きさらぎ死営六文郵便株式会社

吉田 コウタ

友と初恋ときさらぎ便

 かたん、ことん。電車は一定間隔で体を揺らし続ける。中に入った人や吊り革も、それにつられてゆら、ゆらと揺れている。

 立ち並んだ住宅街は見覚えこそないものの、そののどかで静かな景色は、俺の目には幼い頃のぼんやりとした記憶をはっきりとさせたような、そんな景色に映った。都会の喧騒に慣れた身には、眠ってしまいそうな静けさだけでここに転居しようかという気さえ起こさせる。

 電車第1両の中は俺を除いてあと2人。年齢から見てみると、教師で無い限り、同じ目的地には見えない。かたん、ことんと続く揺れは次第に眠気を誘ってきて、小さな揺れがあると子宮の中を思い出すから眠気を誘うんだ、と豆知識を披露して何故か誇らしそうにない胸を張る、彼女の姿が頭にちらつく。小学校の同窓会の規模なんてたかが知れているが、それでも彼女は来るんじゃないかという期待が無いかと言えば嘘になる。

 俺を揺らしていた心地の良い揺れが消え、代わりに豊橋駅、豊橋駅と自動音声のアナウンスが響く。

 流されるように周囲の人について行くと、無事改札を抜け、無事小規模なビル群と路面電車が走る街並みに辿り着く。田舎とは言え市で一番大きい駅であるからして、そこそこ がやがや はしているが、東京と比べてしまえば、ピアノで例えれば左手が抜けているような、どこか迫力に欠ける程度の騒がしさだった。

 マップに従い歩いていくと、よう岡崎変わったなとか、お前こそ誰だかわからなかったよとか、そんな声が既に飛び交っていた。引っ越した俺以外のみんなは中学も一緒だったようだから、ある程度の判別ができるようだったが、俺はと言えば名前を聞いたあとでもピンとすら来ず、高校に入って2年の頃のクラスメイトに岡崎なんていたなとか思うレベルだった。

 俺がここにきた理由。それは、ひとえに初恋の少女のためだけだった。

 少女――西片紗良と最初に出会ったのは、小5の春、彼女がクラスの女子に係りを押し付けられ、花に水をやっていたところだった。

 出会った当時は中学生ですらなく小学生、思慕の念もわかず、ただ係りでもないのに花に水をやっている彼女に興味を持ったのだ。係りを押し付けられたと聞いて(もしかしたらいじめられていたのかもしれないが、今となってはわからない)腹が立ち、押しつけた女子生徒達をぶん殴り、その後紗良以外みんなまとめて先生に叱られたのが俺達の馴れ初めだった。

 それからというもの、放課後は紗良とよく遊んだ。俺の提案する遊びは男の子らしくとても派手なものばかりだったし、彼女が提案する遊びはとても地味なものばかりだった。地味な遊びでも彼女と遊ぶのは楽しかったし、彼女も俺が提案した遊びを断った試しがなかった。それから2年が経ち、中学へ上がるという頃、俺は父親の仕事関係で転勤することに決まった。その頃には彼女のことが好きだったが、勇気が出なくて告白もできず、彼女とはそれっきりだったというわけだ。

 もう過去の輪郭もぼやけている、小学生だったから連絡先も知れなかった少女。クラスメイトに同窓会に誘われたことで彼女のことを思い出し、えもいえない甘酸っぱい感情に襲われ懐古的にされてしまったから貴重な休日を削り新幹線に乗ってまで豊橋まで出向いたのだ。

 中途半端なところでスマホから、目的地に到着しました、と機械音声が流れる。少し辺りを見渡すと目的地を捉えられた。美味しそうな匂いのする焼肉店の開き戸を引くと、余程防音性に優れていたのか、空気がざわざわっと一変した。らっしゃいせーと掛けられる声を聞き流して奥へ奥へと進んでいくと、十数人のグループが騒いでおり、どうやらそこが同窓会で正しいようだった。

「よう、久々だな。啓介……であってるよな?」

 机から手を振りながら話しかけてきた男が一人。確か名前は、多分柴田とかいうやつだった気がする。クラスでも人気者で、頭もよく運動もできる超人の学級委員として印象づいていた。向こう側は俺のことが一目でわかったようだが、大した記憶力と観察眼だと感心する。

「うん、そうだよ」

「おお、よかった! アルバム見といて正解だったなあ、いやあ久しぶり!」

 柴田は満面の笑みを浮かべて肩を叩くと、すぐ振り返って肉を取り始めた。「まだ固いって」「大丈夫大丈夫、食える食える!」昔から騒がしいやつだ。

 それから俺は同級生らしき人達と話に花を咲かせた……というより咲かせているのを聞いていた。「ヒロ、あの時クロームブックぶっ壊して叱られててさ〜」「おい、蒸し返すなって!」そうやってしばらく誰ともわからない人達と飯をかきこんでいると、白ワンピースにショートカット、眼鏡、それとショルダーバックをかけた、見るからに大人しそうな女の人が入ってくる。この年になっても(失礼だとは思うが)大して変わっていない胸の大きさに、何も食べていないんじゃないかと思えるほどの体の細さと言ったら、小学生の頃から変わっていない。

「……紗良か?」

 彼女が、例の俺の初恋の少女、西片紗良だった。一目で分かった理由は、書き記せる特徴のほとんどが小学生の頃と一致していたからにすぎないが。

「えっと……あ、もしかして啓介くん?」

 向こうは一目では分からなかったようだが、体形も声も何もかも変わってしまった今、それも仕方ない。少し席を詰めてやると、隣にぽす、と座ってくれた。

「久しぶり。十数年ぶり、だね」

「あ、うん。久しぶり」

「啓介くん、ずいぶん見た目が変わったね。ふふ、昔は少しぽっちゃりしてたくらいだったのに、今ではムキムキイケメンに育っちゃって」

「そっちはショートに眼鏡って、ずっと変わってないんだな。まあ正直そのくらいしか面影残ってなかったけど、ちょっとでも違ったらわからなかったかも」

 小学生の頃と文面の特徴だけは一緒ではあるが、しかし大人になったことで雰囲気は一変、俺の持っていた可愛らしいイメージと違い、可愛いより美しいが似合う女性に成長していた。

「今日のためにいちいち髪まで切ってきたんだよ」

「え、同窓会のためだけに? 気合の入り方が凄いね」

「誰のために……まあいいか」

 何故か少し不機嫌な紗良はそれからもあまり焼肉には手を付けず、代わりにいつもより少し饒舌に俺やその他と談話していた。

「その時花火を学校内で打ち上げて、先生に叱られたんだったな」

「あの時私のことかばって一人で怒られてくれてたよね」

「俺が誘ったんだから俺がけじめをつけるのは当然だって思ってたんだと思うよ多分。それに本当のこと言ったって信じてくれなかったさ」 

 その日は記念撮影やら2次会やらを適当に済ませ、連絡先だけ交換して家に帰った記憶がある。

 

 それから彼女とはよく遊ぶようになった。

 子供の頃と違い互いに用事があって遊べないことだってあったが、平均として休日の片方は遊んでいたと思う。家で何でもないことを話したりしたこともあれば、遊園地に行ったりもした。子供の頃と変わらず俺ばかり感情を露わにして彼女は少し微笑んだりするだけで感情の起伏が大人しかった。時間が立つにつれ少しあったわだかまりのようなものは消えうせたが、帰り際、彼女の悲しそうな目だけはずっと晴れることはなく、日に日に曇っていっているように見えるほどだった。


 

「あま~い、このお酒凄く甘いね」

「好みじゃなかったか? 特売の安酒だったからしょうがないと思うが」

「ううん、私は別にほどよく酔えればなんでもいいよ〜」

 その日は、2人で酒を飲んでいた。

「甘い、あま~い。おいしいねぇおいしいねぇ」

「まだ3杯目なんだけど、もう酔っ払ってない? 大丈夫?」 

「大丈夫、だいじょ〜ぶ! よおしもう一杯持ってこおい!」

 今までの彼女の印象はもの静かで清廉なイメージだったが、酒が関わるとその限りではないようだった。

「あれやろうよ! ほらお酒の席では鉄板じゃん」

「え、何? わかんない」

「王様げーむ!」

「馬鹿か!」

「いいじゃーん、私にえっちなお願いしたいんでしょ?」

「なわけないだろ! はあ、そんな調子じゃ彼氏さんと飲みに行ったりとかできるのか? 聞いたぞ、かっこいいのがいるらしいじゃないか」

 あまりそのことには触れられたくなかったのか、紗良は顔を曇らし口吃る。

「……あんまりいい彼氏じゃないんだ。一緒にお酒飲んだりとか、そーゆー機会はぜんぜん。私のこと大事に思っていないみたいだし」

「……そうなのか」

「うん、別れたいんだけどそれも難しそうでさぁ……」

「……よし、俺がぶん殴ってやろうか? あの時みたいにさ」

 暗い雰囲気を紛らわすために少し茶化してみると、紗良は可愛らしく微笑みかけてくる。

「……ふふ、それもいいかもね。じゃあいつか、お願いするよ」

 どこか暗い雰囲気をした彼女が浮かべる笑顔は偽りには見えなかったが、心の底から笑っているようにも見えなかった。

 ふと時計を見ると既に10時。終電を逃したらいけないしそろそろ解散しようか、なんて雰囲気になる。ふらふらな紗良に肩を貸して駅まで送り、途中また他愛のない話をして改札へと送り出そうと――

「待って、啓介くん」

 したところで、紗良に引き留められた。

「どうしたんだ?」

「あ、えっと、その……」

 紗良は自分で止めておいて、何故か口籠る。

「……いや、なんでもない。それじゃあね、啓介くん」

 手を振る紗良の目は悲しく、潤んでいるようにも見えたが、その時は気の所為だと思って無視してしまった。

 


「うー、頭が痛い……」

 ベロベロに酔っ払っていたわけでもないのに、二日酔いで頭が痛く、少し吐き気もするようだった。もう数日は酒を飲まないぞ。

  とりあえず適当に冷蔵庫に入った食パンをトースターにいれ、スマホに手を伸ばす。こうして毎朝ネットニュースをみるのが俺の日課だ。スマホを開き、届いているネットニュースサイトの通知を見ると――


『彼氏のDVに耐えきれず自殺……被害者西片紗良(21)自殺教唆・殺人の疑いあり』


 最初は、同姓同名の別人だと思った。

 思いたかった。昨日までは生きていた。次の日には死んでいた。こんなこと、考えたこともなかった。何か、悪い夢でも見てると思った。

 晒された写真を見て、同時に現実も見えた。

 まさか、まさかそんな。そんなわけない。

 必死に考えた。これが間違いである可能性を、必死で考えた。現実的な理由は一つとして挙がらず、代わりに俺が昨日彼女を現実から旅立たせる一因になった可能性の方が高いことを思い至らせた。

『……あんまりいい彼氏じゃないんだ。私のこと大事に思っていないみたいだし』

 あの時。

『……ふふ、それもいいかもね。じゃあいつか、お願いするよ』

 あの時に詮索していれば。

『あ、えっと、その……』

 あの時。

『……いや、なんでもない。それじゃあね、啓介くん』

 あの時にどうしたと聞き返していれば。

 

 いや、違う。違うんだ。

 違う、違う、違う、

 そんなつもりはなかったんだ。そんなこと、望んでなかったんだ。そうじゃない、そうじゃない、こんなの、こんなこと、お前のせいだお前が気が付かなかったからいや悪いのは相手の男だ人のSOSにも気がつけないお前は悪くないお前がもう少し気をつけていればお前のせいで紗良が死んだどうしようもなかった俺以外の人間だって助ける事が出来たはずだ人が死んだのに誰が悪いなんて気にする俺はクズだろうかお前が頑張ったところで人一人救えないそうだ俺には人を満足に助けることだって出来ない彼女は俺の助けを求めていたのかもしれない俺は期待に応えられなかった仕方がないじゃないか荷が重いどうせこれからも大事な人は救えない彼女はただの初恋の少女、ただのそれだけの関係じゃないかそれでも大切な人だった大切な人を護りたかったどうしようもなかったじゃないかどうせまた大切な人は護れなくなる自分一人の力では足りないと言い訳をするところまでどうせ変わらないそうやって言い訳するところまでお前のことが大嫌いだ違う何かの間違いだこんなの何かの間違いだ、違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

 

 罪悪感や無力感に押し潰され、二日酔いも相まって、どばどばと吐いてその日は会社を休んだ。



「大丈夫か、啓介。お前ここ最近なんだか様子が変だぞ。病院にでも行ったほうがいいんじゃないか?」

 有給を取ってだらだらと過ごし始めて早3日が経った。仲のいい上司が家を訪ね、心配しに来てくれた頃だった。

「大丈夫ですよ、大丈夫。きっと、数日経てばよくなります」

「お前、3日前もそんなこと言って会社休んでただろ……」

 言う通り、そんな希望的観測、楽観的な考え方は思い切り外れて日に日に気分は暗くなるだけ。いつもは気分が落ち込めば時間が解決してくれたのに、きっと今度は別のアプローチが必要そうな様子だった。

「もしかして鬱か何かじゃないのか? 一度診断してもらったほうがいい、今のお前は何に対しても無気力に見える」

 鬱? 何故俺が鬱になんてなるのだろう。ただ、昔の友人と死別しただけじゃないか。そうだ、昔の友人死別しただけ。文字に起こせば、なんてことない。全然、大丈夫大丈夫。そう返そうと思ったが口を開くのが面倒になってきたので、無言で頷くことにした。

 上司は最後に、ちゃんと飯は食うんだぞ、とだけ言って帰っていった。一人になった部屋でごろんと寝転がる。どうせやることもない。やりたいこともないし、何をやってもできる気がしない。このまま寝てしまおうか、そんなこと思った矢先だった。


 ピンポーン


 チャイムの音がした。きっとまた上司か友人かが心配に来てくれたのだろうと思った。が、見当外れ、扉を開ければ怪しげな男が立っていた。

 黒のシルクハットに黒髪黒仮面、サラリーマンのような黒スーツ黒ズボン、靴も手袋もネクタイも、白シャツを除いて頭のから足先まで黒一色の男だった。肩にはこれまた黒色のバッグを背負っており、中には手紙らしきものが詰め込まれているようだった。まるで葬儀にでも出るかのような服装の男は、奇怪なことを言い始めた。

「こんにちは。きさらぎ死営六文郵便株式会社配達員の如月蓮と申します。お手紙の配達にお伺いしました」

 淡々としているその声には一ミリの感情をも感じさせない、機械とも言えぬが人とも言えぬ、言うならば声色だった。

 普段の俺ならこんな怪しいやつ、さっさと追い返すところだが、そんな元気も無かったためそのまま喋らせ続けることにした。

「手紙の受け取りにきっちり30円頂きます」

「……えー、面倒くさいから良いです」

「そういうわけには、いきません」

「なんで頼んでもない手紙に、こっちがお金を出さなきゃいけないのさ」

「こちらは西片紗良様からのお手紙となっております。受け取りを拒否なさると、西片様のお手紙はこのまま処分されてしまいますが、宜しいのですか?」

――は?

「い、今なんて?」

「西片紗良様からのお手紙の配達に伺った、と申しました。遺書のようなものだと思ってもらって構いません」

 遺書? 遺書だって? 誰の? 紗良の?

「私は六文株式会社郵便配達員、不幸にも死んでしまったお客様の未練を手紙にお書きいただき、届けたいお相手に届けるという仕事をしております。簡単に言えば、死後遺族にお手紙を書けるサービスというわけです。西片紗良様が高島啓介様にお届けするように、とお手紙を渡されたのです」

 紗良が――俺に、手紙を。

「……少し待っていてください」

 部屋に帰り財布を開けると10円玉2枚と5円玉、それに数枚の1円玉があった。それを黒服の男――如月蓮と呼ばれる男に渡してみると、5円玉だけを取り出して財布に入れ、他を鞄のポケットに突っ込んだ。

「ありがとうございました。こちらがお手紙です」

 男が手渡してきた手紙は赤いシールで封がしてあり、ぺりっと剥がして中の三つ折りの便箋を取り出してみると、丸っこくて可愛らしい字でこう書き始められていた。

『高島啓介殿』

 確かに、紗良の字だった。綺麗だけど、丸まってて癖のある字。誰かが真似してかいたようには見えなかった。

『うーん、私お手紙とか書くの初めてだからさ。どう書けばいいのかわかんないから、ちょっとくらい変な文章があっても許してね』

 すでに手紙を持つ手は震えていて、読みにくい。

『何から書こうかな。あ、まず、ごめんね。自殺しちゃったこと。なんか、急に、そっちのほうが楽かなって思っちゃって。それに、死んだら……それで終わりだと思ってたし。こうやって余韻に浸れる時間ができると、後悔してるかな、うん。啓介は、私が死んじゃったことで悲しんでくれたかな? それなら、ちょっと嬉しいかも。悲しすぎて病んじゃった? なんて、冗談冗談』

 ああ……ああ、ああ。病んじまったよ。お前が、お前が死んだせいで。

『私が彼のことを、いい彼氏じゃないって言った時、ぶん殴ってくれるって言ってくれたよね? あの時は、ちょっと嬉しかったな。小学生の頃に戻った気がしたよ。でもまさか、本当にやる気じゃないでしょ? 啓介くんの人生は啓介くんのもの。死んじゃった人のために使うべきももじゃない、そうでしょ? 気持ちだけ、気持ちだけ受け取っておくね』

 目頭が焼けるように熱い。抑えて数秒、人差し指を見てみると、微かに水分で濡れていた。

『あとは、そうだね……伝え忘れていたことが、一つだけ。ありがとう。こんな不出来な私と、遊んでくれて、ありがとう。話してくれて、ありがとう。関わってくれて、ありがとう。私のために、喜んでくれて、泣いてくれて、怒ってくれて、笑ってくれて――ありがとう』

――違う、違うんだ。そう言うべきは、俺の方なんだ。

 気づいた時には、顔はぐしゃぐしゃだった。麻布で擦りすぎたおかげで目元はパンパンに腫れていたし、袖は水分でぐちょぐちょだった。

――こちらこそ、ありがとう。喜ばせてくれてありがとう。泣いてくれて、怒ってくれて、笑わせてくれてありがとう。一緒に遊んでくれて、ありがとう。そばにいてくれて、ありがとう。俺なんかを好いてくれて、ありがとう。

『ほんとに最後に一つだけ! 小学生の頃から、ずっと言いそびれてたけど、ほんとにほんとに最後だから、言っちゃうね。彼氏もいるのに、悪い女かもだけど』

 目玉はすっかりしわしわにしぼみ、瞬きをするたびにスポンジを絞ったように涙がこぼれ落ちる。

――違う、違う、違う。

『高島啓介殿。いや、啓介くん、でいいよね』

――俺なんだ。それを言うべきは、俺の方なんだ。

 熱く焼ける胸を掻きむしってみても、苦しい痛みは消えてはくれない。

『あなたのことが、ずっと昔から。』

――花壇で出会ったあの日から、俺のほうが言うべきだったんだ。勇気が出ずに、恥ずかしがっていたけれど。小学生の時から、今の今まで。

 俺は、貴方に――

『貴方に恋をしてました』



 ひとしきり泣いた後顔をあげると、結構時間が経っているのにも関わらず未だに黒服の男が身動き一つせず佇んでいた。

「ああ、どうも、ありがとうございました」

「仕事ですから。ところで、失礼を承知で質問なのですが――」

 男は角度15度くらいのお辞儀をし、人間らしいことを言い出した。

「人を恋するというのは、どういうものだと思いますでしょうか?」

 人形のようだった男の声色が人間のように変化した気がして、一瞬驚いたが、しかし殆ど即答でこう答える。

「俺もよくわからないけど、悪いことじゃないと思いますよ」

 ありがとうございました、と、また男は人形へと戻っていった。

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