胸からしたたる一滴を

ハナビシトモエ

へんなきもち

 幼い頃から海老兄と呼んでいた三年上の近所の兄ちゃんに中学までは勉強を教えてもらっていた。よく「海老兄って彼女作んねぇの」と聞くこともよくあった。


 その度に薄く笑いからかうように「そんなことに興味あるんだ。大人だね」と少しハスキーな声で言うのだ。そして抱き上げようと脇に手を入れ比較的身長の低い中学生の僕は暴れると「まだまだ子どもだね」と笑うのだ。


 子どもみたいな扱いをされたせいか余計に意識をして高校に入ってからの生活もあってか。あえて海老沼さんに会わない時間を狙って海老沼さんの親父さんがやっているパン屋さんに通っていた。


 彼女が出来て、キスをした。その先を試みたが上手くいかず、気まずくて別れたのは高二の春。向こうに好きな人が出来た。


 高校に入って海老沼さんの実家、エピパンにはずっと通っていた。店内はピアノの小気味いいメロディーがかかっていた。


 海老沼さんは隣町の大学に行っていたのは知っていたから休みの度に会うのではないかと不安半分期待半分だった。親父さんは余ったパンは夜食にしろと言って分けてくれた。


 高校二年の夏、エピパンは代替わりした。親父さんが大腿骨骨折して復帰のめどが立たず、隣町の大学に行って経営学部に行った息子に継がせるということで、海老兄が大学に行きながらパートさんを同じ学部の女性と一緒に経営している。



 店で会うたびに元気な女性が元気に挨拶してくれる。



「ゆうくん。来てるよ」

 ゆうくんだって、大学に行ってほだされちゃってさ。小学生の時はお化けが怖くておしっこ漏らしていたし、そんな情けないところがギャップってやつ。


「おはようございます」


「おはよ。ほんの三年前まで海老兄ちゃんって呼んでくれたのにつれないな」


「三年はほんのでは無いです。昔からです」


「いい加減弟くんもゆうって呼べばいいのに、距離感近寄っていいのに」


「佐原、さっさと仕事する」

 店内に海老沼さんの声が響いた。


「弟くんは何する」


「クリームパンとソーセージエピパンにアンパンだ。いい加減覚えろ」

 海老沼さんも通えば覚えるのに佐原さんは全然だもんな。


「あっちゃあ、私馬鹿だからまた忘れちゃうかも」


「いいっす。あと弟じゃないんで」


「気にしないで私、背景になるの得意だから」


「背景?」


「だってゆうくん、小さい時から」


「焼けたから並べる」


「はーい。またね弟くん」

 弟じゃないし。



 学校では二人の友人と過ごしている。上位にも呼ばれる三枚目より少し下。

 世渡り上手なのかなんなのか。

 何もしなくても何かやってしまっても非難されることは無い。

 三人の中で参謀と呼ばれている。

 三島は女の子に目が無い、浜松はよく笑う。

 話の方向性はこの二人に任せているので、僕は外を見ている。

 今頃海老沼さんは婦人会の集会用のパンを仕込んでいるのだろう。

 経営学部も中退かな。



「また考えている。そんなに好きなのか」

 僕の頭に電流が走った。


「別に」

 僕はパンをつかんで教室を出た。


「おい昼から雨」



 好きさ、

 ずっと好きだ。



 でも好きの先が分からない。彼女とは出来なかった先を海老沼さんとする時はどうするのか。女の子とでも怖かったのに海老沼さんとするのはもっと怖い。


 ただ手を繋いだり、抱きしめるだけで十分なのに打ち明けたらきっと気持ち悪いと思われる。変だ。僕はおかしいんだ。病気なんだ。


 屋上に飛び出すと大雨だった。濡れる肩、顔にしたたる髪から落ちる粒、濡れるエピパンの紙袋。何をしたかったのか、何をどうすればこの気持ちは排水管から地面にしみ込むのか僕には全く分からなかった。


 僕は階段に腰かけて、濡れた体のまま自分を抱いた。そして心を振り切るように僕はエピパンを食らいつくした。



「ほら、雨だって言ったじゃん。クールちゃんも恋のお悩み?」


「三島みたいに節操無じゃないよ。安城は」


「恋の悩みは高校生の青春の悩み。そんなにあの子が好きかい?」


「おいお前」

 浜松が間に入るが、三島は高らかに宣言する。



「熱海ちゃんとどこまでいったんだ」



 教室は静まり返って、非難の目がこちらへ向く。


「ありり、なんでみんな静かに」


「熱海さんには、好きな人が出来て別れた」

 僕はもう何度目かのやり取りをする。恋愛脳って本当にダメだな。




「傘、無いんじゃないの?」

 帰り道、浜松が傘を渡してくれた。


「走ればすぐだよ」


「使えよ」


「いいって」


「使えって」

 なんでそんなに押し付けるのか。


「さっきラインが来て、姉ちゃんが迎えに来るって」

 浜松の姉の情報を水面から近いところに思い出した。カブを校庭で走り回るくらい奔放で反省をしない人だ。


「そっちが傘いるだろう」


「あれを見ろ。もう遅い」

 遠い校門からカブが入って来た。先生たちが集まる。新任の生徒指導の先生が怒号を上げてカブに近寄る。


「秋、迎えに来たよ」


「遅い」


「先生、グラウンドがぐちゃぐちゃです」

 大人たちは通過儀礼だと言って、生徒指導の先生を下がらせた。


「傘、やる」

 浜松はカブの荷台に乗って、ヘルメットをつけた。


「ガソリンのメーターからっぽだから、国道行くぞ」

 そういって嵐のように去って行った。

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