ep.11 人間と魔獣 (2)

それは、城までの道のりを半分程進んだ時だった。


 次第に厚くなった雲は少し前から大粒の雫を降らせていたが、濡れた髪を煩わしそうに振っていたユーフォリアが、不意に何かに反応したように天を見上げた。


 金色の瞳の瞳孔が細くなり、水滴の付いた髪の先が微かに逆立つ。急にその場を飛び退いたかと思うと、彼女が今し方立っていた地面には赤い羽根が数本突き刺さっていた。


「レオネル! 敵!」


「分かってる! お前ら、上だ!」


 ユーフォリアが鋭く声を上げ、それよりも大きな怒声が辺りに響く。隊士らは即座に剣を構え、頭上の雲の間から姿を現した魔獣に息を飲んだ。


 赤い翼を有したその魔獣は、羽ばたいている両翼を完全に広げれば、長さは大の男三人分を易々と越すだろう。


 鋭く尖った鉤爪に、大きく抉れたくちばし。頭頂に生えた長い羽根と、見た目は大きな鳥のようだったが、明らかに普通と異なるのは金色の目玉が三つ、こちらを真っ直ぐに見据えていることだった。


 何度か空中で羽ばたいた魔獣が、巨大な翼を折り畳み、風を切って落ちてくる。嘴の切先を剣で弾き返して、ユーフォリアは地面を滑るように下がった。


「レオネル、これ、引き離す!」


 それだけを言って、ユーフォリアが怒声を背に受けながら、少し先にある森の方へと駆け出す。再び宙へと浮かび上がった魔獣が、その後を追うように滑空した。


 本物を見ることは初めてだったが、この魔獣は本で読んだことがある。豊富な体内魔力を持ち、再生能力に優れ、そして同じく魔力の豊富な魔獣を襲って餌とする。


 ちょうど今は繁殖期の筈で、腹が減っているのだろうとユーフォリアは思った。彼女の父となった魔獣とは、生息域も習性も近いことから、時期によって互いに喰ったり喰われたりする関係である、と書物の内容を思い出す。


「肉が硬い。屋敷のご飯の方が、ずっと美味しそう」


 森の中ですれ違いざまに胴体を軽く斬りつけながら、ユーフォリアが不満げにそう呟いた。


 与えた傷と引き換えに上腕から噴き出した血を軽く舐めて、既に治りかけていることを確認してから上空をじっと見る。


 魔獣の胴体も既に完治しているようで、これは長丁場になりそうだと思った。魔獣の甲高い咆哮が辺りをつんざく。恐らくは威嚇であろう轟音に、ユーフォリアは一層顔を顰めた。


「うるさい。お腹空いた。早く殺して夕飯までに帰る」


 通じる訳もない文句を言い終わると同時に、ユーフォリアは地面から木へと飛び、そこから更に上空へと舞い上がった。



 雨足は一層強くなっていた。魔獣の背に飛び乗ったユーフォリアが、腹に刺さった数本の羽根を煩わしそうに振り落とし、そのまま足下の肉へと剣先を深々と突き刺す。


 宙に浮かぶ巨躯が大きく揺れ、きり揉みながら地面の方へと落下した。ずるりと剣から手を滑らせて、ユーフォリアの身体が泥濘へと叩きつけられる。


 すかさず降ってくる赤に少し身体を捻って、深々と脇腹に突き刺さった嘴を両手で掴むと、起き上がる反動で後方へと投げ飛ばした。


 泥の中に落ちた剣を拾って、ユーフォリアはため息を吐く。


 これだけ消耗したならば、いい加減に捕食を諦めればいいものを、執拗に狙ってくるということは相当腹が減っているか、もしくは栄養が必要な状態なのだろう。


「お前、子供いるな。雛の肉なら、柔らかいか? 巣、何処だ?」


 ぐう、と腹を鳴らしながら、ユーフォリアが魔獣へと問う。返答は無く、十本前後の羽根が飛ばされただけだった。


 右腕に数本刺さったそれを口で引き抜き、吐き捨てて、手にした剣を足元へと刺す。


 一声咆哮を上げて、両手が自由になったユーフォリアが地面を蹴った。


 空中へと逃げようとした巨躯へと飛び掛かり、暴れる身体へと深く爪を埋める。


 他よりも少しだけ皮の薄い喉笛へと噛み付くと、甲高い鳴き声が空気を裂いた。


 血を流しながら魔獣の首がぐるりと回り、太い嘴がユーフォリアの背を貫く。


 牙を離したユーフォリアの身を再び地面へと叩き落とし、その細い身体を上から潰すようにして鉤爪が彼女を捕らえた。


 硬いものが数本折れるような鈍い音がすると同時に、ユーフォリアの手足が微かに跳ね上がって、泥の中へとべちゃりと落ちた。


「――ユーフォリア‼︎」


 不意に周囲に響いた怒声に、魔獣の三つの瞳がその声の主の方へと向けられる。


 人間という種は、さほど魔力が高くない個体が多いが、しかし爪も牙も持たず餌にするには容易である。


 ひとまずは魔力枯渇により治りきらない傷を癒そうと、魔獣は鉤爪でユーフォリアを掴んだまま飛び上がり、大きく目を見開き剣を構えるレオネルに向かって滑空した。


「レオ、ネルは……アルベ、ルトに……必要な、人間、だ」


 口内に溢れる血の中からユーフォリアはそう呟くと、自らを掴む魔獣の足へと両手の爪を突き立てる。


 金の瞳が光を増したかと思うと、彼女の身体から膨大な魔力が魔獣の体内へと流れ込み、全身の魔力組織へと干渉した。


 まるで雷に打たれたかのように、空中で巨躯が弾かれるように動きを止め、そのまま重力に従って地面へと落ちる。


 力無く泥の中に横たわった頭の中央で、三つの瞳がどろりと溶けて流れ出た。


「ユーフォリア、おいユーフォリア!」


 慌ててレオネルが魔獣の死骸へと駆け寄る。彼が辿り着くよりも少し早く、赤い羽根の生えた身体が一部分だけ持ち上がり、その下から蹌踉めきながらユーフォリアが姿を現した。


 鎧の胸元は大きくへこんで砕け、手足はそれぞれ一本ずつ妙な方向へと曲がっている。


 立ち上がったユーフォリアは、ゆっくりとレオネルの方へと振り返った。


 強く輝く金の双眸が、立ち竦む男の目をまっすぐに射抜き、いつの間にか弱くなっていた雨の最後の一雫が彼女の鼻を打つ頃には、深く切り裂かれた頬と千切れかけた左耳は治り終えていた。

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