ep.21 記憶

 初めの記憶は、鉄格子越しに見上げた大きな月だった。


 錆びた格子の隙間から見えるその光は、暗い石牢を暖かく照らしてくれるようで、全身の傷跡を冷たく浮かび上がらせるようで、そして何かを駆り立てるような熱さをいつも感じた。



 記憶の光へと手を伸ばして、じゃらりと重たいものが擦れる音が耳に届き、ユーフォリアの意識はぼんやりと現在に返る。


 酷く頭が痛み、汗ばんだ身体が少し不快だと思った。

 重い首を動かして、周囲を見渡す。かすみかけた視界に映る石の床は、長年を過ごした牢を思い出させた。



 四面を石に囲まれたあの空間は、今と同じように、殆どの場合において静かだった。

 耳に届くのは、身体が石床に擦れる音と、少し湿った藁山の崩れる音、それから厚い壁を隔てて上階からたまに人間の会話が聞こえてきた。


 たまにどうしようもなく身体が熱くなる夜には、屋敷の中の人間の気配が多くなり、牢の中で身を吊るされて手や足を斬られた。


 初めのうちは痛みと不快感に抵抗を試みようとした気もするが、流れ出る血が全て掻き集められる頃には概ね傷は治っていたので、少し耐えれば終わることだと考えるようにしたのだと思い出す。



 ぞわりと腹の内で持ち上がりかけた熱に、ユーフォリアは再び意識を今に引き戻す。


 玄関ホールで倒れた後、気が付いたらこの石牢であったので、恐らくは屋敷の地下かどこかなのだろうと思った。

 魔獣を使役していた初老の男は、何度かこの牢を訪れては、こちらの魔力に干渉しようと試みている。


 あの時、意識が弾け飛ぶ寸前に、男の血のついた指が舌先に触れたことをユーフォリアは思い出していた。


 つまり一種の体液交換であり、どうやらこの身に流れる魔力が男の目的なのだと察したため、身に触れられそうになった時には腕に噛みついてやった。


「もう、少し……我慢、して……のど、噛んでやれ、ば、良かった……」


 額に汗を浮かべて、今にも暴れ出しそうな奔流を押さえつけながら、ユーフォリアが掠れた声で呟く。そしてすぐに、殺しては駄目なのだったと思い出し、熱い息を吐いた。


 重い瞼を下ろして、心の中でレオネルに謝罪の言葉を告げる。御前試合の時よりも加減せずに吹き飛ばした身体は、きっとまた何本か骨が折れたことだろうと思った。


 副団長に就任する時に、彼と交わした約束を思い出し、また内から込み上げかけた熱にユーフォリアは強く奥歯を噛み締めた。



 息苦しさのようなものを感じて喘ぐように空気を取り込むと、いやに苦そうな匂いが鼻をつく。


 牢の中に置かれた香炉は、男が何度目かにやって来た時に置いていったものだったが、その目的は察せど匂いの方はとても不愉快だと思った。



 あの石牢に繋がれていた時、出される飯のほとんどは苦いか酸いかのどちらかで、しかも量も僅かであったため、いつも腹を空かせていた。


 空腹は、しばしば寒さのようなものを感じさせ、それがまた一層気に入らなかった。

 何故このような不快を感じねばならぬのかと、初めのうちはそのようなことを思っていたような気がする。


 ――申し訳ございません、お嬢様! どうか、今は……! 私が必ずやいつか、ここからお連れします、ですので……どうか……!


 また体内で魔力が膨らみ、暴発しそうになった時、脳裏に苦痛を滲ませた声が響いた。


 ユーフォリアはまた目を閉じて、記憶の糸を探る。


 その会話があったのは遥か昔、満月による力の増幅と、痛みや空腹による不快が抑え切れず、給餌に来たシキを傷付けた時のことだった。


 負傷した右目を抑えることもなく、両手でこちらの肩を強く掴み、懇願するようにそう言った彼女の表情を見て、それでは『いつか』を待とうかと、そう思ったのだったと思い出した。


「シ、キ……グレ、アも……怪我、させ、て……ご、めん……」


 唸り声を上げそうになる喉を堪えながら、ユーフォリアはまた呟いた。


 ここを打開する方法は思い付きそうにないが、少なくともこの奔流に身を任せれば、今まで関わって来た人間たちが嫌な思いをするのだろうということは理解していた。


 閉じた瞼の向こうで、多くの人間たちの顔を何とか思い浮かべてみる。

 屋敷に住む使用人たちと、彼女らと共に訪れる市場の人間、小隊や訓練場で馴染みとなった隊士、巡回中に知り合いになった貴族や平民。


 記憶を遡るようにして、表情や会話を点々と脳裏に並べ、そしてあの城砦の夜が浮かんだ。



 王国騎士団長の暗殺を命じられ、執務室に忍び込んだ新月の夜。薄闇の中で琥珀色の瞳と目が合った時、何やら不可思議な高揚感のようなものを感じたことを思い出した。


 半獣の身を屋敷に引き入れた奇特な男は、愛しているとそのようなことを言って、こちらが剣を知りたいと言った時も、隣の立場を求めた時も、いつでも己の好きにさせた。



 望んだ地位を与えられておいて、今回の失態は、さぞや彼を困らせるに違いない。

 また謝罪を呟こうとして、ユーフォリアの喉は声を発する直前でぴたりと動きを止める。


 あの男が自分に対して望むものはそれではないと、漠然とした確証があった。



 ユーフォリアはゆっくりと目を開き、無言のまま鎖に繋がれた腕に力を込める。


 このような冷たい牢で、身体の動きを制限されていることは不愉快だった。香の匂いも気に食わなければ、ここに繋いだ人間のことも、己の魔力を利用して何かをしようとしていることも、魔獣を駒のように使役していることも不服だった。

 初めの屋敷で閉じ込められていた石牢も、許可なく身体を刻まれることも、不味い飯も空腹も、見知らぬ人間を殺めねばならぬことも納得がいかないと思った。

 月が満ちて体内で込み上げ暴れ回る熱も、月を無くして欠乏する空虚で冷たい熱も、時折抑え切れない獣の衝動も、そのような存在が世界に己一人であることが、決して許してはいけないことだと思った。


 ユーフォリアは、今こそようやく理解した。

 アルベルトがずっと彼女に求めたものは、彼女が他者の強制を受けず、彼女自身の意思をもってして生を送ることだった。


 拘束具に擦れた手首の表面が破れ、微かな痛みと合わせてまた新鮮な血の匂いが鼻に届いた。


 全身の毛が逆立ち、喉が戦慄く。その不快を解放するように天を仰ぐと、振動が石牢の壁を震わせた。


 腹底で大きく持ち上がり、無限に湧き上がって燃えたぎる感覚。

 ずっと感じていた不可解な熱の塊。



 意識を手放す寸前に、それは怒りだと理解した。

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