されるだなんて、縁起が悪すぎやしませんか!?
恐る恐る女神様に尋ねると、女神様は絵画のように美しい顔を申し訳なさそうに歪めて「多分」と小さく口にする。
「わたくし、悪気はなかったんですの。あなたがとても弱っていて、可哀想だなと。それで連れてきたら、結果的に魂と体を分離させてしまったかも……」
言い訳をする少女のようにつんつんと指先を弄りながら言ってくるものだから、内容とミスマッチで余計に恐ろしい。
私は思わず、片手で右頬をつねった。
痛い。
……左頬もつねる。
やっぱり痛い。
「申し訳ありませんが、これは夢ではありませんわ」
しゅんと目を伏せる女神様。
私の顔からさあっと血の気が引いていくのがわかった。
「ど、どうしてくれるんですか……!?」
女神様に同情された結果殺されるなんて、たまったもんじゃない!
だってまだ皐月先生の新刊読んでないし! 日々の更新を楽しみにしているWeb小説だってたくさんある!
私は慌てて立ち上がると、女神様に詰め寄った。
「お、落ち着いてくださいまし!」
突然迫ってきた私に驚いた様子の女神様は、どーどー、とジェスチャーで両手を出してくる。が、落ち着けるわけがない。
「地球のあなたの体は結構限界がきているみたいで、戻したところで過労死する寸前です! なので、新たに生まれ落ちる方がよろしいかと!」
女神様の言葉に、私はぴたりと動きを止めた。
新たに生まれ落ちる? なにそれ。
それってあれ? 転生ってやつ?
「……それ、異世界とかいけます?」
私は好奇心に負けて、女神様に静かに尋ねた。
ラノベオタクの血が騒ぐ。
異世界転生。悪役令嬢。乙女ゲーム。婚約破棄。チート。MMORPG。ハーレム。ギルド追放。
かつて読み漁ったラノベの内容が、瞬時に脳内を駆け巡っていった。
「ええ、あなたが望むなら! 叶えて差し上げましょうとも!」
えへん、と女神様が胸をそらす。
私は頭で考えるよりも先に、秒で答えていた。
「異世界に転生でお願いします」
どうやら私は、なかなか現金な性格だったらしい。
ああ、神さま仏さま。そして地球の両親よ、ごめんなさい。あれだけ大切に育てて貰ったはずなのに、ブラック企業に就職してしまった挙句女神様に殺され、しまいには異世界に転生することを自ら選んでしまっている。
それでも、大好きなラノベの展開を我が身で体験出来るかもしれないわくわくには勝てそうもなかった。
「承知致しましたわ。ただ、わたくし、地球人のいう『異世界』がどういったものなのか詳しくなくて……」
女神様は困ったように眉尻を下げる。
たしかにいざ異世界とは、と聞かれても一言で説明するのは難しい。
そこで、私はふと思い出した。意識を失う直前、自分が皐月先生の新刊を握っていたことを。
「私が地球で最後に持ってた本みたいな感じだと嬉しいんですけど、あれを見てもらうことってできます……?」
ダメ元でそう尋ねると、女神様はぱちぱちと大きな青い瞳を瞬かせた。
「こちらですか……?」
女神様がそっと片手を宙にかざすと、どこからともなく1冊の文庫本が現れる。
それは、私が読みたくて読みたくてたまらなかった皐月先生の新刊『偽物聖女ですが王太子からの愛が重すぎて逃げたいです!』だった。
「そうそれ!」
私は食いつくように身を乗り出す。
ファンタジーに定評のある皐月先生のことだ。まだ読んでいないが、安心安定の異世界に違いない!
「なるほどなるほど……」
女神様はぱらぱらとページをめくっていく。
ああいいなぁ。私も読みたい。
「あらあら、こことよく似た世界があるわ。そこにしましょう」
一通り目を通し終えたのか、最後までページをめくり終えると女神様はそう言ってパタンと本を閉じた。
「それでは、あなたの来世に幸多からんことを」
「え……」
視界が徐々に白く染まっていく。何も見えなくなる。
私が最後に見たのは、にっこりとした笑顔で手を振る女神様の姿だった。
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