ep.23 騎士の理想

 煙の流れ込み始めた応接室の壁を、ユーフォリアの四肢が蹴る。


 宙を舞って頭上から飛び掛かる青黒い塊を、アルベルトの剣が都度弾き返した。


 腕についた切傷を不快そうに一舐めしてから、低い唸り声と合わせてまたユーフォリアの毛並みが逆立つ。


 足場にしていた机の残骸から舞うように身を翻すと、壁際に倒れる男へと襲い掛かろうとして、振り下ろした爪を受け止めた剣身を苛立たしそうに蹴り上げた。



 男は傷付いた身を床に伏せたまま、まるで獣となった女と剣を交えるアルベルトをじっと見る。

 暴れ狂う嵐のような女とは対照的に、アルベルトの剣はどこか悠然としており、次の一手がどこから向かってくるのか完璧に把握しているようであった。


 また剣と爪がぶつかり合い、アルベルトの剣が無造作に振り切られる。

 女は部屋の反対の壁へと叩きつけられ、机の残骸と共に山になっていたテーブル掛けの下からのそりと現れると、その傍で燻っている燭台の火を強く踏んだ。


 アルベルトの頬と腕に残された深い切り傷が、見る間に薄くなっていく。

 昨夜の満月で彼女から供給を受けたという旨は話したが、その魔力は尚も体内で満ち溢れているようだった。


 男は思わず乾いた笑い声を漏らす。

 人の身に余る暴力的な魔力と、それを制御して剣術へと昇華させる技能、目の前にあるこの男こそが、彼が求めた『魔力の正しい活用法』だった。


「くっ、ふふ……アル、ベルト……お前ならば、確かに、王の一族郎党すらも、皆殺しにできる、だろうよ……」


「死にたくなければ黙れ。殺してから余罪をかけることもできる」


 たまに咳込みながら尚も笑っている背後の男に、振り返らぬまま冷たい声で答えて、アルベルトは再び眼前のユーフォリアのみへと意識を向ける。

 天井から吊り下げられた照明の上に四つ足で立つ彼女は、全身の毛を逆立てて、ただ純粋な怒りをこちらへと向けていた。


 アルベルトの脳裏に、ふと、あの最初の城塞の夜が浮かぶ。

 薄暗い執務室で、どこか呑気に天蓋を揺らしていた姿とは似ても似つかないものだと、思わず微かな苦笑いが浮かんだ。


「お前は、この世界を憎むか。力の有無に左右され、弱き者がただ虐げられ、お前のようなものを生み出したことが許せないか」


 その問いに対する返答はなく、ただ彼の頬を牙が掠めただけだった。


 アルベルトは彼女を次第に部屋の奥へと追いやりながら、ゆっくりと歩を進める。

 倒れた男からは少し距離が空いたが、ユーフォリアがもはやそちらへと固執しなくなったことを確認してから、アルベルトは剣を構え直した。


 先程よりずっと鋭く速くなった爪が、暴風のようにアルベルトの身を襲う。


 やがて力任せに剣を弾いた彼女の右手の中指が、彼の腕に半分程度埋まった。それを支点に振り上げられた脚を剣身で受けると、アルベルトはそのまま剣を振り切る。

 宙を舞ったユーフォリアの身からは点々と血が散ったが、滑るように床に着地した脚には既に傷跡すら消えていた。


 逆立った青黒い毛並みの中から、輝く双眸がこちらを射抜く。

 それを真っ直ぐに見据えながら、アルベルトは再び口を開いた。


「お前の学んだ歴史には、記録されていないことがある。元来魔力をもたぬ人間に、魔獣の血を引き入れ、力と格差を生み出したのは、ヴァルトハイムをはじめとした原初の貴族だ」


 的確に急所を狙い続ける爪と牙とを捌きながら、アルベルトは低い声で淡々と告げる。


 遥か昔、魔力は持たずとも魔獣に干渉することのできた血族が、その身に力を取り入れた。

 魔獣の力を引き継いだ者のうち、直接血液を摂取できる形質を持った者たちが国を興し、他の血族は幾つかの家に分かれ、それぞれが人間を従えた。

 それはやがて、王族や貴族、平民といった身分となり、さらに長い時をかけて原初の家には魔獣の血の濃い者が集まり、市井には力を持たない者が偏るようになった。


 王国の歴史書になど載るはずもない伽話を、アルベルトはかつて祖父から聞かされた。

 力の集権と搾取という歪みを憂いた前当主は、幽閉され、そして死を迎える前に、次代にその呪いを継承させた。



 アルベルトは、まさに今眼前を掠めた細い腕を掴んで上へと引き上げる。


 ユーフォリアの足先が微かに浮き上がり、掴まれていない方の手の爪が抗議するように腕へと深く突き立てられた。


 尖った指先が肉を抉ることにも顔色一つ変えず、アルベルトは吊るされたユーフォリアの目を真っ直ぐに見据える。


「ユーフォリア、お前は、我らが生み出した歪みの、最たる被害者だ。故に、世界への恨みや絶望に溢れ、生の終わりを望むというのであれば、私がこの手で責任を果たしてやるつもりだった」


 ユーフォリアが酷く不愉快そうに身を捩る。

 その様子をじっと見据えながら、アルベルトはまたあの夜を思い出していた。


 望まずして魔獣の血を受け継がされ、一方的に搾取され続けてきた少女。


 それでも彼女が罪無き民ごと国を滅ぼそうというのであれば、その前に命を絶ってやるつもりだった。


 それが、王国騎士団の長としての責務であり、呪われた血を引く者の使命だと思っていた。


 しかしあの暗い新月の夜、薄闇の中で微かに光を放つ金眼に射抜かれた時、それらを忘れてただ一瞬、見惚れてしまった。



 不意に腕を離され、床に四つ足をついたユーフォリアが、天を仰いで鋭い咆哮を上げる。

 応接室の空気がびりびりと震え、壁際で燻っていた燭台の火が激しく燃え上がり、動けぬままこちらを眺めていた男が胸を押さえて呻き声を漏らした。


 元来他者への干渉を得意とした彼女は、相手の魔力を暴発させて命を殺めるのに、もはや触れることすら必要としなかった。


「っ……ぐ……」


 身体の内側から強制的に力を掻き混ぜられるような感覚に、アルベルトの剣先が初めて揺らぐ。


 ユーフォリアの爪と牙とを受けながら、アルベルトの足は次第に下がり、先程彼女の血が注がれていたグラスの破片を踏み砕いた。


 振り切られた剣を躱したユーフォリアの身体がふわりと浮かび上がり、両手がアルベルトの首と肩へと深く食い込む。


 鋭い痛みと、腹の辺りに彼女の両足があることを感じながら、アルベルトは先程よりずっと近くなったユーフォリアの顔を見た。


 変わらず煌々と輝く金の双眸からは、透明な雫が流れ、頬を濡らしていた。


「ユーフォリア、お前を、愛している」


 そう囁いて、アルベルトが静かに剣を下ろし、反対の手で彼女の頬を拭うようになぞった。


 同時にユーフォリアがその身を床へと押し倒して馬乗りになる。深々と腹に突き立てられた爪が臓腑を抉り、首の側面には尖った牙の先端が埋まった。


 アルベルトは柄を握っていた手を開き、覆い被さる彼女の身体にそっと両腕を回す。

 肩の辺りで乱雑に切られたらしい血泥に汚れた髪は、それでもあの頃よりずっと指通りがよく艶やかで、薄く骨張っていた身体は細くともしっかりと肉が付き、剣士の身体らしく鍛えられていた。


「ユーフォリア、愛している。必ず止めるという約束を違えることを、許さぬというのであればそれでいい。元来呪われた身で、何より美しいお前に殺されるのであれば、私にとって、この上ない僥倖だ」


 アルベルトはそう言って、口端から血を流しながら嬉しそうに目を細めた。


 貴族制を瓦解させ、占有していた魔力の血筋を市井に行き渡らせ、王族の悪行をつまびらかにし、歪まされた国をあるべき姿に戻す。

 その改革の後で、アルベルトは幽閉した現当主諸共、自らも家と共に消えるものと断じていた。


 その進むべき道の最中で、歪みの象徴たる少女の存在を知った。

 執務室へとおびき寄せた彼女は、想定していた恨みや絶望などは少しも感じさせず、明日の確証も無い劣悪な環境の中でそれでもただ純粋に生きようとする姿は美しく、そして、これを殺すことは自分には不可能だと一目で理解した。


 目指すべき理想のため、行わなければならないことはまだ幾つもあるが、少なくともヴァルトハイムを含めた古い貴族と、それから王族を糾弾するために必要な材料であれば、城砦の執務室に残してきた。


 恐らくはそれを引き継ぐであろう口煩い男のことを思い出し、アルベルトは微かな笑い声を漏らす。

 彼とこの娘が、毎晩を休ませようとするために、想定よりも準備に時間がかかってしまった。



 少し冷たくなってきた指先で、アルベルトは彼女を抱く力を僅かに強める。


 しなやかな身体が、巻き付く腕へと抵抗することはなく、ただ彼の首筋には、火の手の上がる室内の空気よりもずっと熱い吐息が触れた。


「ユーフォリア、お前がたとえ人間を手放したとて、お前はもはや、罪無き民を無差別に殺める獣ではない。私と、そこにある男を弑した後は……お前の意思に従え」


 首元に埋まる頭へと囁くように最後にそう告げると、アルベルトは目を閉じて全身の力を虚脱させる。


 牙が一層深く食い込む感触があり、同時に力の奥底へと干渉されようとした時、不意に身体に埋まる異物が引き抜かれた。


 次いで軽くなった身体に、アルベルトは咳込みながら彼女を見上げる。


 身を起こして上を向いたユーフォリアの顔は、彼の位置からは見えなかった。


「ぐ……ユーフォリ、ア……」


「……」


 まるで永遠のような一瞬の静寂の後で、黙って天井を仰いでいたユーフォリアの腕が微かに動く。


 指先が硬いものに触れた瞬間、彼女の手は素早くそれを引き寄せた。


 剣先が強く床を突く鈍い音と同時に、弾みをつけてユーフォリアは立ち上がり、柄を握ったまま扉の方へと二本の足で疾走する。

 走りながら振り上げられた剣先が美しい弧を描き、そこに横たわる男の身を両断しようとした刹那、再びアルベルトの声が響いた。


「ユーフォリア!」


 怒声を掻き消すように、炎で焼き切れた照明が天井から落下して激しい音を立てる。


 上体を僅かに起こしたアルベルトの視線の先では、剣先を男の喉へと突きつけた状態で、動きを止めたユーフォリアが大きく肩で息をしていた。


「わ、たし……わたし、は……私は、王国、騎士団……副団長の、ユーフォリア。魔獣の持ち込み、及び飼育、殺人、国家転覆の疑いで、貴方を捕縛します」


 次第にはっきりとした声で、ユーフォリアはそう言い切り、周囲を見渡して足元にあった大きな布を拾い上げる。

 強く握った剣を少し乱雑に床へと突き刺し、両手を空けると、既に意識のない男の身体をぼろぼろになったテーブル掛けで手早く縛り上げていった。


 すっかり簀巻きとなった男の身体を、苛立たしそうな顔で軽く蹴ってから、ユーフォリアはその場に座り込み、ばたりと仰向けに倒れる。

 逆さまの視界に入った扉の向こうは、炎の激しさを増しており、この部屋にあった火種も既に壁を焼いていた。


「アルベルトー……生きている……?」


 熱くなってきた床に背をつけたまま、酷く気怠げな声でユーフォリアがそう言った。

 アルベルトは首を抑えながら、半分起き上がり掛けていた上体を完全に起こし、大きな腹の傷から零れ落ちた赤黒い液体に苦笑いを浮かべる。


「辛うじて、だな。加減をしてもらえたことに、礼を言おうか」


「んー、頑張って外まで出られる? 私、これ引き摺っていく」


 ユーフォリアは弾みをつけて起き上がり、簀巻きの片足を無造作に掴む。


 そのままずるずると引き摺りながら、火の手の薄い窓の方へと歩き、再び手にした剣でそれを粉々に叩き割った。


 少し緩慢に立ち上がってそれに続いたアルベルトは、屋外の冷たい空気を頬に感じながら、ユーフォリアの頭へ撫でるようにぽんと手を置いた。

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