おひとり様の異世界療養記
天羽珀
第1話 ふしぎな森の小さな灯り
通院の為、都内にある自宅マンションの扉をくぐると、そこは見慣れた住宅街ではなく緑あふれる異世界の森だった――。
これはひょんなことから異世界転移を果たした私が、「おひとり様」と、人外たちとの「異世界スローライフ」を満喫しながら適応障害の
*
都内某所のマンションの一室。締め切った遮光カーテンのすき間から差し込んでくる日の光に目を細めながら、思わずため息が漏れる。
「……また眠れなかった。でも、そろそろ起きなきゃだ」
平日の昼下がり。比較的飲食店が充実した自宅周辺のエリアからは、ランチ時間になるとお昼休憩中のサラリーマンたちが談笑しながら行き交う声が聞こえてくる。
楽しそうな談笑を背に、真っ暗な部屋のベッドから何とか抜け出し、洗面台で顔を洗う。そして心底億劫な気持ちを何とか奮い立たせてメイクを始める。
鏡に映った自分の顔は酷くやつれていて、目の下には濃いクマが居座っていた。
「……ひどい顔」
少し前までは私も窓の向こうの――あちら側の人間だったはずなのに、今ではなんだか世間から取り残されてしまったような感覚を覚えて、急激に焦りや不安に駆られる日々を送っている。
25歳で転職を機に、親元を離れ、上京して3年。職場の人間関係が原因だった。平日のある朝、突然ベッドから起き上がれなくなり、休職を余儀なくされた。
そして現在、28歳の私は都内OLという肩書きがいつ消えてもおかしくない絶賛休職中の引きこもり女だ。
医師から適応障害と診断されて早3ヶ月。
今日は2週間に1度の頻度でやって来るメンタルクリニックへの通院日だというのに、前日から普段以上の不眠に襲われていた。
それに加えて適応障害になってからというもの引きこもりがちな状態がデフォルトになってしまい、外出するという行為のハードルが極端に高くなっていた。
それまでの自分にとってあたりまえに出来ていた事やモノが、何ひとつ機能しなくなる脳の病気。それが適応障害。
元々は暇さえあれば、外へ繰り出すのが好きな人間だったはずなのに、今はとにかく何をやるにも気力が起きない。特にメンタル不調がひどい時は、意識はあるのに1日天井を見上げているだけで終わってしまうこともあるくらいだ。
休職してから毎日、何度も、何度も考えてしまう。あの時もっと自分が行動していたらと、過去の自分自身の言動を幾度となく頭の中で
メンタル不調に気付く前から初期症状として表れていた不眠。今では気絶するように2時間ほどの短い睡眠を繰り返し、夜中に何度も起きてしまう
疲れ果てながらもようやく眠れたと思っても、なぜか出勤していた頃の起床予定時間の2時間前には目が覚めてしまう。
症状について医師に相談すると、まずは軽めの薬を服用して様子を見ていこうと言われた。この病気とはどうやら焦らず、気長にやっていくしかないみたいだ。
「さてと、……そろそろ出なきゃ」
洗面台を離れ、おくすり手帳や財布が入った通院用のトートバッグを肩にかけ、玄関へと向かう。
スニーカーに足を通し、姿見を
「行ってきます」と、誰もいない部屋に向かってつぶやき、暗い玄関に差し込んだ日の光に目を眩ませながら玄関の扉をくぐる。
次の瞬間、眩んでいた目がようやく周囲の状況を把握できるようになると、そこでようやく自分の置かれる状況の異変に気付いた。
「え。ちょっと待って――ここどこ?」
普段であれば、今頃見慣れた住宅街とマンション裏に設置された公園で遊ぶ小さな子供たちの声が耳に届くはずだけど、目の前には見慣れた住宅街ではなく――緑あふれる異世界の森が視界いっぱいに飛び込んできた。
焦る気持ちを抑えて扉に向かって振り返ると、そこにあったはずの扉は跡形もなく消えていた。
「……うそでしょ」
一体何が起こっているのかも分からずに、パニックになりそうなのを何とか堪えながらひとまず周囲の状況を把握するために辺りを見渡す。
その森は、一目で先ほどまで私が居たはずの世界とはまるで別世界であることが分かった。
目の前に広がる木々は、深い紫色と青色の葉を茂らせ、枝の隙間から漏れる木漏れ日は柔らかく暖かい。
足元には、星形の白い花がふわふわと浮かび、触れると甘い香りが漂う。星形の花に触れると、パッと光って消え、空気が甘く軽くて、初めて深く息が吸えた。
空は穏やかに、雲がゆっくりと渦を巻きながら流れていく。
耳をすませば遠くからは、風が鈴のような音を奏で、どこかで耳心地の良い小さな歌声が響き合っているようだ。
それはさながら新米冒険者の不慣れな旅の始まりに、そっと背中を押すように流れるBGMのようだった。
その森の奥には、木々の間でひっそりと佇む小さなログハウスがあった。
蔦が壁を覆い尽くし、屋根には厚い苔が緑の毛布のように広がっている。
丸太でできた外壁は風雨に晒されて黒ずみ、ところどころに赤いキノコが顔を覗かせている。
窓は小さく、ガラスではなく薄い膜のようなものが張られていて、中から暖かなオレンジ色の光が漏れている。
一体どれ程の年月そこに
周囲の雰囲気によく馴染んでいるその様は、まるで自然と共存する生き物のようだった。
ログハウスの周りには、小さな花壇のように色とりどりの石が並び、その上をキラキラ光る虫が飛び交っている。
屋根の端からは、細い蔓が垂れ下がり、先端に小さな鈴のような実が揺れて、風が吹くたびにチリンと澄んだ音を立てる。
人気のない見知らぬ森の中で、その音だけが優しく響き合い、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。
吸い寄せられるようにログハウスに近づくと、扉を3回ノックする。
「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
その後も何度か呼びかけたものの返事はなかった。
(もしかして空き家なのかな……?)
家主に悪いとは思いつつ、そっと扉をくぐり、部屋の中に恐る恐る入ってみた。
「…………お、お邪魔しま~す」
部屋の中は長年だれも住んでいないとは思えないほど清潔感に包まれている。
キッチン1つ、シングルベッド1つ、2人掛けのダイニングテーブル1脚で構成された、8畳ほどの一人暮らしの間取りという印象だ。
(やっぱりこの家、誰か住んでいるんだ! ここで待っていれば家主からこの世界のことを教えてもらえるかも!)
どうせ他に行く当てもないし、とりあえず家主不在の家の中で待たせてもう事にした。
と、意気込んでいたもののその後、待てど暮らせど待ち人は中々帰って来なかった。
待ちくたびれた私は、ダイニングテーブルに備え付けられていた椅子に腰かけていた。
膜のような窓から見える空はいつの間にか、薄暗く――――窓辺に視線を向けたその時、小さな影がコロンと転がり、ふわっと止まってこちらを見上げてきた。
「…………っ!」
思わず腰を抜かしそうになりながら、声にならない声が出た。
恐る恐るこちらに転がってきた影の正体を観察してみると、そこにはつぶらな瞳を携えた、黒い毛玉のような生き物がいた。
「可愛い。……じゃなくて、えっと、いつからそこに……?」
「クゥ!」
「えっ、最初からいたの!?」
「クゥ!」
「そ、そうなんだ」
どうしよう。全然気付かなかった。
窓辺からふわりと浮かびながら毛玉はゆっくりとダイニングテーブルの上に着地する。毛玉が近くに寄ると、不思議と肩の重さが少し抜ける気がした。
とりあえずこちらに危害を加えそうな気配は感じないし、会話も一応可能そうだと判断して、そっと胸をなでおろす。まるで現実じゃないみたいで、でも何故かここなら休めるかもって思った。
「えっと……あなたは誰? お名前は?」
「クゥ?」
「もしかして、名前ないの?」
「クゥ」
「そうなんだ」
この子がここに住んでるのかな?と考えると、何だか安心して少し笑みがこぼれた。
「そうだ! お近づきのしるしにあなたに名前をつけてもいいかな?」
「クゥ!」
今にも踊りだしそうな勢いで、その場で嬉しそうに跳ねた毛玉。その喜びようがあまりにも可愛らしくて癒される。
「喜んでくれて私も嬉しい。……ん~、そうだなぁ」
と、考えながらも先ほどから内心では“毛玉”と呼んでいたせいか、すっかり自分の中ではその呼び方が定着しつつあった。
物は試しに、「
すると毛玉が「クゥ!」と鳴きながら、くるっと回り、卓上に乗せていた私の手にゆっくりとすり寄った。
「よかった。気に入ってくれたのね、毛玉」
「クゥ!」
「……可愛い。でも、くすぐったいよ!」
動物など飼ったことがない私は、生き物とのふれあい方がよく分からない。とりあえず毛玉がすり寄った右手の人差し指でそっと撫でてみる。
すると――「人の子」と、やさしい少年のような声が脳内に響いた。
「え? ……何、いまの? 頭の中で声がした? 毛玉なの?」
「クゥ!」
*
翌朝、しとしとと降り注ぐ雨音で目が覚めた。
ぼんやりと思い出したのは、戻りたいと何度も願ってしまう過去の自分。
適応障害になる前はこんな雨の日になると近所の図書館やお気に入りのカフェに読書しに通っていて、あの頃は楽しかったなぁと、物思いにふける。
(……最近は外出の機会自体がめっきり減っちゃって図書館もカフェもとんとご無沙汰だけど、あのカフェのたまごサンドが久しぶりに食べたくなっちゃったな)
そういえば昨日は不思議な体験をしたせいか、半年ぶりにぐっすり眠れた気がして、ベッドに潜り込んだ後の記憶がないほどだ。
こんなにスッキリと目が覚めたのはいつ振りだろう。何だか今日はいつもより調子がいい。ここ最近では一番身体が軽くて、頭がスッキリしている気がする。何だか懐かしい気分だ。
やっぱりあの不思議な体験は夢だったのかなと、寝ぼけ
「夢じゃ……なかったんだ」
そういえば昨日までオレンジ色の灯りがついていたはずの部屋の中は、いつの間にか真っ暗になっていた。
「えっと……灯りはどこだろう?」
薄暗いログハウスの中で、灯りを求めた途端、部屋の中がパッと明るくなった。
「毛玉?」と呼んでみると、枕もとから「クゥ!」と鳴きながらふわふわと浮き上がり、私のおなかの上に着地した毛玉が触手のような小さな手をゆっくりと伸ばして私の頬に触れた。
「人の子、起きた!」と、やさしい声がまた響いて、一瞬驚いた。
「おはよう、毛玉」
「おはよう、人の子!」
どうやら毛玉は私の体に触れることで、テレパシーを使って、直接私の脳内に話しかけることができるらしい。毛玉と話すと癒されて安心する。
ふと椅子の背もたれにかけていた通院用のトートバッグを見つめた。私この世界ならまた通院のいらない自分になれるのかな?
体の調子がいいせいか、何だか無性にお腹が空いてきた。真っ先に食べたいなと頭に思い浮かべたのは、やっぱりあのカフェの看板メニューである“たまごサンド”だった。
「人の子、それすきなの?」
「え? それって?」
「たまごサンドってやつ」
「え!? もしかして私の心の声、口から出ちゃってた?」
「ううん。人の子の心の声、聞こえた」
「それって読心術ってこと!?」
驚きすぎて固まる私をよそに「ん?」と、小首をかしげながら毛玉はまたふわふわと浮かび上がると、ダイニングテーブルの上に移動する。
「クゥ!」と跳ねた次の瞬間、テーブルの上に現れたのは、ふわふわの食パンに厚焼き卵がほんのり温かく、レタスと辛子マヨネーズが香る、懐かしいあのサンドウィッチだった。
「え! とってもいい香り!」
鼻腔をくすぐる香ばしいサンドウィッチの香りに誘われるように、毛玉の後を追い私もテーブルに着く。
「でも毛玉……これ、どうやって?」
「クゥ!」と、誇らしそうに小さなかわいらしい手を腰に当て、えっへんのポーズする毛玉。
「いただきます」と手を合わせて一口かじると、懐かしい味に思わず笑みがこぼれ、昔の自分を少しだけ思い出せた気がした。
久しぶりに何かしたい、食べたいって気持ちが湧いてきて、胸が温かくなった。
この世界なら、変われるかもしれない――そんな小さな一歩を、確かに感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます