ep.3 屋敷での生活Ⅰ (2)
二階の寝所へとユーフォリアを案内し、部屋に置かれた最小限の家具、机や椅子、衣装棚といったものを一通り説明して、目を瞬かせて寝台をふかふかと押す彼女に一応枕や掛け物の使い方も教えてから、グレアは一礼して廊下に出た。
少し歩いて大きな扉を携えた一室の前に立つと、躊躇いなくそれを二度叩く。短い返事があってから、グレアは、失礼します、と主の居室へと足を踏み入れた。
「どうだ」
これまた端的な問いに、グレアは小さなため息を吐く。極たまにしか屋敷に戻らない彼女の主は、話もそこそこに重要なことを決めてしまうことが昔から多かったが、それにしても今回の件はもう少し説明が欲しいと思った。
「お部屋には案内致しましたが、あの様子を見るに、寝台で眠ることも初めてなのではないですか? それであれば、もっと硬いものにするなり、床に布を敷くなり、やりようはございました。明日の朝、お嬢様が隈を携えていたならば、それは旦那様の御配慮不足です」
「ふっ……相変わらずだな」
執務机の椅子に座ったまま、向き合っていた書類から顔を上げて、アルベルトは笑い声を漏らす。生家から連れ出したような形でこの屋敷に住まう彼女とは、幼い頃からの付き合いであるためか、しばしばこのような小言のような物言いをされた。
笑い事ではない、とグレアが声のトーンを低くする。最初に纏っていたボロ布、そして湯浴みの時に見た傷痕の多い身体、相当な訳有りであることは容易に推測出来た。
「……出来る限りの配慮はしたつもりですが、怖がらせてしまったようです。浴場に、忌避感があるのでは?」
「ああ、その件については話をした。私も出来る限り聞き出すが、彼女を傷付けるような言動は避けて欲しい」
「無論です。全く、旦那様は言葉足らずが過ぎます。それでなくとも見ず知らずの屋敷に連れて来られているのです。やり過ぎなぐらいに心配事を取り除いて差し上げて丁度良いと思いますよ」
そう一息に言って、グレアが一礼して部屋を出ようとする。その背中に、アルベルトが低い声を掛けた。
「……苦労を掛ける。だが、決して悪辣な娘ではない。悪いようにはするな」
「それも無論です。私たちは皆、旦那様の無理難題には慣れております。それに……お夜食を食べた時のお嬢様の顔をご覧になられましたか」
その場で振り向いて、グレアは至極当然のことのようにそう答える。その脳裏に、つい先刻、広間で軽食を前にしたユーフォリアの姿が思い浮かんだ。
時間も時間であったため、パンに野菜や肉を挟んだだけの食事に、彼女は酷く戸惑ったような様子を見せ、匂いを嗅いでから恐る恐る口へと運んだ。
「――あんなに美味しそうに食事を食べる人間に、悪い者はおりませんよ」
最後にそう言って、グレアは小声で笑いながら部屋を後にした。
◇
数日後、厨房でユーフォリアがグレアを吹き飛ばし怪我をさせたと聞いて、アルベルトは自室での執務を中断し、使用人たちが寝泊まりする居室へと足早に向かった。
扉を開けると、寝台に上体を起こしたグレアが、その側に座るユーフォリアの手を握っている。頭に包帯が巻かれているものの、顔色といったものに別状はなさそうで、アルベルトは微かな安堵の息を吐く。
「何があった」
一歩踏み入りながらそう問うと、ユーフォリアの肩が揺れた。彼女が振り向くよりも早く、グレアがあからさまに顔を顰める。
「旦那様、もう少し柔らかな物言いをお願い致します。見ての通り、何でもございません。この子はただ、約束を守っただけです」
一時間程前、グレアはユーフォリアを連れて厨房で昼食の支度をしていた。
主として彼女の世話を焼いていたグレアには既に、この少女が普通の生活をしていたにはあり得ない程に物を知らず、そして何にでも興味を示すのだということが分かっていた。そこで勉強を兼ねて調理の過程を見せてやったところ、やはり彼女は面白そうに目を瞬かせて食い入るようにそれを見学した。
ふと、そこに、窓から一匹の羽虫が入り込んだ。動物の魔力に釣られてやってくるこの虫は、今頃の時期になるとたまに見かけるものだったが、ほんの僅かな毒を持っており、小さな棘で刺されるとその痕が数日痒みを伴う。
グレアはそれを、何気なく叩き落としてやろうと手を振り上げた。瞬間、駄目だ、という鋭い声と同時に彼女の身体はぶわりと浮き上がり、すぐに落下するとその衝撃で頭上の棚から麺棒が落ちてグレアの額を直撃した。
「……ごめんなさい」
話が終わる前に、アルベルトの目の前にはユーフォリアが立っていた。まるで叱られた子供のように肩を落とし、だらりと下された手は服の裾を掴んでいる。
その指が白くなっていることに気がつき、アルベルトは少し身を屈めて、そっと彼女の頬に触れた。怯えたように跳ね上がった肩に、怖がらせてすまない、と出来る限り柔らかな声で告げる。
「旦那様と最初に約束したのでしょう。『意味無く他者の命を奪わない』と。不必要に殺生をしようとした私に非があります」
グレアの言葉で、アルベルトはようやく状況に合点がいった。ゆっくりと腕を伸ばして、細い肩を抱き寄せると、微かに震える身体が彼の胸へと倒れ込んでくる。
「怯えさせてすまない。私との約束を守ろうとしたことに、礼を言う。……次は、お前の作った食事を食べてみたい。頼めるだろうか」
「……ん。グレア、また教えてもらえる?」
「ええ、勿論ですとも。夕食はご一緒に、スープを作るのを手伝って貰えますか?」
寝台から降りながら、煩わしげに包帯を取ったグレアが、少し赤くなった額でそう答え、ユーフォリアはアルベルトの腕の中で頷いた。
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