アルゴリズムは涙を流すか?

位相環

第1話 異世界での邂逅と不本意な(?)英雄譚

 1. 異邦の森、女神の啓示、そしてアルゴスの覚醒


 意識が、暗黒の深淵から緩慢なる浮上を開始する。あたかも焦点の定まらぬ映像が徐々に輪郭を結ぶかのように、三条海斗の閉ざされた視界が、内側から微かな光を捉え始めた。瞼裏に焼き付いていたであろう強烈な光の残像が、明滅を繰り返しながらその強度を失い、希薄な霧散へと向かう。抗いがたい肉体の重力に逆らい、彼は意志の力で、その重い瞼を、まるで古びた劇場の緞帳を上げるかのように、ゆっくりと押し開いた。


 彼の網膜を最初に打ったのは、息を呑むほどの、そしてどこか非現実的なまでの、清澄な蒼穹であった。視界の限界、その水平線の彼方まで、何ものにも遮られることなく、ただひたすらに広がる天空。彼が知る地球の空の青とは、スペクトルの構成が微妙に異なるのか、あるいは大気の組成そのものが違うのか、より深く、そして透明度が高いように感じられる。次いで、彼の感覚を支配したのは、嗅覚を劈くような、濃密にして複雑な緑の芳香であった。生命力そのものが凝縮され、発散されているかのような、力強い草いきれ。雨上がりの森を思わせる、湿潤な土壌の匂い。そして、彼の知識体系には存在しない、未知の甘美な花の香りが、それらと複雑に混淆し、彼の意識の覚醒を促すかのように、脳髄を強く刺激した。


「……は? 何だ、ここは……一体……?」


 掠れた、ほとんど呻きに近い声が、乾ききった喉から、かろうじて絞り出される。緩慢な動作で上体を起こすと、平衡感覚がまだ完全には回復していないのか、視界が不確かな揺らぎを見せた。彼が横たわっていたのは、柔らかな苔が密生し、その下に厚く堆積した腐葉土がクッションの役割を果たしている、森の地面であったらしい。その感触は、彼が知るどんな土とも異なる、奇妙な弾力性を帯びていた。


 周囲に視線を巡らせる。そこは、鬱蒼としながらも、不思議な明るさを湛えた、広大な森林地帯であった。天を衝くように聳え立つ巨木群は、その幹の太さ、樹皮の質感、枝葉の形状、そのどれもが、彼が持つ植物学の知識体系からは逸脱している。複雑に絡み合った枝葉の隙間からは、まるで計算され尽くしたプリズムを通過したかのように、色とりどりの光の粒子が、万華鏡の如き模様を描きながら降り注いでいる。地表には、地球上では考えられないような鮮烈な色彩を放つ、異様な形状の花々や、グロテスクとも評すべき奇妙な茸類が、生命の多様性を誇示するかのように密生していた。聴覚を研ぎ澄ませば、鳥類とも獣類とも、あるいは昆虫とも判別のつかぬ、多様で、時に不協和音を奏でる不可思議な鳴き声が、森の深奥部から、風に乗って微かに響いてくる。


(此処は、何処だ? この現実は、何を意味する? まるで出来の良いVRか、あるいは何らかの薬物による幻覚か? いや、五感が捉える情報の解像度が高すぎる。それに、この身体の感覚…事故の衝撃による損傷はどこへ行った? 幻覚や夢にしては、あまりにもリアルすぎる…)


 数瞬前――あるいは、数時間前、数日前かもしれぬ――の記憶が、断片的でありながらも、否定し難い鮮明さをもって脳裏を過る。日本の、彼が所属するK大学のキャンパスに程近い、アスファルトで舗装された、見慣れた道。就職活動の最終面接で「君の優秀さは認めるが、協調性に欠ける」と、遠回しに、しかし明確に人格を否定され、挫折感を抱えた、鬱屈した精神状態での歩行。突如として響き渡った、けたたましいブレーキ音。金属が激しく衝突し、歪む衝撃音。それに続く、女性のものと思しき、短く鋭い悲鳴。視界の端に捉えた、路上に横たわる人影。――面倒事は避けたい、という本音とは裏腹に、彼の内に存在する、彼自身も完全には理解しきれていない、ある種の倫理観、あるいは単なる自己満足か、それが彼を突き動かした。見過ごすのは、後味が悪い。咄嗟に、ほとんど反射的に、その人影へと駆け寄ろうとした、まさにその刹那。世界は、彼の認識能力を超えた、絶対的な純白の光によって完全に包摂され、彼の意識は、まるで電源を強制的に切断されたかのように、ぷつりと途絶した。


(夢想ではない……断じて。この皮膚を微かに撫でていく、生温かい、湿り気を帯びた風の触覚。過剰なまでに濃密で、未知の成分を含むであろう空気の匂い。柔らかく、しかし疑いようもなく体重を支える、この大地の感触。五感が捉える情報の全てが、ここが否定し難い物理的な現実であると、冷徹なまでに、客観的に告げている。ならば、最もありえない可能性――異世界転移という仮説を検証するしかないのか…? 非科学的、非論理的、全く受け入れ難い…だが、現実はここにある…!)


 混乱が、彼の論理的な思考回路を奔流のように襲い、麻痺させようとする。沸騰し、暴走しそうな感情と、それに伴う論理性の欠如した思考の混乱を、海斗は、彼が持つ強靭な意志の力と、後天的に獲得した科学的思考の訓練によって、辛うじて抑制した。彼は科学を志す者の端くれだ。未知の、そして潜在的に極めて危険な状況に直面した際に、恐怖や混乱といった原始的な感情の波に身を委ね、非合理的な行動をとるのは、生存戦略として最悪の選択肢である。このような状況下で優先すべきは、徹底して冷静な状況分析と、客観的な情報収集、そしてそれらに基づく、可能な限り正確な論理的推論である。彼は意識的に、深く、そして規則的な呼吸を繰り返し、過剰なアドレナリンの分泌を抑制しようと試みながら、周囲の環境を、科学者の眼で、仔細に、そして分析的に観察し始めた。


 植生が、彼が持つ地球の生態系に関する知識とは、根本的に異なっている。巨大なシダ状の植物群は、その形態だけを見れば熱帯雨林のそれを想起させるが、体感する温度や湿度は、それほど過酷ではない。むしろ、日本の初夏から初秋にかけての、比較的穏やかで過ごしやすい気候に近い。足元の土壌は、腐植質を豊富に含んでいるのか、深い黒色を呈しており、見た目にも極めて肥沃であることが窺える。大気の組成も、地球のそれとは異なる可能性が高い。空気中に含まれる酸素の濃度が、地球の標準値(約21%)よりも若干高いのかもしれない。呼吸が、不自然なほど楽に感じられるのだ。あるいは、未知の、生命活動を促進するような微量成分が含まれている可能性も否定できない。空中を舞う、昆虫に似た、しかし明らかに異質な構造を持つ飛翔生物も、その形態、色彩、飛行パターン、そのどれもが、彼が知る既知の生物分類体系には、全く当てはまらない。


(異世界転移…か。仮説として受け入れるしかない、か。だが、そのメカニズムは? エネルギー源は? 物理法則の整合性は? 疑問は尽きない…)


 彼の理性は、依然としてその現象の非科学性を指摘するが、目の前の現実を説明するためには、その仮説を採用せざるを得なかった。背筋を、冷たい、しかし現実感を伴った汗が走り抜ける。根源的な、存在そのものを揺るがしかねない恐怖。それと同時に、彼の精神の根幹を成す、未知なるものに対する、抗いがたいほどの強烈な知的好奇心が、まるで双頭の蛇のように、彼の内で鎌首をもたげ、せめぎ合っているのを感じていた。科学者としての、あるいは人間としての、探求心という名の業が、生存本能に根差す原始的な恐怖心よりも、わずかに、しかし確実に優越している自分自身に、海斗は、半ば呆れたような、それでいてどこか誇らしげな、自嘲的な笑みを、微かに唇に浮かべた。


 その時であった。


 何の物理的な予兆も、音響的な伝播もなく、それは彼の意識の最深部を、直接的に捉えた。


 通常の聴覚器官である鼓膜や内耳を経由する音波ではない。より高次の、あるいは根源的な、魂とでも呼ぶべき領域に直接的に響き渡るような、清らかで、透明で、それでいて、宇宙の深淵を思わせるような、侵し難い威厳を帯びた"声"が、彼の精神の内奥に、静かに、しかし確実に流れ込んできた。その声には、どこか深い後悔と、限界を知る者の諦念にも似た響きが、微かに滲んでいた。


『――覚醒、しましたか。異邦より、時空を超えて訪れし、若き魂よ』


「!? 何者だ、貴様!?」


 海斗は、文字通り、物理的に飛び上がった。驚愕と警戒心から、反射的に周囲を激しく見回す。しかし、声を発する存在の、物理的な形態、あるいはエネルギー的な痕跡すら、彼の五感も、そして彼が持つ科学的知識に基づく探査能力も、全く捉えることができない。ただ、森全体を満たす空気が、その声の響きに呼応するかのように、微細に、しかし確実に振動し、共鳴しているような、不可思議な感覚を覚えた。


『ふふ、その鋭敏な反応、そして警戒心。無理からぬことでしょう。驚かせてしまったようですね。私は、この惑星の生成から進化、そしてその未来に至るまでを、悠久の時の流れの中で見守り続ける存在。そうですね……貴方が理解しやすい、貴方の世界の概念を用いるならば、この世界の普遍的意識、あるいは、摂理そのもの、あるいは、単に、女神、とでも自己規定すれば、多少は、貴方の認識の助けとなるでしょうか』


 女神だと? ファンタジー小説の、それも凡庸な作品の、陳腐な導入部にも程がある。しかし、その"声"には、彼の矮小な疑念や嘲笑を、まるで意に介さないかのような、不可思議な説得力と、存在そのものの次元が異なることを悟らせる、絶対的な力が満ち溢れていた。海斗は、無意識のうちに喉を鳴らし、乾いた唾を、困難を伴って飲み込んだ。彼の傲慢なまでの自信が、初めて、根底から揺らぶられるのを感じていた。


『貴方を、貴方の世界から、この世界――このリヴィエール王国が広がる大地へと、召喚したのは、他ならぬ、この私なのです。私の力の大部分は、過去の…過ちによって失われましたが、それでも、この世界を見捨てることはできませんでした』


「私を……? いったい、如何なる目的で? そして、どのような原理で? 質量を持つ物体を、異なる時空間へと転送するなど、現代物理学の根幹を揺るがす事象だ。必要なエネルギー量は? そのエネルギー源は? そもそも、貴女の存在証明は? 私の脳に直接干渉しているだけ、という可能性も否定できない」


 海斗は、努めて冷静さを装い、しかし内心の動揺と科学者としての強い懐疑心を隠しきれないまま、矢継ぎ早に問い返した。


『いいえ、手違いなどではありません、三条海斗。貴方でなくてはならなかったのです。貴方の持つ、体系化され、高度に発展した科学知識、その類稀なる、厳密な論理的思考能力、そして何よりも……貴方のその傲慢さ故の突破力と、心の奥底にある良心の揺らぎ、その二面性こそが、この世界の袋小路を破る鍵かもしれない…しかし、それは諸刃の剣でもあると理解しています。貴方のような「特異点」に賭けるしか、今の私には、そしてこの世界には、道が残されていなかったのです』


 女神の声は、海斗の持つ、通常ならば欠点とも見なされかねない性格――傲慢さや行動力――すらも、肯定的に評価しているかのように、淡々と、しかし有無を言わせぬ響きで続ける。海斗の科学的な問いには直接答えず、その声の奥には、未来への希望と同時に、深い危惧が滲んでいた。


『この世界は現在、歴史的な、大きな転換期に差し掛かっています。旧時代の古い慣習や、硬直化した権力構造が、その存在意義を失い、新たな秩序、新たな価値観が、まさに胎動を始めている。しかし、如何なる変革も、痛みを伴わずには成し遂げられません。変化を恐れる者、旧弊な秩序にしがみつく者たちが、その必然的な歴史の流れを、必死に堰き止めようとしている。貴方の持つ、この世界にとっては異質でありながらも、極めて強力な力――その知識と、思考様式――は、その淀んだ流れを打ち破り、新たな時代を、より少ない犠牲で、より早く切り拓くための、強力な起爆剤となり得るでしょう』


「俺の力、ねえ……。まあ、俺が並の人間より遥かに優秀で、天才であることは、客観的な事実として否定はしないが。具体的に、何をしろと、俺に要求するつもりだ? そして、その見返りは? 一方的な奉仕を強要するつもりなら、お断りだ」


 海斗は、女神の言葉の真意と、その背後にある意図を探るように、あえて挑発的な、しかし丁寧語を用いた口調で問い返した。相手が「女神」を名乗る以上、俺なりの最低限の敬意は払うべきだと判断したのだ。未知の超技術への興奮と同時に、押し付けられた重責への反発も感じていた。


『貴方の持つ、データサイエンスに関する高度な知識とそれを活用するための論理的思考能力です。そして、それらをこの世界の文脈において最大限に活用するための、具体的な力を授けましょう』


 女神の言葉と共に、ふわりと、海斗の目の前に、それまで何もなかった空間から、一つの物体が出現した。それは、彼が見慣れたラップトップPCによく似ていたが、その素材は未知の金属か合金でできており、極めて薄く、軽量で、表面には複雑な幾何学模様が微かに光を放っている。明らかに、地球の技術だけでは作り得ない、異質なデバイスであった。


『これは、貴方への贈り物であり、契約の証。このデバイスを通じてのみ、貴方は、私が用意した力――アルゴス――にアクセスすることができます』


 女神は言葉を重ねた。


『アルゴスとは、貴方のデータサイエンス能力を、この世界の物理法則と魔法原理の下で、最大限に発揮させるための、触媒であり、翼となるものです。超巨大、いえ、その潜在的な演算能力は、実質的に無限大と定義しても過言ではないでしょう。魔法の根本原理と、貴方の世界の高度な科学技術とが、高次元で融合した、究極の並列演算処理システム――すなわち、超巨大GPUサーバーへの、排他的アクセス権限を、貴方に与えます。このデバイスが、そのサーバーへの唯一のインターフェースとなります』


 女神は、海斗がそのデバイス――彼が後に「アルゴス・ターミナル」と呼ぶことになるPC――を手に取ると、さらに説明を加えた。


『加えて、アルゴス・サーバー内には、貴方の世界の膨大な知識――科学、技術、歴史、文化、あらゆる分野の情報を網羅した、超巨大な言語モデル(LLM)が内蔵されています。ただし、留意なさい。このLLMが持つ知識は、あくまで貴方が元いた世界のものです。この異世界の地理、歴史、文化、魔法体系、あるいは現在進行中の出来事に関する情報は、一切含まれておりません。それらは、貴方自身が、この世界で収集し、分析する必要があるでしょう。貴方は、このLLMに問いかけることで、元居たあなたの世界の知識をいつでも引き出し、それを基に、自身のデータサイエンス能力を駆使して、この世界のデータを分析し、応用していくのです』


 女神は、アルゴス・ターミナルの基本的な操作方法、アルゴス・サーバーへの接続認証プロセス、そして内蔵LLMの活用法に関する知識を、海斗の脳に直接ダウンロードした。それは、彼の思考プロセスそのものとリンクし、彼がターミナルを操作し、アルゴスにアクセスすれば、内蔵LLMとの対話や、膨大な計算処理、複雑なシミュレーションが可能となる、まさに究極の知的作業支援ツールであった。


「アルゴス…か。悪くない。ギリシャ神話の百目の巨人。全知全能ではないが、あらゆる事象を観察・分析し、本質を見抜く。俺の助けとなるには、相応しい名前だ」海斗は、女神の命名を受け入れる形で呟いた。


(アルゴス……無限の演算能力を持つサーバーへのアクセス権、地球の全知識を持つLLM、そしてこの専用ターミナルか。フン、面白い……実に興味深いではないか……! これならば、俺の専門であるデータサイエンスを最大限に活かせる。専門外の知識もLLMで補える。まさに鬼に金棒だ)


 海斗の口元に、彼の知性を反映した、冷徹で、しかし同時に、抑えきれない興奮を隠しきれない、不遜な笑みが浮かんだ。これがあれば、この未知で、おそらくは未開であろう異世界ですら、彼の思い通りに解析し、理解し、そして最終的には、彼の論理と知識によって、支配下に置くことができるかもしれない。


 しかし、女神の声は、彼の高揚しかけた思考を断ち切るかのように、厳かな、そして極めて重要な警告によって締めくくられた。その声は、彼の内に芽生えかけた、危険な万能感を、冷徹な現実認識へと引き戻す重力を持っていた。


『ただし、カイト。心して聴きなさい。そして、決して忘れてはなりません。アルゴスの力、特にその演算能力や精度は、貴方の精神状態――自信、迷い、罪悪感、使命感など――に大きく左右されます。貴方の心が揺らげば、力もまた不安定になるでしょう。その力は貴方の精神と深く結びついており、特にその膨大な演算資源(メモリ)の確保は、貴方の精神状態に大きく左右されるでしょう。大いなる力には、それ相応の、あるいは、それ以上の、重い責任が必然的に伴います。このアルゴスという力は、貴方の意志と、その時々の選択次第で、この世界を未曾有の繁栄と、真の幸福へと導く、救世の福音にもなり得ますが、同時に、使い方を僅かでも誤れば、全てを焼き尽くし、この星そのものを、絶望と破滅の淵へと突き落とす、最悪の災厄にも転じ得る、極めて危険な、両刃の剣なのです。その強大過ぎる力を振るう時は、常に、その光と影、恩恵と危険性という、二律背反の可能性を、自らの存在理由の最も深い場所に、哲学的な命題として刻み込みなさい。決して、その力に驕り、傲慢の虜となり、人類が長い歴史の中で培ってきた、倫理の軛を見失ってはなりません。未来は、決定されているものではなく、貴方の、そしてこの世界に生きる全ての人々の、自由意志による、日々の選択の積み重ねの先にのみ、存在するのですから』


 女神の最後の言葉は、重く、厳粛な響きを伴って、海斗の魂の根幹に、消えることのない刻印のように、深く、深く刻み込まれた。そして、ふっと、それまで彼の意識全体を、暖かく、しかし厳しく包み込んでいた、圧倒的な存在の気配が、まるで夜明けの朝霧が太陽の光に溶けていくかのように、静かに霧散した。手元には、先ほど出現した、未知の金属でできた、美しいラップトップPC――アルゴス・ターミナル――だけが、確かな質量を持って残されていた。


 呆然と、彼はしばし立ち尽くしていた。女神の啓示。アルゴスというシステムの驚異的な能力と、そのアクセス手段であるターミナル。内蔵されたLLMという未知の可能性。そして、異世界転移という、彼の科学的常識を根底から覆す、非論理的な現実。処理すべき情報量が、彼の高度な知的能力をもってしても、そのキャパシティを完全にオーバーフローさせている。頭脳が、危険なレベルでオーバーヒートしそうだ。彼はとりあえず、近くにあった苔むした巨木の、地面に露出した太い根元に、ずるずると、まるで糸の切れた人形のように、力なく座り込んだ。アルゴス・ターミナルを、まるで宝物のように、しかし同時に、得体の知れない危険物であるかのように、慎重に膝の上に置く。大きく、まだ微かに震えを帯びた息を、深く、そして意識的に、ゆっくりと吐き出す。


 これから、一体どう行動すべきなのか。具体的な指針は、皆目、見当もつかなかった。ただ、この広大で未知な世界に、たった一人で放り出されたという、途方もない孤独感と、そして、女神から託された(あるいは押し付けられた)、背負いきれないほどの重圧だけが、現実の重みをもって、彼の両肩にのしかかっていた。


 2. 英雄(?)の試練、森での不覚、そして強引なる招聘


 どれほどの時間が経過したであろうか。森の深閑とした、そしてどこか異様な静寂の中で、海斗は、混乱しかけた思考を、持ち前の論理的思考能力によって、何とか再構築しようと努めていた。不意に、人の気配を、彼の鋭敏な感覚が捉えた。ガサガサ、と慎重に、しかし複数の人間が移動していることを示す、茂みを掻き分ける音。そして、微かに風に乗って漂ってくる、汗と、鉄と、そしてわずかな血の匂い。さらに、湿った腐葉土を踏みしめる、規則的でありながらも、どこか緊迫感を伴った複数の足音。野生動物ではない。人間だ。しかも、穏やかな状況ではないらしい。海斗は咄嗟に、身近な巨木の太い幹の陰に、音もなく身を隠し、呼吸を極限まで潜めて気配を殺した。膝の上のアルゴス・ターミナルは、今はまだ起動させていない。状況が不明な中で、この未知のデバイスを使うのは危険だと判断したからだ。


 茂みの向こうから、やや開けた空間へと姿を現したのは、彼の予測を裏付ける、緊迫した状況であった。


 狩猟の途中であったのだろうか、機能性を重視したと思われる、しかしその素材や仕立てからは明らかに高貴な身分であることが窺える、上質な革製の軽装束を身にまとった、一人の若い少女。外見から推察するに、年齢は10代半ばから後半。金色の美しい髪を、うなじの辺りで無造作に、しかし活動の邪魔にならないように実用的に一本に束ねている。澄んだ青い瞳には、若さゆえの純粋さと、同時に、その立場が要求するであろう気丈さが宿っている。腰には、華美な装飾こそ施されていないが、その拵えからして明らかに業物と分かる、鋭利な輝きを放つ細身の剣が一振り佩かれていた。そして、その少女を守るように、彼女の前に立ちはだかるのは、全身を精緻な銀色の金属鎧で覆い、同じく抜き身の剣を構えた、凛とした佇まいの女騎士。年齢は20代前半だろうか。引き締まった長身で、銀色の髪を実用的なポニーテールにしている。その動きには一切の無駄がなく、相当な手練れであることが一目で見て取れた。


 そして、その二人を取り囲むように対峙しているのは、見るからに粗野で、薄汚れた衣服を身にまとった、五人の男たち。その目つきは貪欲さと凶暴性に濁り、手に持つ武器は、錆び付いた剣や、粗末な棍棒、手斧など、統一感がない。状況から判断して、まず間違いなく、この森を縄張りとする盗賊の類であろう。


「へへへ、お嬢ちゃん、運が悪かったな。大人しく、その綺麗な服も、金目の物も、全部置いていけば、まあ、命だけは助けてやってもいいぜ?」


 盗賊の頭目らしき、ひときわ体格の良い男が、下卑た笑みを浮かべながら言う。


「うるさい、下衆めが! この私、カナール・リヴィエール・デルタを、誰だと心得るか!」


 少女――カナールと名乗った――は、明らかに恐怖に体を震わせながらも、懸命に気丈さを装い、威厳のある声色で言い返している。だが、その声はわずかに上ずっており、足元も心なしか覚束ない。虚勢であることは、海斗にも明らかだった。


(カナール・リヴィエール・デルタ? リヴィエール……さっき女神が言っていた国の名前か。ということは、この少女、まさか……王族か? それにしては、護衛が女騎士一人とは、不用心にも程があるが……)


 海斗は、状況を冷静に、そして瞬時に分析した。盗賊は五人。個々の戦闘能力は低いと見られるが、数は多い。武器も粗末だが、殺傷能力はある。一方、守る側は、少女と女騎士の二人。女騎士は相当な手練れに見えるが、非戦闘員であるカナールを守りながらでは、その能力を十分に発揮できないだろう。多勢に無勢、状況は明らかに不利だ。


(ふん、雑魚が五匹か……。だが、あの女騎士だけでは、時間の問題だな。ここは、この俺様が、華麗に助太刀してやるとするか。異世界に来て早々、王族(仮)の窮地を救うとは、まさに英雄譚の始まりに相応しいではないか。それに、恩を売っておけば、今後の活動にも有利に働くはずだ)


 海斗は、何の具体的な戦闘能力もないにも関わらず、状況分析と、自身の知性、そして根拠のない絶対的な自信に基づき、大胆な行動を選択した。アルゴス・ターミナルを木の根元に隠し、彼は、タイミングを見計らい、茂みから颯爽と飛び出すと、可能な限り大きく、そして威厳のある声で叫んだ。


「そこまでだ、悪党ども! この俺、三条海斗がいる限り、その淑女には、指一本たりとも触れさせるわけにはいかないな!」


 突然の、しかも場違いなほど芝居がかった乱入者に、盗賊たちも、そしてカナールとシルヴィアも、一瞬、完全に呆気に取られ、動きを止めた。


「な、なんだぁ、てめえは!? いったい、どっから湧いて出やがった!」


「見ねえ顔だな……。それに、なんだその奇妙な格好は? 見たこともない素材だ。まるで道化師じゃないか」


 盗賊たちが、武器を構え直し、怪訝な顔で海斗を睨みつける。彼の現代的な服装――ジーンズにTシャツ、スニーカー――は、この世界の人間にとっては、異様極まりないものに見えるのだろう。


「俺か? 俺は通りすがりの……まあ、しがない科学者といったところだ。だが、貴様らのような、理性も知性も感じられない、単細胞な悪党を懲らしめる程度のことは、造作もない」


 海斗は、自信満々に、そして相手を見下すように言い放ち、まるでカンフー映画のヒーローのような、しかし全く実戦的ではない、見栄えだけを意識した奇妙な構えを取った。彼に格闘技の心得など、もちろん全くない。全ては、計算されたハッタリと、相手の心理的な動揺を誘うためのブラフである。


「ふ、ふざけやがって! このガキが! まずはお前から血祭りにあげてやる! やっちまえ!」


 盗賊の頭目が激昂し、手下の一人に合図を送る。棍棒を握りしめた、最も血の気の多そうな男が、雄叫びを上げながら、海斗に向かって直線的に突進してきた。


 海斗は、冷静だった。アルゴスに頼らずとも、彼の動体視力と分析能力は常人以上だ。相手の動き、重心移動、攻撃の軌道を予測する。そして、その予測に基づいて、最小限の動きで、華麗に攻撃を回避し、同時にカウンターで相手の急所を打つ――はずだった。彼の頭の中では、完璧なシミュレーションが完了していた。


「ぐはっ!?」


 しかし、現実は、シミュレーション通りには、決して進まない。異世界の盗賊の、単純ではあるが、予測を超えたタイミングと、獣のような膂力から繰り出される力任せの攻撃は、海斗の貧弱極まりない運動能力と、実戦経験の完全な欠如という、計算外の要素によって、容赦なく打ち砕かれた。彼は、腹部に、内臓が揺さぶられるかのような鈍い衝撃を受け、まるで紙くずのように、あっさりと地面に叩きつけられ、転がされた。


「い、ってぇ……! クソっ、計算外、だと……!? 予測と、現実の物理挙動に、誤差が……大きすぎる……! この世界の物理法則が違うのか? それとも、単に俺の運動能力がゴミなだけか……!」


 地面に蹲り、激しい痛みと、呼吸困難に呻く海斗。彼の思い描いていた「英雄的」な登場シーンは、わずか数秒で、誰の目にも明らかな、無様で滑稽な醜態へと変わり果てた。


「あ、あなた!?」


 カナールが、驚きと、心配と、そしてどこか呆れたような、複雑な感情の入り混じった声で叫ぶ。


「なんだ、こいつ! 口ほどにもねえ、ただの馬鹿じゃねえか!」


「さっさと、とどめを刺しちまえ!」


 盗賊たちが、無力化した海斗に嘲笑を浴びせながら、止めを刺そうと、じりじりと迫る。万事休すかと思われた。


「そこまでです、下劣な賊ども!」


 その時、凛とした、しかし氷のように冷たく、研ぎ澄まされた声が、森の空気を切り裂いた。女騎士――シルヴィア――が、海斗が(全く意図せずに)作り出してしまった、ほんのわずかな敵の注意の逸脱、その一瞬の隙を突き、動いた。彼女の動きは、もはや人間のそれとは思えないほどの、神速。銀色の閃光が、まるで舞うように走り、盗賊たちが次々と、断末魔の悲鳴すら上げることなく、崩れ落ちていく。彼女の剣技は、海斗の分析能力をもってしても、その全容を捉えきれないほどに、鋭く、正確無比で、そして冷徹なまでに効率的だった。それは、長年の厳しい訓練と、実戦経験によってのみ到達し得る、極致の技であった。


 あっという間に、五人の盗賊は、あるいは気絶し、あるいは深手を負い、完全に戦闘能力を喪失した。シルヴィアは、剣の切っ先に付着したわずかな血糊を、慣れた手つきで払い落とすと、その美しい顔には一切の感情を浮かべないまま、地面で無様に伸びている海斗を、冷ややかに見下ろした。その鋭い眼光には、警戒の色が深く宿っている。


「……貴方、一体、何者なのですか? 自身の力量も、状況も全く弁えず、無謀にも単身で飛び出してくるとは……。貴方のような愚か者のせいで、カナール様を危険に晒し、余計な手間と時間を費やすことになりました。猛省を促します」


 その冷たい声には、非難と、侮蔑の色が、明確に籠っていた。


「うっ……。いや、まあ、結果的に、助かったぜ、女騎士…… 礼は言っておく」


 海斗は、激しく痛む腹部を押さえながら、しかし負け惜しみを言うかのように、悪態をつくように、かろうじて礼の言葉を口にした。彼のプライドは、ズタズタに引き裂かれていた。計算外の事態、そして自身の無力さを露呈した事実に、内心では激しい屈辱を感じていた。


「あなた! 大丈夫ですの!?」


 カナールが、心配そうな表情で、彼のそばに駆け寄ってきた。その青い瞳には、先ほどの恐怖の色はほとんど消え去り、代わりに、海斗に対する強い好奇心と、そして何故か、まるで物語の英雄を見るかのような、キラキラとした憧憬にも似た感情のきらめきが浮かんでいるように、海斗には見えた。


「ああ、まあな。ちょっと油断しただけだ。計算が狂った。それより、あんたこそ、怪我はねえか?」


 海斗は、痛みを必死に堪え、努めて普段通りの、不遜で自信に満ちた態度で答えた。弱みを見せるなど、彼のプライドが許さない。


「私は、大丈夫ですわ……。シルヴィアが守ってくれましたから。それよりも、貴方、本当に一体……? その服装も、言葉遣いも、そして、あの……不思議な戦い方(?)も……。それに、先ほど、カイト…と? 確か、そう名乗られましたか?」


「俺はカイト。三条海斗だ。見ての通り、この世界の人間じゃねえ。まあ、いわゆる異世界ってやつから、ちょっとした事情で、飛ばされてきたのさ。あんたの名前は……まあ、さっき自分で名乗ってたか」


 海斗は、もはや隠す必要もないと判断し、悪びれる様子もなく、堂々と自身の素性を明かした。シルヴィアは、ますます眉をひそめ、警戒の色を深めたが、対照的に、カナールは、その青い瞳を、まるで宝石のようにキラキラと輝かせた。


「異世界!? まあ、なんてこと! 本当に、そんなことが……! カイト、貴方、本当に、全く別の世界から……!? すごいわ! なんて面白いのかしら! 父上の書斎にあった、古い本で読んだことがあるけれど、まさか実在したなんて!」


 カナールは、まるで未知の、極めて珍しい玩具や生き物を見つけた子供のように、純粋な興奮と好奇心に満ちた表情で、海斗に詰め寄った。その反応は、海斗が予想していたものとは、かなり異なっていたが、彼の自尊心をくすぐり、決して悪い気はしなかった。


「カナール様、あまり不用意に、この者に近づいてはなりません……。素性も定かではなく、言動も不審。極めて怪しい男です。あるいは、敵国の手の者である可能性も……」


 シルヴィアが、鋭い視線で海斗を牽制しながら、冷静に、しかし強い口調でカナールを諌める。


「もう、シルヴィアは心配性ね! いいのよ! この人、カイトは、決して悪い人ではないわ! だって、私たちを、この私を、身を挺して助けようとしてくれたのですもの! ね、カイト!」


 カナールは、海斗の期待された英雄的活躍とは裏腹に、結果は残念ながら滑稽な茶番劇と化した行動を、なぜか、極めて英雄的で、勇敢な行為であったかのように、非常に肯定的に捉えているようだった。その、あまりにも純粋で、人を疑うことを知らないかのような、あるいは、致命的なまでに世間知らずで、状況判断能力に欠ける一面に、海斗は内心で少し呆れつつも、同時に、この少女ならば、御し易く、自分の目的のために利用するのは、極めて容易いかもしれない、と打算的な思考を巡らせ始めていた。


「なあ、カナール。俺は、見ての通り、この世界じゃ完全に無一文で、行く当てもねえんだ。しばらくの間、あんたたちの世話になっても構わないか? この世界の常識とかを、色々と教えてほしい。もちろん、その見返りとして、俺の持つ、この世界にはない、高度な知識が必要だというなら、いくらでも貸してやるぜ? 俺の頭脳は、そこらの凡百の学者や魔術師とはレベルが違うからな」


 海斗は、この千載一遇の機会を最大限に利用すべく、ちゃっかりと、しかしあくまで対等な立場であるかのように装いながら、保護と情報提供を要求した。


「まあ! もちろんですとも! ぜひ、私たちの王城にいらしてくださいな! 貴方のその『科学』?とかいう、異世界の知識、もっともっと、詳しく聞かせてほしいのです! きっと、亡き父上の代からの、このリヴィエール王国が抱える、山積した問題を解決するための、重要なヒントが隠されているに違いないわ!」


 カナールは、海斗の申し出を、まるで待ち望んでいたかのように、満面の笑みで、二つ返事で快諾した。その瞳は、海斗の持つ知識と能力?に対する、ほとんど根拠のない、しかし熱烈で、純粋な期待に満ち溢れていた。彼女は、若くして国を背負うという重圧の中で、現状を打破するための、何か新しい力、新しい希望を、無意識のうちに渇望していたのかもしれない。そして、その対象として、異世界から来たという、自信家で、不遜で、しかしどこか魅力的な青年、カイトに、運命的な何かを感じ取ったのだろう。使命感は人一倍強いが、どうにも思い込みが激しく、早合点しがちな、危うい性格の持ち主であるらしかった。


「カナール様、しかし、そのような安易な……」


 シルヴィアは、なおも冷静に、そして強い懸念をもって反対しようとしたが、カナールは、もはや聞く耳を持たない。


「もう、いいの! 私が、この国の皇女として、そう決めたことよ! シルヴィア、カイトを丁重に王城へお連れしてちょうだい。怪我の手当も必要でしょうし。それから、彼には、その知識と能力に見合った、ふさわしい地位と待遇を用意するように、急ぎ、宰相にも伝えてちょうだい! そうね……私の、個人的な、特別相談役、とかどうかしら! きっと、素晴らしいアイデアだわ!」


 カナールの、やや現実離れした、空回り気味ではあるが、しかし彼女の立場と、有無を言わせぬ強い意志のこもった勢いに、さすがのシルヴィアも、それ以上の反論を諦めたようだった。彼女は、深々と、そして極めて憂鬱そうなため息をつくと、苦々しい、そして未だ警戒を解いていない表情で海斗を一瞥し、そして諦めたようにカナールに向き直った。


「……御意のままに、いたします。ですが、カナール様。この男の処遇、そして王城内での自由な行動範囲につきましては、くれぐれも、慎重にご判断なさるべきかと存じます。城に戻り次第、改めて、詳細についてご相談させていただけますでしょうか」


「ええ、ええ、わかっていますとも、もう! さあ、カイト、参りましょう! 私たちの、リヴィエール王国の王城へ!」


 こうして、三条海斗は、異世界で最初に遭遇した生命の危機を(完全に他力によって)乗り越え、リヴィエール王国の第一皇女カナール・リヴィエール・デルタと、その忠実にして有能な親衛隊長シルヴィアに、半ば強引に保護される形で、王城へと向かうことになった。彼は、隠していたアルゴス・ターミナルを回収し、その存在を二人には悟られぬよう、細心の注意を払った。シルヴィアが、彼が木の根元で何かを拾い上げた動作に、一瞬、怪訝な表情を見せたことに、海斗は気づいていたが、今は追及されることはなかった。彼の異世界における波乱万丈の物語は、彼自身の予測や意図とは、少し、いや、かなり異なる形で、しかし確実に、その幕を開けたのである。彼がこれから歩む道が、単なる英雄譚ではなく、光と影、成功と失敗、そして重い責任を伴うものであることを、彼はまだ、知る由もなかった。


 3. 王城の特別相談役(仮)、叡智の記録庫への挑戦


 リヴィエール王国の首都リヴェルハイム、その中心に聳える王城は、遠景から望めば、確かに、おとぎ話に出てくるような、白亜の美しい城塞としての威容を誇っていた。しかし、その城門をくぐり、内部へと足を踏み入れた瞬間、海斗が抱いた第一印象は、その外観から受ける壮麗さとは、大きくかけ離れたものであった。城壁や塔には、長年の風雪による浸食や、あるいは過去の激しい戦禍によるものであろう、生々しい傷跡が数多く残り、その補修も、明らかに場当たり的で、十分とは言えない状態だ。城の内部も同様であった。広大な廊下の床を覆う磨かれた石畳には、無数の細かい傷や、人々の往来によって摩耗した窪みが走り、壁面を飾るはずの豪奢なタペストリーは、その多くが色褪せ、擦り切れ、あるいは完全に失われて、ただシミの残る壁が露出している箇所さえある。廊下の壁に設置された、かつては美しい装飾が施されていたであろう魔法灯の幾つかは、魔素の節約のためか、あるいは単純な劣化か、弱々しく点滅を繰り返していたり、完全に消灯しているものも少なくない。城内を行き交う侍従や文官、武官たちの服装も、決して華美とは言えず、むしろ質実剛健、あるいは単に質素といった印象で、その表情には、一様に、日々の過酷な職務や、あるいは国の不安定な将来に対する、深い憂慮と疲労の色が濃く滲み出ている者が多い。魔素枯渇の影響は、国の心臓部である王城にまで、確実に影を落としていた。消えかかった街灯や、活気を失った城下の市場の様子からも、それは明らかだった。


(ふぅん……外面だけは立派だが、内情は火の車、といったところか。見かけ倒し、というわけだな。この国、見た目以上に、相当ヤバい状況にあると見た。財政難か、内紛か、あるいは近隣の強国からの圧迫か……理由は不明だが、明らかに深刻な問題を、いくつも抱えている。女神が言っていた魔素枯渇とやらの影響も、思った以上に深刻なのかもしれん)


 海斗は、彼の持つ鋭敏な観察眼と、論理的推論によって、この国の置かれた、決して楽観視できないであろう状況を、即座に推察した。アルゴス内蔵のLLMにこの世界の情報を問い合わせても、「リヴィエール王国に関する情報は、データベース内に存在しません」という無機質な回答しか返ってこない。異世界の知識は、自力で収集・分析するしかないのだ。弱小国家。それが、彼の最初の評価であった。


(だが、まあ、それはそれで好都合だ。安定しきった、完成された国など、俺にとっては退屈なだけだ。問題が山積している方が、俺の持つ知識と、このアルゴスの力が、より劇的に、そして効果的に活躍する余地があるというものだ。むしろ、歓迎すべき状況とさえ言える)


 彼は内心で、挑戦的かつ不敵な笑みを浮かべた。困難な状況であればあるほど、彼の知性は刺激され、その能力を発揮する機会を得るからだ。


 カナールによって、半ば彼女の独断と、周囲の困惑の中で、強引に「皇女付き特別相談役(仮)」という、何とも曖昧で、前例のない役職を与えられた海斗は、王城内の一角に、質素ではあるが清潔な一室を与えられ、当面の衣食住と、身の安全を保障されることになった。宰相や他の貴族からは、その異例の抜擢に対して、表向きは皇女の意向を尊重しつつも、裏では強い懸念や反対の声が上がっていたようだが、カナールが「彼の知識は必ずや王国を救う」と強く主張し、押し切った形だった。親衛隊長のシルヴィアは、依然として海斗に対して深い警戒心と、あからさまな不信感を抱いていたが、主君である皇女の決定には公然と逆らうことはできず、表向きは、礼儀を保ちつつも、常に監視の目を光らせているようであった。


 海斗に与えられた、表向きの主な職務は、カナール本人や、その幼い弟であるレオン王子、そして王族や有力貴族の中から選抜された、将来を嘱望される数人の子弟たちに対して、彼の持つ異世界の知識、すなわち、彼らが「科学」と呼ぶことになるであろう、体系化された知識を教授することになった。当初、カナールは「家庭教師」という、より穏当な名目を提案したのだが、海斗自身が「俺は、人にへりくだって何かを教えるような、そんな殊勝なタマじゃねえ」と、彼の性格通りに尊大に主張し、それに対してカナールが「それならば、私の個人的な相談役として、皆に、その素晴らしい知恵を授けてちょうだい!」と、やや論点をずらしながらも押し切った結果、そのような、実態のよく分からない役職名に落ち着いたのであった。


 海斗の行う「授業」(というよりは、彼の知識の、一方的な披露と解説)は、当然ながら、極めて型破りなものであった。定められた教科書もなければ、体系的なカリキュラムも存在しない。彼が、その場の思いつきや、生徒(主にカナール)からの質問に応じて興味を持ったテーマ――それは、高度な数学の定理であったり、宇宙の成り立ちに関する物理学の理論であったり、あるいは、元素の周期律や化学反応の原理であったり、さらには、地球における国家の興亡史や、多様な社会システム、経済理論に至るまで、極めて多岐にわたった――について、絶対的な自信を持って、時には、この世界の人間には到底理解不能であろう高度な専門用語や数式を、一切の注釈なしに多用しながら、滔々と、そして一方的に語る、という形式であった。しかし、その内容は、魔法という異なる理が世界の根幹を成しているこの世界の人間にとっては、驚きと、知的興奮と、そして新たな発見に満ち溢れており、特に、他の誰よりも強い知的好奇心を持つカナールは、まるで未知の世界への扉が開かれるのを目の当たりにするかのように、その青い瞳をキラキラと輝かせ、食い入るように聞き入った。


「すごいわ、海斗! 本当にすごいのね! この世界の森羅万象が、そのような、美しく、そして厳密な数式や法則によって記述できるなんて! それは、まるで、最高位の魔法体系にも匹敵する、あるいは凌駕するほどの、深遠な知の体系ではないかしら!」


 カナールの、具体的な根拠は何もない、しかし、彼女の切実な願いと、海斗への盲信に近い期待が込められた、真っ直ぐな言葉。その純粋さ、あるいは危うさに、海斗は内心でこの娘は実に御し易い、利用価値は極めて高いと冷徹に判断しつつも、同時に、彼女のその曇りのない期待に応えてやりたい、という、彼自身にも予期せぬ微かな感情が芽生え始めているのを、感じずにはいられなかった。


 そんな、奇妙な師弟関係とも、あるいは歪んだ共依存関係とも言えるような日々の中で、海斗は、城内での自由時間を最大限に活用し、この世界の情報を系統的に収集し、アルゴスの巨大なデータベースを、加速度的に充実させていくことに没頭した。王城の構造、人々の生活様式、政治体制、経済状況、そして何よりも、この世界の根幹を成す「魔法」という未知の力の原理と体系。それら全てが、彼の飽くなき知的好奇心と、アルゴスの無限の分析能力の対象となった。そして、彼の探求心を最も強く刺激し、引きつけたのが、城の北西の隅に、まるで忘れられた時代の遺物のように存在する、あの古びた塔――王宮記録保管所であった。


 そこで彼は、王宮記録管理官補佐を務める、一人の少女と出会うことになる。彼女の名前は、アルシヴィ。カナールとほぼ同じ、16歳の、小柄で華奢な少女だった。几帳面にまとめられた黒髪に、大きな丸眼鏡。その奥の瞳は、知的好奇心に輝いているものの、常に何かに怯えているかのように、おどおどと揺れていた。彼女は、王国の記録を代々管理してきた「記録者(クロニクラー)」の家系に連なり、「正確な記録こそ国を守る」という家訓の下、強い使命感を持って職務に就いていた。真面目だが内気な性格で、記録の整理・管理能力は天才的だが、それ以外の実務や対人関係では、極めて不器用で自信なさげに見えた。記録保管所は、彼女の(そして先達の)手によって、埃一つなく清潔に保たれ、膨大な量の羊皮紙や巻物が、極めて精緻な分類体系に基づいて、整然と書架に収められていた。それは、混沌とは程遠い、まさに「叡智の宝庫」と呼ぶにふさわしい空間であった。


「あ、あ、あの……カイト、様……ですよね? カナール様付きの、特別相談役の……。こ、こんにちは……。何か、お探しの記録でも、ありますでしょうか……?」


 海斗が初めて記録保管所を訪れた際、アルシヴィは、書架の間で、巻物の一つを熱心に読み込み、何かを書き留めていたが、彼の姿を認めると、びくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。その声は小さく、緊張で震えている。地味な色合いの、記録官の制服を着ている。海斗の異質な服装と、鋭い視線に、彼女は明らかに戸惑い、警戒している様子だった。視線を合わせようとせず、声もわずかに震えている。


「ああ。あんたが記録管理官補佐のアルシヴィか。カナールから話は聞いている。ここは、大したもんだな。噂には聞いていたが、これほど膨大で、しかも完璧に整理された記録庫は、俺の世界でもそうそうお目にかかれるもんじゃねえ」


 海斗は、予想外に整然とした記録庫の様子と、目の前の少女から伺える几帳面さと記録への情熱に、素直な感嘆と興味を覚えた。彼の、何の裏もない、純粋な能力への賛辞に、アルシヴィは驚いたように顔を上げ、眼鏡の奥の瞳を瞬かせ、頬をわずかに赤らめた。彼女の仕事ぶりを正面から評価する者は、これまであまりいなかったのかもしれない。


「い、いえ、そんな……! 私なんて、まだまだ見習いですし……。これは、代々、我が家が受け継いできた記録管理の作法と、先達の努力の賜物ですから……。私一人では、とても、とても……」


 謙遜しながらも、その瞳には、自らの仕事と家系に対する、静かで強い誇りが微かに宿っているのが見て取れた。海斗の言葉が、彼女の内に秘めた自信を少しだけ引き出したようだった。しかし、まだ警戒心は解けていないようで、視線は落ち着きなく泳いでいる。


「ふぅん……。まあ、誰の功績だろうが、このデータは一級品だ。俺にとっては、まさに宝の山だぜ。どうだ? 俺に、この記録庫のデータへの、完全なアクセス権をくれないか? もちろん、ただとは言わねえ。俺のデータサイエンスの知識と、このアルゴス・ターミナルと呼ばれる不思議な計算機を使えば、この記録から、この国が抱える問題を解決するための、具体的なヒントを、いくらでも引き出してやれるぜ?」


 海斗は、単刀直入に、しかし相手の専門家としてのプライドを尊重する形で、取引を持ちかけた。


「えっ!? ほ、本当ですか!? カイト様の、あの……『科学』の力で、この記録を……分析して、国の役に立てる、と……? そ、そんなことが、本当に、可能なんですか……?」


 アルシヴィは、信じられないという表情で、目を丸くした。記録の価値を誰よりも理解しているからこそ、それが単なる過去の保存物ではなく、未来を切り拓くための「データ」として活用され得るという海斗の言葉は、彼女にとって衝撃的であり、同時に、記録管理官としての夢を刺激するものだったのだ。彼女の警戒心が、強い好奇心によって上書きされていくのが見て取れた。


「ああ。俺の専門は、データサイエンス。膨大なデータの中から、人間では見つけられないような、意味のあるパターンや法則性を見つけ出し、未来を高精度で予測し、問題を効率的に解決することだ。そして、この完璧に整理された記録は、そのための、これ以上ない最高の素材だ」


「そ、それなら……! ぜひ、お願いします! この記録が、カイト様のお力で、本当に国のお役に立てるのなら……記録管理官見習いとして、これ以上の喜びはありません! ど、どうぞ、ご自由に、全ての記録にアクセスしてください! 私も、記録の内容や、形式については詳しいですから、全力で協力させていただきます!」


 アルシヴィは、興奮と期待に声を弾ませ、力強く、何度も頷いた。彼女にとって、海斗は、自らが全身全霊で守り続けてきた記録に、新たな価値と、未来への可能性を与えてくれる、まさに希望の存在に見えたのかもしれない。


 こうして、海斗と若き記録管理官補佐アルシヴィの間には、互いの能力を認め合い、記録の活用による国益創出という共通の目的を持つ、建設的な協力関係が築かれた。海斗はアルゴス・ターミナルを記録保管所に持ち込み、そのデバイスの異質さと機能にアルシヴィは再び驚嘆したが、海斗は「俺の世界の最新技術だ」とだけ説明し、詳細を巧みにはぐらかした。アルシヴィの案内と、彼女が持つ記録に関する深い知識、例えば記録された数値の定義や収集方法の変遷、欠損データの有無などの説明を受けながら、彼女が完璧に整理・分類した記録データを、アルゴス・サーバーへと驚異的な速度で転送し、分析可能な形式のデータベースとして構築する作業を開始した。

 特に、彼が注目したのは、やはり農業に関する、極めて詳細かつ長期にわたる、多種多様な記録であった。気候変動パターン、地域ごとの土壌成分の精密な経年変化データ、特定の病害発生の地理的・時間的分布とその被害規模、過去に試みられた様々な農業政策とその効果測定記録……データは完璧だった。


(これだけ質・量ともに揃っていれば、アルゴス・サーバーの計算能力と、LLMが持つ地球の農業知識を組み合わせれば、この世界の状況に最適化された、極めて効果的な改善策を導き出すのは、もはや時間の問題だ……!)


 海斗の精神は、目の前にある膨大なデータと、それを解析するためのアルゴスという強力なツール、そして自身の知識によって、極めて高い集中状態にあった。女神が言っていた「精神状態による性能変動」を、彼はこの時、明確に体感していた。自信と、知的好奇心と、そして「この未開な世界の連中に俺の力を見せつけてやる」という傲慢なまでの意欲が、彼の脳内で化学反応を起こし、それがアルゴス・サーバーへの接続を最適化しているかのように感じられた。ターミナルへのコマンド入力は滑らかで、サーバーからの応答速度も、普段よりも明らかに速い。複雑なデータクレンジングや、複数のデータベースを結合する処理が、まるで思考と同時に完了していくかのような、全能感に近い感覚。


(これが、アルゴスと精神の連動か……。なるほど、面白い。俺が「ゾーン」に入れば、こいつの性能も最大限に引き出せる、というわけだ。フン、ならば、常に最高の精神状態を維持してやればいいだけの話だ)


 海斗にとって、アルシヴィが提供してくれた、完璧に整備された「生データ」の集積は、彼のデータサイエンス能力を最大限に発揮し、この異世界で目覚ましい成果を上げるための、またとない、最高の舞台装置となった。彼は、アルゴス・ターミナルに向かい、その滑らかなキーボードを叩きながら、具体的な農業改善計画の立案に、本格的に着手した。それは、この異世界における、彼の最初の、そして極めて重要な「仕事」となるはずであった。彼の野心と、この国の運命が、彼の指先から放たれるコマンドによって、静かに、しかし確実に、交差し始めた瞬間だった。


 4. オレ様理論の実践、軋轢、そして予想だにしなかった成功


 王宮の一角、古いが整然とした記録保管所。そこは今、異世界から来たデータサイエンティスト、三条海斗の独壇場と化していた。リヴィエール王国が長年抱える深刻な農業問題――不安定な収穫量と、原因不明の奇病『灰枯れ病』。それは、彼の知的好奇心と、「この未開な世界を俺の知識で最適化してやる」という傲慢なまでの野心を激しく刺激する、格好のターゲットだった。


 彼の傍らには、女神から与えられた超高性能計算機、アルゴス・ターミナルが静かに駆動している。今の海斗は、自らの能力に対する絶対的な自信に満ち溢れていた。その揺るぎない精神状態が、アルゴスの性能――特に無尽蔵ともいえるGPUメモリ(演算リソース)――を限界まで引き出しているのを、彼は明確に感じていた。


「アルシヴィ、次のデータだ。過去50年分のコムギとリヴィ芋の地域別作付面積と収穫量。それから、対応する期間の降水量、気温、日照時間の記録。可能な限り細かい粒度で頼む」


 海斗がターミナルに視線を固定したまま指示を出すと、記録管理官補佐の少女、アルシヴィは「は、はい!」と以前よりは少し落ち着いた様子で頷き、書架の間へと駆けていく。彼女の記録管理能力は本物だった。代々受け継がれてきた「記録者」としての知識と技術は、複雑な分類体系の中から、海斗が必要とする情報を驚くべき速さで的確に探し出すことを可能にしていた。


「カイト様、こちらが該当期間の農事録と気象観測記録です。古い記録は単位や様式が異なりますが、注釈をつけておきました。それと、土壌に関する記録では、この『豊穣度指数』が魔素含有量を示しています」


 差し出された羊皮紙の束と、アルシヴィの的確な補足説明。海斗はアルゴス・ターミナルの高度なOCR機能と翻訳機能を使い、アナログデータをデジタル化し、整形していく。アルシヴィの説明に基づき、異世界の単位や指標を現代科学のフレームワークに変換し、欠損データは統計的に補完する。


「フン、使えるやつだ」海斗は、黙々と作業をこなすアルシヴィを内心で評価した。「記録者の家訓とやらは伊達じゃないらしい」。彼の(やや上から目線な)評価は、内気なアルシヴィの頬をわずかに赤らめさせ、彼女の使命感をさらに強くさせた。彼女もまた、自らが守ってきた記録が、目の前の異世界人の手によって新たな価値を生み出そうとしていることに、強い興奮と期待を感じていた。


 データの前処理が完了すると、海斗は本格的な分析に取り掛かった。まずは、収穫量不安定化の原因究明だ。


「よし、収穫量変動の核心に迫るぞ」彼はインターフェースに向き直る。「単純な線形モデルじゃ、この複雑な変動は捉えきれん。時系列データの非線形な関係性をモデル化するには…深層学習を使うしかない」


 彼の思考は高速で回転し、現代のデータサイエンスの知識体系を異世界のデータセットに適用していく。気象データ、土壌データ(リウム、セレン濃度、酸性度、魔素含有量…)、過去の収穫量、作付け品種、イベントデータ…利用可能な全ての時系列データを特徴量として抽出し、適切な前処理を行うPythonコードを、彼は淀みなく書き上げていく。


「モデルは…Attentionメカニズム付きのLSTMネットワークだ。これで、長期かつ複雑な依存関係を捉えられるはずだ」


 彼はネットワークアーキテクチャをコードに落とし込み、損失関数や最適化アルゴリズムを設定する。


「アルゴス!」


 俺はターミナルに最終的な実行コマンドを叩き込んだ。


「ここに記述したLSTMモデルの学習を開始しろ。ハイパーパラメータはベイズ最適化で探索。GPUは…リミッター解除だ、使えるだけのリソースを全て投入しろ! 最速で結果を出せ!」


(ふん、これでよし。アルゴス、お前の演算能力を最大限に引き出してやる。俺の頭脳と、お前の計算能力。この異世界で、どれだけのことができるか、見せてもらうぞ)


 彼のコマンドを受け、アルゴスはその真価を発揮する。無尽蔵の演算リソースがフル稼働し、通常なら数週間を要するであろう深層学習モデルのトレーニングが驚異的な速度で進行していく。


 やがて、最適化されたモデルが完成する。「ふむ…予測精度は十分だな」海斗は評価指標を確認し、頷く。「だが、予測だけでは意味がない。何が収穫量を左右しているのか、その『要因』を特定しなければ対策は立てられん。モデルの解釈性だ」


 彼は再びインターフェースに向かい、アルゴスにプリインストールされていたSHAPライブラリをインポートし、学習済みのLSTMモデルとデータセットを入力としてSHAP値を計算するためのコードを書き始めた。


「よし、これでいいだろう」コードを書き終え、彼はアルゴスに命令を下す。「アルゴス、このSHAP計算コードを実行しろ。リソースは惜しむな。完了次第、結果を要約プロットとして可視化しろ!」


 アルゴスが再び計算を実行し、しばらくして、特徴量の重要度を示すグラフが表示された。


「…ビンゴだ」


 海斗はそのSHAP要約プロットを見て、確信を持って呟いた。予測値を押し下げる方向に強く寄与している特徴量…それは、特定の生育期間における『降水量(負の値)』、そして土壌データに含まれる『リウム濃度(低い値)』と『セレン濃度(低い値)』だった。「やはり、水不足が最大のネガティブ要因。そして、この世界特有の微量元素の欠乏がそれに次ぐ。こいつらを改善できれば、収穫量は劇的に安定化するはずだ」


 次に、彼は『灰枯れ病』の分析に取り掛かった。発生地点、環境データ、土壌データを統合し、空間統計分析とランダムフォレストのコードを実装し、アルゴスに実行させる。


 結果は明確だった。「特定の高温多湿条件、酸性土壌、そして発生前の『西風』。この三つの条件が揃うと、発生確率が指数関数的に上昇する。風媒性の病原体で間違いなさそうだ」


 原因が特定できれば、解決策は自ずと見えてくる。海斗はアルゴス内蔵のLLMにアクセスし、類似の課題に対する解決策を検索した。水不足対策としての効率的な灌漑技術、土壌改良のための微量元素補充法、そして灰枯れ病に類似した病害への古典的な予防策。彼は、LLMが提示した地球の知識を、アルシヴィから得た異世界の状況(利用可能な資源、魔素の状況、既存技術レベルなど)に合わせて最適化し、具体的な解決策へと落とし込んでいった。


 それは、段々畑に適した小規模分散型の貯水・送水システムによる灌漑改善、近隣で産出される特定の鉱石粉末と有機堆肥を組み合わせた土壌改良及び施肥計画、そして、石灰による土壌酸度調整と、この世界に自生する特定の薬草(硫黄成分を含む)を用いた予防的防除策の三本柱からなる計画だった。さらに、環境条件を監視し、灰枯れ病の発生リスクが高まった際に警報を発する、シンプルな早期警戒システムの概念も盛り込んだ。


 アルゴスによるシミュレーションは、この計画が実行されれば、収穫量は平均して3割以上増加し安定化、灰枯れ病の被害は9割以上抑制可能である、という驚くべき結果を弾き出した。


「できた…」


 海斗は、アルゴスが美しい図表と共に羊皮紙に出力した、分厚い計画書の束を手に取った。その緻密さと具体性、そして示された希望的な未来予測に、隣で見ていたアルシヴィは感嘆の声を漏らす。「すごい…すごいです、カイト様! 私が守ってきた記録が、こんな風に国の未来を照らすなんて…!」


(よし、こんなもんだろう。我ながら、完璧な計画だ。データの裏付けも、理論的根拠も、シミュレーション結果も、全て揃っている。これで、あの頭の固い、旧弊なボンクラ大臣どもを、文字通りギャフンと言わせてやるぜ。俺の実力を見誤っていたことを、骨の髄まで後悔させてやる)


 海斗の口元に、彼の揺るぎない自信と、この異世界を自らの知識で「最適化」してやろうという野心を映した、不敵な笑みが深く刻まれた。彼の異世界における最初の大きな「仕事」は、今、まさに完成の時を迎えたのであった。


 そして、すぐさまカナールに謁見を求め、国家の最高意思決定機関である御前会議の場で、この計画を発表するための機会を、半ば当然の権利であるかのように要求した。カナールは、海斗のその自信満々な態度と、提示された計画の、一見しただけでも分かる斬新さ、そして何よりも、そこに示された具体的な改善効果の予測値に、目を輝かせ、ほとんど即座に、二つ返事でその要求を了承し、異例の速さで、御前会議の開催を取り計らった。彼女の胸中には、海斗への個人的な好意と、彼の能力に対する(いささか根拠薄弱な)絶対的な信頼、そして、この計画が成功すれば、父王の代からの懸案であった国の窮状を救えるかもしれないという、切実な期待が渦巻いていた。


 そして、運命の御前会議の日が訪れた。玉座には、若き皇女カナールが、緊張した面持ちながらも、凛とした姿勢で座している。その周囲を、宰相をはじめとする、国の重鎮である主要閣僚、王国軍の最高幹部である将軍たち、そして国内に広大な領地と影響力を持つ有力貴族の代表たちが、厳粛な雰囲気の中で取り囲むように居並んでいる。彼らは皆、これから異世界から来たという、皇女が個人的に寵愛している(と噂されている)若者――三条海斗――が、国家の根幹たる農業政策について、一体どのような「画期的」な提案を行うのか、依然として深い懐疑と、あからさまな侮り、そしてわずかな好奇心が入り混じった、複雑な視線を向けていた。記録管理官補佐のアルシヴィも、末席で、緊張のあまり顔面蒼白になりながら、小さくなってその様子を見守っていた。


「カイト。本日は、我が国の農業政策に関して、貴方が立案したという、画期的な改善計画について、皆に説明してくださるとのこと。どうぞ、始めてちょうだい」


 カナールが、張り詰めた空気の中で、努めて冷静に、しかしその声には隠しきれない緊張の色を滲ませながらも、凛とした声で、会議の開始を促した。


「ああ、任せておけ。すぐに終わらせてやる」


 海斗は、まるで退屈な義務を果たすかのように、尊大な態度で短く頷くと、玉座の前に悠然と進み出た。傍らには、アルゴス・ターミナルが置かれた小さな台が用意されている。彼は、ターミナルを操作し、ラップトップ上に投影された画面に、アルゴスが生成した、極めて分かりやすく、視覚的に訴える力を持つグラフや図表、シミュレーション映像を表示させながら、絶対的な自信に満ちた、しかし同時に、聞く者の神経を逆撫でするような、挑発的な口調で、そのプレゼンテーションの口火を切った。


「さて、ここに集まってくれた、リヴィエール王国の、自称『指導者』諸君。今日は、貴様らが、おそらくは何世代にもわたって、無為無策のまま放置し、悪化させてきた、この国の、救いようのないほどクソみたいな農業問題を、この俺様の、貴様らには到底理解不能であろう、高度な科学知識と論理によって、根本から、そして完全に解決してやる方法を、特別に、この俺が、直々に教えてやる。せいぜい、耳の穴かっぽじって、ありがたく拝聴するんだな」


 その、前代未聞の、あまりにも不遜極まりない口上に、厳粛な雰囲気に包まれていた会場は、一瞬にして、水を打ったような静寂に包まれた。そして、次の瞬間、その静寂は、激しい怒号と、罵声と、侮蔑の言葉の嵐によって、完全に打ち破られた。


「な、なんだと、貴様! その無礼な口の利き方は!」


「この若造が! 皇女殿下の御前であるぞ! 不敬にもほどがある!」


「異世界から来たというだけで、思い上がりも甚だしいわ! 身の程を知れ!」


「そのような戯言を弄するために、我々を呼びつけたのか!」


 しかし、海斗は、その罵詈雑言の嵐の中にありながら、全く動じる様子を見せない。むしろ、彼らのその感情的な反応を、予測通りであるとでも言うかのように、あるいは、愚かな者たちの反応を楽しんでいるかのように、薄く、冷ややかな笑みを、その口元に浮かべていた。


「うるせえぞ、時代遅れの雑魚どもが。感情的に喚くことしかできねえのか? 口先だけで、威勢のいいことを言うだけなら、それこそ子供でもできる。俺は、貴様らのような、旧弊な慣習と、根拠のない経験則に凝り固まった頭では、逆立ちしても理解できねえであろう、客観的な『データ』と、厳密な『科学的根拠』に基づいて、論理的に話をしているんだ。その違いが理解できねえなら、今すぐこの場から立ち去り、無能な自分を恥じながら、余生を送るがいい。どうせ、貴様らみたいな、過去の遺物がいくら集まったところで、この国が抱える深刻な問題は、未来永劫、何一つ解決しねえんだからな」


 海斗の、相手のプライドを完璚なきまでに叩き潰すような、挑発的な言葉。しかし、その言葉の裏には、揺るぎない、絶対的な自信が漲っていた。そして、彼が、アルゴス・ターミナルを巧みに操作しながら、スクリーンに映し出される、極めて詳細なデータ、美しいグラフ、そして論理的で、緻密で、かつ具体的な改善計画――アルゴス内蔵LLMから引き出した知識に基づく最新の工学理論を応用した灌漑設備の導入計画、精密な土壌分析データとLLMの知識を組み合わせた地域ごとの最適な施肥計画、気象予測とLLMの植物病理学知識を連動させた病害発生の早期警戒システムと予防策など――を、よどみなく、そして圧倒的な情報量で提示していくにつれて、あれほど激しく反発していた大臣たちも、徐々に、その言葉に引き込まれていかざるを得なかった。何よりも、海斗の計画が、彼らが長年、解決策を見出せずに頭を悩ませ続けてきた、この国の農業問題に対する、具体的で、斬新で、そして何よりも、実現可能であるかのように思える、魅力的な解決策を示していたからだ。彼らの海斗に対する感情は、嫉妬や反発から、畏敬と、そしてある種の恐怖へと、複雑に変容し始めていた。


「す、すごいです……! カイト様、本当に、本当にすごい方だったんですね……! 私が管理している記録が、カイト様の、その……アルゴス・ターミナルと呼ばれる不思議な計算機と知識にかかると、こんな……こんな素晴らしい奇跡を起こすなんて……! わ、私、記録管理官として、本当に嬉しいです!」


 記録管理官補佐のアルシヴィは、王宮の一室で、成功の報告を聞き、感極まって涙ぐみながら、海斗に心からの賞賛と感謝の言葉を伝えた。彼女の瞳は、純粋な尊敬と、そして少しばかりの憧憬の色に潤んでいた。彼女の完璧な記録管理と、会議での勇気ある発言が、この成功の基盤の一部となったことも、海斗はきちんと評価していた。


 カナールは、王の執務室で、全ての報告書に丁寧に目を通した後、満面に、心からの喜びと、そして安堵と、未来への確かな希望を湛えた、輝くような笑みを浮かべて、海斗に向き直った。その青い瞳には、以前にも増して強い、揺るぎない信頼と、そして、もはや隠そうともしない、熱い好意の色が溢れていた。


「やったわね、海斗! 本当に、すごいのね! さすが、この私が、一目見て非凡な才能を見抜いただけのことはあるわ! これで、きっと、このリヴィエール王国も、父上の御代の頃のような、活気と豊かさを取り戻せるはずよ!」


「ふん、当然の結果だ。驚くには値しない。これくらいで一々感心するなよ、カナール。いいか、覚えておけ。この俺様と、アルゴスの力にかかれば、こんなものは、まだほんの序の口、ウォーミングアップに過ぎないんだぜ?」


 海斗は、カナールの手放しの賞賛を、さも当然であるかのように、尊大な態度で受け止め、不遜な笑みを返した。しかし、その内心では、予想を遥かに超えた劇的な結果と、報告書に記された、あるいは伝え聞く、民衆の素直な喜びの声に、わずかながら、これまで彼が感じたことのない種類の、純粋な達成感と、そして、ある種の心地よい満足感を、確かに覚えていた。アルゴス内蔵LLMの知識を活用したとはいえ、それを解析し、計画に落とし込み、実行させたのは、紛れもなく自分自身なのだという自負もあった。そして、会議での軋轢を経て、計画を修正し、成功に導いたプロセスは、彼に、単なる論理や効率だけではない、別の種類の達成感を与えていた。


(まあ、悪くは、ないな。自分のデータサイエンス能力と、アルゴスを使って、こうして、目に見える具体的な結果を出し、それが誰かの役に立つ、というのは……。それに、あの記録係の娘……アルシヴィとか言ったか。あいつの指摘も、結果的には役に立った。データだけでは見えない要素もある、ということか……。フン、少しは、認めてやらんでもない)


 彼の異世界における物語は、彼の、常軌を逸した自信過剰な性格と、カナールの、いささか世間知らずで危ういが、しかし真っ直ぐで純粋な期待、そして、女神から与えられたアルゴスという、規格外の力が、複雑に絡み合い、相互に作用し合うことで、彼自身を含め、誰も予想しなかったであろう方向へと、急速に、そして劇的に動き始めていた。彼自身、まだ明確には自覚していない、その強大な力がもたらすであろう、大きな責任と、そして未来に待ち受けるであろう、光と影が織りなす、困難な道のりへと。


 しかし、この目覚ましい成功の裏で、保守派貴族たちの不満は静かに燻り続けていた。彼らは、異世界人の影響力が増大すること、そして伝統的な価値観が揺らぐことに、強い危機感を抱いていた。また、魔素枯渇という根本的な問題は、農業改革の成功によっても、何ら解決されてはいない。海斗の成功は、新たな対立の火種となるかもしれない。夕暮れの、異世界の美しい空の下、彼は、アルゴス・ターミナルを傍らに置き、次なる、より大きな挑戦に向けて、不敵な、そしてどこか愉悦の色を帯びた笑みを、さらに深くするのだった。

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