第5話 声

 午後の図書館。

 静寂に包まれた空間で、ページをめくる音と、ボールペンのカリカリという音だけが響いている。


 私は今、まどかと並んでレポートを書いている。

 目の前にはレジュメ、手元には参考書。そして隣には、ソワソワしている親友の変態。


「……ねぇ、あかり。あの子の声、聞いた?」


 まどかが、小声で話しかけてくる。


「誰?」

「右斜め前、ヘアピンしてる子。今さ、『ふぅ……』って、めっちゃ色っぽい吐息出してなかった!? あれ、完全に無自覚殺しでしょ!」

「静かにして」

「いやでも、あの吐息の余韻がまだ脳に残っててさ……私、今、脳があったかい」

「図書館だから」

「わかってる、わかってる……でもさ、私、声フェチかもしれない……」


 そのときのまどかの表情は、何かに開眼した人のそれだった。


「声って個性出るじゃん? 高い子、低い子、息多め、語尾が甘い、滑舌いい、悪い……そういうの全部、『その子の輪郭』みたいな気がして。特にささやき声って、もう反則だと思うの。耳をくすぐる感じのやつ……脳の奥の奥に届くやつ……あれもう合法の兵器じゃない? 私の鼓膜が今、歓喜の舞してる……!」

「抑えて」

「声ってさ、耳に入って、脳に響いて、それで心まで侵食してくるんだよ? それってもう恋じゃん。声が恋なの。これ名言じゃない?」


 自分で名言認定してどうする。


「しかもさ、図書館っていうこの静かさがまた罪深いの。余計に小声が際立って、もう、破壊力が倍増してるわけ。ちょっとした息遣いすら、全力で感じ取っちゃう!!」

「ちょっと黙ってろ」


 あまりに熱量が高くて、さすがに周囲の視線も感じるようになってきた。

 私はまどかの袖を引っ張って、じっと目で訴える。

 まどかは一瞬だけ口を噤んで、しゅんとした。

 けれど数分後には、やっぱり耐えきれなかったらしい。


「ねぇ、あかり。あの子、ちょっと見て……」


 突然、耳元に息がかかる。

 近い。距離が近い。いや、これはもう距離ゼロ。


「あの子、めちゃくちゃ可愛くない……?」


 まどかは、無意識だった。

 ただ静かに伝えようとしただけ。図書館だから、小声で。自然なこと。

 でも――。

 耳元で囁かれた私は、もうだめだった。

 ぞわぞわとした電流が背筋を駆け抜けて、変な声が出そうになるのを、全力で押し殺す。


「ちょ、近……っ」

「ん? 何か言った?」


 まどかはケロッとした顔で、何も気づいていない。


「いや、なんでもない」


 私はそう返すのが精一杯だった。

 ……ほんと、無自覚って残酷だと思う。

 鼓膜にまだ残るその声の余韻に、私はしばらく、文字が読めなかった。

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