第2話 初めての夜

入社して半年が過ぎた頃、

私は初めて早川さんと二人きりで

残業することになった。


普段なら他の人達が間に入ってくれるから、

彼と直接向き合う機会はほとんどなかった。


でも、この日は大きなプレゼンの資料締め切りが迫っていて、誰かが残らないといけない状況だった。


仕事にも慣れてきた自信もあったので、

私が「私、やります」と手を挙げたら、

早川さんが静かに「じゃあ俺も残るよ」と言った。


別に深い意味はないんだろうけど、

その一言に少しドキッとした。


オフィスには私たちのキーボードの音と、

空調の低い唸り声だけが響いてた。


「…早川さんって、こういう資料作り得意ですよね。いつもミスなくて尊敬します。」


気がつけば、私は早川さんに声をかけていた。

自分でも余計なことを口走ったと思う。


別に媚びたつもりはない。

ただ、静かすぎるのが耐えられなかった。


彼は画面から目を離さずに、

「慣れてるだけだよ」と短く答えた。


やっぱり壁がある。

でも、そのあと少し間を空けて、

彼が小さく付け加えた。


「新人の頃はミスばっかりだったけどね。」


その言葉に、少し驚いた。

本当に些細なことだけど、

彼が自分の過去を話すのを初めて聞いた。


「え、そうなんですか?」


って聞き返したら、

彼は一瞬手を止めて、

苦笑いみたいな表情を浮かべた。


「まぁ、人間だからな。最初から完璧な奴なんていないよ。」


その一言が妙に頭に残った。


普段は淡々としてるけど、

目を伏せながら話すその声は

自分を責めているようにも感じる。


過去に何があったんだろう?

ってさらに気になってしまった。


でも、そこから先を聞く勇気は私にはなくて、

結局「そっかぁ」と曖昧に笑って終わった。


仕事が一区切りついた頃、

「コンビニに買い出しに行く」

と彼が言うので私もついて行った。


オフィスから出て、

夜の冷たい空気を吸ったら

少しだけ緊張が解けた。


「私、おにぎり買います。早川さんは?」


「じゃあ俺も」


普段なら気にしなかったと思う。

けど、今はこの投げやりな返事が

何かを隠しているように感じた。


並んでレジに立ってるとき、

彼の横顔が街灯に照らされてて、

疲れてるんだろうなって分かるくらい

目尻に影ができてた。


帰り道、ふと彼が呟いた。


「昔もこういう風によく残業してたな。」


その声があまりに小さくて、

聞き間違いかと思った。


彼の横を歩きながら

私は何か返さなきゃって焦って、

「えっと、今は嫌いなんですか?」

って聞いてしまった。


彼は少し黙ってから、

「別に。ただ、疲れるだけだなって思うようになっただけ。」と言った。


その言葉の裏に何があるのか、

私には分からない。


でも、なぜかその瞬間、

彼がすごく遠くにいるような気がした。


次の日、

彼はいつもの早川さんに戻っていた。


淡々と仕事を進めて、

私にも必要最低限の指示をくれる。


でも、私の中で何か引っかかり始めてた。

この壁の向こう側に何があるんだろうって。


興味本位なのかもしれないけど、彼を放っておけないという気持ちが日に日に強くなっている。


私なんかにそれを覗く資格があるのか分からないけど、彼が冷めたコーヒーを口にするたびに胸がざわつくのは止められなかった。

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冷めたコーヒーが温まるまで たじま @tjm_OprO

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