片思いの暴君《きみ》に

電楽サロン

憑依と表意

 金曜の夜、人から押し出されるようにして渋谷駅で降りた。人身事故の影響で10分遅れていたせいか、いつもに増して混んでいる。

 スマホが振動する。観光客を避けながら俺はチャット画面を開く。

 「ここにいます」と石井からハチ公前の写真が送られてきていた。集合時間まであと5分もなかった。俺は集合場所へと急いだ。

 石井梨央奈は高校時代のダンス部の後輩だ。彼女はダンス経験者で、部活の中でも際立って上手かった。高校から始めた俺は、彼女にほとんど話しかけられなかった。実力の差がありすぎる彼女に、俺は負い目を感じていたからだ。それでも、石井は大学に入ってからも履修や、一人暮らしのことで俺を頼ってくれていた。

「おつかれさまです」

「ども、町田さん」

 手を振りながら石井が駆け寄ってきた。

 最初の頃こそ、互いに敬語で話していたが、気がつくと石井が先に敬語をやめていた。俺はやめるタイミングを完全に見失ってしまい、会話の立場逆転を続けていた。

 目的地へ歩きながら、俺たちは近況を話した。

「町田さん、何ニヤついてんの」

「いえ」

 石井の愚痴に相槌を打つだけで楽しかった。

「どーせ、面接なんて序の口とか思ってるんでしょ。あたしの苦労は勤め人にゃ分かりませんよ……、あっ、あれかな?」

 石井が指差す方向には、奇妙な形のビルが建っていた。

 名前を「ビザール渋谷」といった。新しく渋谷に建った商業施設だ。名前の通り、奇妙さをコンセプトにしたビルで、中には屋内動物園が入っていた。動物園の目玉は、なんといっても日本最大のマウンテンゴリラのマサルだ。

 マサルは親ゴリラとの喧嘩で片耳が欠けており、気性が荒かった。見た目のインパクトとガラス越しに突進するマサルの姿が、SNS上で話題になっていた。

「愚痴はマサルに聞いてもらいますー」

「森の賢者は面接対策できますかね……」

 俺の答えに石井が笑った。

 ころころと変わる石井の表情を見ると、自然と顔がほころんだ。ふと彼女がこちらを見上げた。視線が合い、鼓動が早くなるのを感じた。俺はごまかそうと話をずらそうとした。

「普段よりメイク抑え目なんですね」

「そりゃ就活だし?」

「いつもはアイラインとかガッツリ引いてるので……」

「……いつもの方が良い?」

 「いや、その」俺は曖昧に笑う。石井はぐいぐいと俺に顔を近づけてくる。

 今の君も好きだよ。そう言えればどれほど楽か。というかまだ付きあってすらいないし。言葉にしようとするほど、意識すれば意識するほど、頭の中は誤解を恐れる気持ちと緊張で回転した。

「ゴメンゴメン」

 そう言って石井はそっぽを向いた。アドトラックがそばを通り過ぎる。大音量のホストの声に紛れて「いくじなし」と石井の唇が動いた。

 ギクシャクとしたまま、俺たちはビザール渋谷にたどり着いた。

「劇場や屋台まであるみたいですよ」

「そうなんだ」

 石井のよそよそしい態度に、俺は胸が苦しくなった。

 一度つまづいた会話は尾を引いた。途切れ途切れに話す時間が続き、そのたびに沈黙が会話を埋めた。

 早く気分を変えようと、動物園に続くエスカレーターを上がった。

 動物園には異様な光景が広がっていた。

 殺到する客の向こう側、園の入り口には【悲しみとフードロスを超える!】と看板が出ていた。人の生暖かい体温と入り口から漂う獣臭が気分を悪くした。

「すみません、一体何が……」

 俺は人だかりの最後尾の客に尋ねた。

「マサルが死んだ」

 「えっ」石井が口を覆う。これはマサルの死を悼む客の集団なのか。

「あー、違うよ?」

 俺の疑問を察したように客は言った。

「マサルの追悼で来たんじゃ……?」

「俺はゴリラが食えるから来たんだ」

 隣で石井が息を飲むのを感じた。

「6階のケバブ屋の店主が今日のために来るんだよ。トルコもびっくりゴリラケバブさ」

「でも、ゴリラを食べるなんて……」

 じろりと客が俺を睨んだ。

「ひどいか? でも、やってたら行くだろ。こんなチャンス滅多にないぜ」

 マサルが食べられる。会うのを楽しみにしていた石井に聞かせるには酷い内容だ。

 俺は何か客に言い返したかったが、言葉が出てこなかった。

「戻ろ」

 石井が俺の手を引いて動物園を後にした。

「……なんか、思ってたのと違ったね」

 石井が笑いかける。さっきとは違う影のある表情だった。このままお開きになりそうな予感がした。

 そんな顔で笑わないでくれ。俺は自分がひどく惨めになった気がした。俺はこの場を繋げる話を探す。降りた階、目の前にあるのは劇場だった。今から始まる演目には「死後の対話」とある。名前からしていかにも怪しげだ。

「これ、行きましょう!」

 俺は石井の手を引いた。

 劇場内の座席はほぼ埋まっていた。

「町田さん、私のこと好きでしょ」

 座席につくなり、石井はそう言った。

 返事ができないうちに、照明が落ちた。ステージの幕が上がる。

「どうしてそれを」

 俺は石井に囁いたが、答えは返ってこない。

 小さな舞台には、黒衣に身を包んだ女が立っていた。四十がらみのイギリス人だった。隣には年代物の安楽椅子が置いてある。

「こちらは、英国のとある幽霊屋敷に残された椅子……。座れば、この世とあの世をお繋ぎいたします。試したい方はいらっしゃる?」

 女が会場を見渡して問いかける。

 この椅子を使って死んだ者と話せるというのか。俺は半信半疑で躊躇していると、

「あなた、やるのね?」

 黒衣の女がこちらを見た。俺の隣には、間髪入れずに手を挙げた石井がいた。

「やります」

 石井は呆気に取られる俺を見た。

「町田さんが好きなことくらい分かるよ。でも、言ってほしい時もあるかな」

「石井さん……」

「見てて。行動力はこうやってみせるの」

 彼女は振り返らず、舞台に上がった。

 黒衣の女は石井を安楽椅子に座らせ、問いかけた。

「さあ、教えて。あなたが話したいのは誰かしら?」

「……マサル。マウンテンゴリラのマサルです」

 石井は澱みなく言った。女が宙に神秘的なジェスチャーをすると、石井の首ががくんと落ちた。

 刹那、雷が落ちたように安楽椅子が軋んだ。

 大木が割れるような音は、石井が肘掛けを握り潰したからだった。

 ゆっくりと石井が身を起こした。椅子がばらばらと崩れて立ち上がる。

 石井の姿は異様だった。腰を落とし、腕をだらんと垂らしている。ぐるりと会場を見回す姿はまるで……。

 突然、石井が胸を張り、両腕を自分の胸に叩きつける。何度も何度も己の存在を誇示するように。

 静寂に包まれた会場内に、馬の大群が走り出すがごとく、石井のドラミングが響き渡った。

「本当に取り憑いたの……?」

「よく見て、耳が欠けてるわ!」

 観客がどよめいていると、悲鳴があがった。悲鳴の主は黒衣の女だった。ステージから目を離している隙に女は投げ飛ばされ、観客席に叩きつけられた。背骨の砕ける鈍い音が、人々を震え上がらせた。

 会場が恐慌状態となった。

 石井は手で地面を掴み、足を蹴り上げた。ゴリラ特有の走法で観客を蹴散らし、出口に消えた。

「レジーさん、息してねぇぞ!」

「じゃあ、どうやって魂を還すんですか!」

 黒衣の女を囲み、慌てふためく黒Tシャツの男たちの会話が聞こえてきた。どうやら彼らは黒衣の女の弟子のようだった。

「石井は……、石井はどうなるんですか」

 気がつくと、弟子のひとりの肩を掴んでいた。俺の焦りようで全てを察したようだった。

「……諦めな。レジーさんがいなけりゃどうしようもねぇ」

「でも、俺……諦めたくないんです。何かできないんですか」

 男たちが黙り込んだ後、高笑いが聞こえた。

 周りを見ても笑い声の主はいない。

《ここですよ》

「先生ッ?」

 男たちと俺は顔を見合わせた。声がレジーの死体から聞こえてきたのだ。

《霊能者が、自分の死を考えてないとお思いで? 英国に帰ったら叩き直さないといけませんね》

 男たちの顔が青ざめた。一体何が待ってるというのか。

「それよりも……」

《分かっています。あの女のことでしょう。私の首についてるロザリオを取りなさい》

 レジーの首から、俺は大振りの銀の十字架を外した。見た目以上の軽さに俺は驚いた。

《ひいばば様の大腿骨から彫り出した特注品です。それを心臓に押し当てれば、あなたのフィアンセも戻りますわ》

「石井はそんなんじゃないです」

《ホホホ!……でも》

 レジーの笑い声はおさまり、冷たい響きを帯びた。

《あなた、ご自分の行動の愚かさが分かってらっしゃる? 素手の人間は猫に殺されるほど弱い存在。剛力無双のマサルがあなたを殺すなんて簡単な話ですわ》

「ええ、分かっています」

《私がやることも出来るのですよ》

「ええ……ですが遠慮しておきます」

《どうして?》

 俺はレジーの死体を見て言った。

「石井に失望されるなら、死んだ方がマシなので」

 黒Tシャツの男たちが口笛を吹いた。

「言うじゃねえか。お前、名前は」

「町田です」

「死んだら、俺たちと英国に来な!」

「ありがとうございます」

《久々に青春を楽しませてもらいましたわ。さあ、行きなさい!》

 俺は出口に走り出した。向かう場所はひとつだった。上階に続くエスカレーターから血が滴っていた。血脂でぬるぬるしたエスカレーターを上がると、俺は胃の中を戻しそうになった。臓物と獣臭が混ざり合った臭いが立ち込めている。俺が話しかけた客のひとりが、床と一体化していた。顔が巨人に潰されたようにぺしゃんこになり、腹を破かれていた。死体は一つだけではない。床に大量の歯が散らばっていた。

「石井さん」

 園内の奥に足を踏み入れる。さらに血の匂いが濃くなった。

 お土産コーナーに設置されたフードコートを歩く。赤黒い肉塊が回り続けるそのブースで、石井は拳を振り上げてトルコ人を殴っている。拳が柔らかい肉を打つ音と、フーッ、フーッ、と彼女の荒い息遣いが聞こえた。

「石井さん!」

 彼女が振り返る。両眼はゴリラと同じく黒目で塗りつぶされていた。

 俺は拳を握りこむ。恐ろしい。さらに近づけば、ケバブを食べた奴らの二の舞を演じるかもしれない。

 だが、俺が石井を止めるしかないのだ。

 血の匂いの中に漂う、彼女の柔軟剤の香りが、俺に勇気を与えた。さらにもう一歩踏み込むと、石井はこちらに体を向けて低く唸った。小柄な彼女の身体から出たとは思えない声だった。相手の中に本物のマサルを感じた。俺は振り払うように「石井」と呼びかける。

 歯を見せ、顔を皴だらけにして彼女の中のマサルは拒否した。

 もういいだろうマサル。俺はさらに呼びかける。確かに手ごたえを感じた。

 さらに距離を詰めようとした時だった。

 石井が俺の身体にぶつかってきた。最初に触れた右手が、みしり、と嫌な音を立てた。視界が暗くなった直後、俺は7メートルほど吹き飛ばされていた。床に伏したまま、確信した。彼女の体に心だけでなくマサルの肉体も降りている。マウンテンゴリラの体重がもろにぶつかったのだ。小さな体と油断した俺は、全身が爆発する激痛に悶えた。

 石井が俺を見下ろす。表情に変化はない。照明が、顔全体に広がった怒りの皺の影を濃くしていた。

 このままいれば俺は殺されるかもしれない。よう、後悔するのはたくさんだった。

 俺は身体に力をこめる。上体を起こすだけでも大作業だった。マサルにぶつかった右手を床につくと、電流のような痛みが身体中を駆け巡った。

 それでも、伝えたいことがあった。

「俺は……お前がはじめは大嫌いだったんだ。文化祭のラスト、一年でソロをやるなんて生意気だと思った」

 石井の眼が僅かに揺れる。

「だけど、頭から離れなかった。石井はすごいよ。お前の表情、身体の動き、ふとした時に思い出す」

 喋りながら俺は気づいた。感情をぶつけるのもまた暴力なのではないか。なりふり構わず、相手の反応も関係なく思いをぶつけるのは、マサルの突進と変わらない。

 だったら、倒れるまでやろうじゃないか。

 俺を言葉を切る。

「石井。お前が好きだ。お前の顔も、お前の笑顔も。お前といる時間も全部全部、独り占めにしたい」

 俺は本心を伝えた。繕っていた敬語もなくなっていた。

 真っ黒だった石井の両眼が潤んだ。俺が十字架を石井の胸に押しあてようとした時だった。

 石井の手が十字架を握っていた。

 フーッ

 あの時の荒い息づかい。俺は石井の顔を見た。黒い肌、怒りの皺に覆われている。再びマサルの表情に変わっていた。

 怒りに近くに触れていたからか、マサルの考えていることが頭に流れ込んできた。親ゴリラとの殺し合いに近い喧嘩、好奇の目で近づいてくる毛のない猿。怒って当然だ。なりふり構わず暴れてやりたくもなる。

「でも……、石井を返してくれ」」

 俺は十字架を石井から引き剥がそうともがいた。石井の手は離そうとしても離れない。鉄の檻じみてびくともしなかった。

 石井が息を吐く。

 血管が浮き出た瞬間、石井は俺の手を握りこんだ。べきべきと乾いた音がした。砕けた十字架が俺の手に突き刺さり、指の骨が変形した。

 ぼたぼたと血が流れる。歯が砕けそうなほど、俺は噛み締めた。

 石井の顔は今やマサルそのものだった。黒い顔は暴力に酔いしれていた。

 マサルが拳を振り上げた。重い拳が俺の顔を破壊する。そう思って目を瞑った。

 目を開けても、俺の身体はそのままだった。

 代わりに、マサルの腕、肘、脚にしがみつく黒Tシャツの男たちがいた。

「皆さんッ!」

「レジーさんが、死体でスペアの身体作れってうるさくってきたらさぁ……始まってんじゃん。マチダ、十字架は」

 俺は手を見せた。

「でも、もうこれじゃあ……」

「馬鹿野郎! 何言ってんだ。レジーさんの十字架はテメーの身体で繋がってんだろ!」

 俺は自分の手を見た。そうだ。まだ終わっていない。3つに砕けた十字架の破片を、俺は手の肉に捩り込んだ。ひとつは小指の下の肉に、ひとつは親指と人差し指の間に、そして中指と人差し指の間に突き刺す。握り込むと十字架の一本が拳から出ているようになった。

 石井が目を見張った。

「今のお前ならやれる! 行け!」

「石井! ごめん!」

 怒りに満ちた石井の唸り声をかき消すほど、俺は叫んだ。

 十字架の拳は、石井の胸を打った。二重にぶれたように、石井の背後から黒い影が散っていくのが見えた。

 力が抜けたように石井が倒れかかってきた。先ほどの桁外れな重みを予想して身構える。抱き止めた彼女は本来の重さだった。

「……女の子の体重気にするなんて、最低ですよ……」

 憎まれ口を叩く彼女の目はいつもと同じだった。

「……誰のせいだよ」

 俺は石井を抱き寄せたまま、倒れた。

 天井にも客を投げ飛ばしたのか、血液や脳髄がこびりついている。派手にやったもんだ。

「町田さん、やればできるじゃないですか」

「……で、答えは」

「生きてたら教えてあげますから。絶対死んじゃだめです」

 石井が答えた。鼻が詰まったような声だった。

 十字架の手から、温かい液体がとろとろと流れ出ている。黒Tシャツの弟子の男たちの助けを呼ぶ声が遠くで聞こえた。

 安堵に包まれ、俺の意識は石井の体温の中に沈んでいった。


【了】

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