朝の忘れ物

緋櫻

朝の忘れ物

 母


 だし巻き卵が完成した。白だしは控えめ、牛乳で味を柔らかくまとめたやや固めのだし巻き卵。母から教わったいつも通りのだし巻き卵。粗熱を取って高校生の息子の弁当箱に詰めた。


 息子がせわしなく階段を駆け下りてきた。これだけ飲んで行きな、とすかさず味噌汁をテーブルに置いた。あっつと言いながらも一気飲みした息子は、再度おわんをテーブルにたたきつけた。


 用意周到な息子は昨晩、テーブルの上に制服を置いていた。踊るように、エネルギーを放出しないと爆ぜるように、カッターシャツに袖を通した。ベルトの金具がカチカチと鳴る。


 用意周到な息子は昨晩、準備を終えて玄関にかばんを置いていた。私の靴を散らして駆け出した広い背中はすぐに消えた。行ってらっしゃいは聞こえたかな。今日は間に合うかな。


 リビングはさっきよりずっと静かに感じる。お椀を洗い、ふとテーブルを見た。弁当箱があった。かける言葉を間違えた。行ってらっしゃいではなかった。自転車の鍵はどこだっけ。


 老人


 アスファルトを強く蹴り返す。リズムを繰り返し、繰り返す。日は既に高く、頬のしわに沿って汗が流れる。今日は最高気温更新らしい。全く憂鬱な記録更新だ。後で塩飴を買おう。


 三角さんかく公園を過ぎ、犬を連れた黒部さんに挨拶する。熊野くまの神社を過ぎ、神主で若作りの泉さんに挨拶する。坂を上る。猫のモチは今日も小松さんの家の屋根窓から見下ろしていた。


 突き当たりを右に曲がると、亀城きじょう小学校の通学団が向かって来るのが見えた。山本さんの孫、横井さんの孫、見知った子供達に挨拶する。今日の夕方は下校の防犯パトロールの担当だ。


 坂を下って広い道に出る。反対側の歩道、亀城公園の沿道を自転車が通り過ぎて行った。何やら急いでいる。北川さんか。そういえば、子供の快星君はいつの間か高校生だったな。


 家に着いた。まずシャワーを浴びて、朝食は冷茶漬けのつもりだった。そこで気付く。しまった、塩飴を忘れた。……いやパトロールの時でも良い。まずはシャワーだ。しまったな。


 教師


 アラームが鳴り出す一分前、慣れた手つきで解除する。妻と実璃を起こさないよう顔を洗い、歯を磨き、着替え、定評のある豚汁を煮て、定評のある丸い体で今日も車に乗り込んだ。


 夏休みに文化祭準備が本格化し、今日の職員会議はその予算の会議を予定している。北川は今年も低予算に怒って「先生がクロマグロになれば高く売れます」とでも言いそうだ。


 亀城公園につながる横断歩道を鎌田さんが渡って行った。ほぼ毎朝ランニングしているところを見かけ、尊敬しかない。俺は? お墨付きの皮下脂肪をつかむ。こんなのが大トロかよ。


車を降りると待ち構えたように太陽光にうなじを焦がされ、校舎に逃げ込んだ。冷房の電気代について「太陽も有給申請してください」と事務員がキレていたのを思い出す。


「竹内先生始めてください」そう言われて初めて気付いた。資料を家に置いてきた。今年もですかと教頭に笑われる。こんなもの定評になるな。クロマグロになっても良いなと思う。


 高校生


 ばたばた走る。顔が上がる。滑稽で、水面すいめんこいに似る。酸素の足りない体は重くなる。遅くなる。沈む。右肩に掛けていた鞄を左に移す。まじで、何で、もう。


 寝坊の原因は夜更かし。夜更かしの原因はスマホいじり。ぴっかぴかの自業自得。てか「自業自得」って言葉変じゃね? 自業自損じゃね? 考えてる場合じゃ。もう、うるせえ考え。


 軽やかに走るおじいさんとすれ違う。左折する。もう直進だけだった。おにぎり屋を通過し、無駄に大きい薬局を通過し、歩道橋を二段飛ばしで渡った。高校が見えた。間に合う。


 校門直前で後ろから名前を叫ばれ、振り返ると母が弁当箱を突き出していた。忘れていた。受け取って校門に飛び込むと、母がやけにはっきり「行ってらっしゃい」と言った。


 結局遅刻なら歩いても良かった。いつも体型をいじられている反撃とばかりに竹内は笑ってくるが、汗で気持ち悪い上に空腹で気持ち悪い。あー……弁当は今日もだし巻き卵だよな。

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朝の忘れ物 緋櫻 @NCUbungei

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